Book 1-XVI : 近くて遠い存在
一瞬、床下に敷き詰められた黒い物体が波打っているように見えた。それがおびただしい数の蟲であると4人全員が気づくのには数秒を要した。ゴキブリや蜘蛛に混じって、同じく外骨格を持った、あまり地表ではお目に掛かることのない生物も顔を出し、突然明るくなった世界に興奮したのか忙しなく動き回っていた。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ」
半狂乱のアンブローズによってかなぐり捨てられた床板が部屋の反対側まで飛んでいく。
ジョヴァンニはブーツに集ってきた数匹をクロークで叩き落とした。レオは、それがつい先ほど自分が受けた扱いと酷似していることに気づき大いに気分を害したが、同レベルの人間にはなるまいと無理して冷静を装った。
しかし、真の冷静さを見せたのは予想通り姫奈だった。
他の3人はまだ気づいていなかったが、蟲達に踏みつけられながらちゃんと眠っていたのだった、幾何学的な装飾が施された黄金の鍵が。
姫奈は一匹たりとも潰さぬようスカートの裾を片手で押さえながらそっと膝をつくと、鍵を拾い上げた。その鍵にまとわりつく数匹を元いたところへ返してあげてから、ゆっくり息を吹きかけてほこりを落とした。
ジョヴァンニは落ち着きを取り戻すと、いつになく優越感に満ちた目をレオに向けた。
「俺になんか言うことあるだろ?」
「……疑ってすまなかった」
この辱めもあと数時間で終わるのだと自分に言い聞かせながら、レオは姫奈が差し出した鍵の先端を2本の指で摘み、出口に向かった。
「んなぁんだこれは?」
「イヤァー!」
すぐ外で成人男性の怒号と女性の悲鳴が聞こえた。ドアの隙間から無数の蟲達が廊下に進出していたに違いない。
レオは二人が過ぎ去るのを待とうと思ったが、不運にも彼らの足音はこちらに近づいてきた。ドアににじり寄って閂を掛け、聞こえてくる会話に耳を澄ました。
「まさかここにいるのか?」
「ここはフェンシング部ですが……」
「誰かしらはいるかも知れないし取り敢えず当たってみよう」
コン、コン、コン。
ノックされてしまった! ここで誰が何をしているかはまだ知られていないようだが、少なくとも異常事態は察知されている。
「おかしいな、確かに人の気配はするのだが」
それを聞いて4人は微動だにしなくなった。
コッコッコッコ。
ガチャガチャ。
ドアノブを捻る音がした。
「ロックされてんのか? なんか怪しいぞ。またあの不良達が何やら企んでるんじゃないだろうな?」
ガチャガチャガチャ。
「誰かいるんだろう? 開けろ!」
4人は息を殺してじっとしていた。
「お前らな、先生達はその気になれば窓からでも入れるんだぞ? 隠れても無駄だ。今から10秒以内に出てこい。さもなければ校長室行きだ!」
誰かが出なければ。ジョヴァンニは問題外だ。飼育栽培部での功績が学校全体に知られている姫奈も候補の対象から外れた。平民を装った王子なんかが姿を見せたら……。消去法でアンブローズがこの役を引き受けた。
「ほい何すか〜?」
ドアを開け、何食わぬ顔でアンブローズが言った。
教頭だった。20代半ばくらいの女性を連れている。新米の教師か、実習生だろうか。その女性は鉄製のケージを抱えており、それを何かが内側から引っ掻くような音がする。
教頭は一瞬ギョッとした後、口を開いた。
「シルヴェスター! お前……お前、ここで何してる? まあいい。ちょうどお前を探していたんだ」
教頭は一歩脇にずれ、女性が抱えるケージを手で示した。そのケージの中にいたのは、猫と齧歯類を混ぜたような体調30cmくらいの奇怪な動物だった。尻尾を除く全身が5cmくらいの漆黒の毛に覆われ、下顎の犬歯は鋭く口から少しはみ出している。体調と同じくらいある細い尻尾の先端は矢尻のように尖っていて、そこだけ角質で構成されているようだった。以上のことから、この動物は尾を擬似餌か毒棘として使う肉食の哺乳類だと姫奈は分析した。
「お前の部屋からヘンな鳴き声が聞こえると思ったらコイツがいたぞ。コイツはナニモンだ!?」
「え……あ……そ、それは……カブリンっす」
「何だそれは」
「あ、えっと……
「何の?」
「えっと……メディテレーニアン……ワイルド……ブラック……ローデント……みたいな」
「メディテレーニアン・ワイルド・ブラック・ローデント!? ドクター・イヴァノフナ、そんな動物種は存在するのかね?」
「メディテレーニアン……ワイルド・ブラック・ローデント……ですか? え……」
「彼女は新米の生物学講師なのだよ」
イヴァノフナ先生が頭を悩ませる間、教頭がアンブローズに言った。アンブローズは再び胃腸の機能が低下していくのを感じた。
「いいえ。聞いたことがありません」
「本当は、なんの幼獣なんだ!?」
教頭が詰め寄る。
「う……ゴブリン……です」
ゴブリンの
「やっぱり魔界の生物だったか!」
「いや違くて〜!」
「違わないだろう!」
「いやこっちの世界に取り残されてたのを偶然見つけて〜」
「人に危害を加えたらお前、責任取れんのか!?」
「そんなことしないっすよ、めちゃ大人しいんすから!」
「ったくお前の辞書に『責任』の文字はないんだな! まぁ今回は魔力を使った訳ではないから校長には黙っておいてやろう。但し、反省文10ページ書いて始業式までに提出するように。今から親御さんに連絡して、こいつを有識者に引き取りに来てもらうからな」
「いやそれは流石にカンベンしてくださいよ〜シプタミヤ奢るんで」
そもそもアンブローズが寮に入れられたのは、祖父が残していった魔術関連物を彼が危険な遊びに使うのを防ぐためだった。魔術師の近親者に対する社会の目を懸念した両親は、義務教育の全過程をホームスクーリングで修了させるつもりでいた。しかし、大所帯の中で唯一、祖父の魔力が遺伝していた彼は、誰からの手ほどきを受けることもなく魔術の真似事を始めるようになってしまったのだ。彼に手を焼いた両親の最後の頼みの綱が、生徒の持ち物と生活を厳しく管理してくれる学生寮だったのだ。その期待も虚しく彼がこんなトラブルを起こしたことが伝わったら、両親の怒りと落胆は計り知れない。
「お前、教師に対してその口の聞き方はなんだ! よし、反省文は20ページだ。分かったな?」
完成度0%の自由研究に加えてこれか。うなだれたアンブローズの前で仁王立ちしたまま教頭はさらに続けた。
「それとだなぁ、さっき山の方で火を吹く人型の魔物が目撃されたそうだ。コイツと関係あるんじゃないのか?」
「いやいやそりゃないっす!」
それを聞き、入り口からは死角になる位置で耳をそば立てていた3人は同時に頭を抱えた。どういう経緯かは知らないが、運河で揺られているうちに地表では噂が広まっていたのだ。
「同じ日に魔物が2体現れるとはな。偶然にしちゃできすぎじゃないか?」
「いやマジのガチでないっす」
教頭が片眉を吊り上げた。
「もうほんっとに! リュキアのイトレヒに誓ってないっす!」
「リュキアのイトレヒに誓って」というのは、「何時何分何秒太陽が何回回った時?」に匹敵する初等科生徒達の定番フレーズだった。しかし、大人も子どももその真の意味を知らない。ただ、「イトレヒ」とは、ヴァルバリア人の先祖がまだアナトリアに住んでいたはるか昔に存在していた神か権力者のことらしい。
「何もかも有識者に聞けば分かるからな。嘘だったら反省文30ページに100日連続罰当番だぞ」
「分かったっす」
最後の主張だけは事実なので心配は無用だ。
「それでだなぁ、その人型の魔物というのが10代半ばから後半くらいの見た目らしい。身体的特徴からしてお前ではないとは分かっているんだが、この学院の生徒に紛れてるかも知れないってんで騎士団が調査と安全確保のためにもうすぐここに来る。本館内の全員には、今から1時間以内に正門で身体検査を受けてから退館してもらう。他の出入り口は封鎖済みだ。お前がこの部屋で何企んでたかはもう聞きたくもないが、何にせよ騎士団には後で全室くまなく調べてもらうから隠し事は無駄だぞ。分かったらすぐ荷物をまとめろ!」
アンブローズに口を挟む隙を与えないまま教頭は一気に説明し、もりおんを連れたイヴァノフナ先生を連れて歩いていってしまった。
苦虫を噛み潰したような表情で振り返ったアンブローズは、物陰から出てきた3人と目を見合わせた。
「これじゃアルナフィーリャ行けないっすね」
こんな状況ではジョヴァンニは、国土はおろか学院本館からも出られない。運の尽きかとレオは思った。彼を信頼しておけばよかった。あの洞窟から直接港まで連れていってやれば、こんな袋の鼠状態にはならなかったのだ。
「流石にこの建物の地下には隠し通路的なのないっすよね、王子先輩」
レオは眉間に皺を寄せ、黙って頷いた。
「なんとかして出る方法ないかな?」
姫奈が言った。地上階にいるため窓からの脱出は物理的には可能だが、よりにもよって今いる部屋は正門のある道に面している。カーテンの隙間から覗くと、次々と生徒達が帰路についているのが見えた。生徒達が校舎のこちら側に続々と向かってきているのだから、窓のある他の部屋まで誰とも顔を合わせずに向かうのも至難の業だ。
「一つあるだろ?」
レオの持つ鍵を見据えて唐突に呟いたのはジョヴァンニだった。
本館中央にある驚異の部屋は地上階のどの部屋からも「近い」のだが、その唯一の入り口がここからちょうど廊下を挟んだ向かい側の、小走りでわずか数秒のところにある。左右から人が来ないタイミングを見計らって素早く移動することは十分に可能だ。
でも、そんなのダメに決まっている。「あちら側」に彼も連れていくのは精神衛生上悪すぎるし、新たなトラブルの火種にしかならない。第一に、彼をはじめとする不良達に校則の遵守を訴えてきた自分が率先して法を破ろうとしていることが知られたら、どんな人格攻撃を仕掛けられるか分からない。
いや、時間差で行けば、この計画を彼に知られずに済むし、向こうで行動を共にすることもなくなる。今すぐに彼を逃し、自分達は計画通り明日改めて……。
ここでレオは新たな問題に気づいた。1日に「魔物」が2体も出現したのだ。魔界の封印が何者かによって解かれたと推測する者もいるだろう。騎士団が出動した理由は、うち1体が10代の少年の姿をしていたからだけではないはずだ。開かずの扉だって調べられるに違いない。あの件が蒸し返され、現役の不良少年達が尋問に掛けられ、鍵泥棒の帰還が知られ……。
あちら側への渡航を今、決行しないことは、そのチャンスを永遠に逃すことを意味するのだ。気苦労と運動量の多い半日ですでに疲労はピークに達していたが、行くなら今しかない。カイロスの前髪に手が届く今のうちに。
パカラッ、パカラッ、パカラッ。
騎士達が到着してしまった。
この時点でレオは自暴自棄になり、ジョヴァンニに向かって重い口を開こうとした。
それを姫奈が手で制止した。そして、彼女は優れた文章構成力で今日の出来事について話し始めた。レオの意図と精神的苦痛を感じ取り、汚れ仕事を代行してくれたのだ。
レオは俯いたまま罵詈雑言の嵐を待ち受けたが、意外にもジョヴァンニは横槍を入れることもなく真剣に聞いていた。
これもフクロウの効能かとレオは思ったが、違っていた。3人には明かさなかったが、海の向こうで本当の家族と居場所を探す放浪の旅に出ることを夢見ていたジョヴァンニは、離れ離れになった妹を追い求めてまだ見ぬ地へ飛び込もうとしているレオと自身の境遇を重ねていたのだった。
経緯を聞き終えたジョヴァンニはレオの方を一瞥したが、何も言わずにアンブローズに視線を移した。
「お前さ、魔術とか魔界に詳しそうじゃん」
「え? ま〜一応」
「イベリア半島にも魔界の扉ある?」
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