Book 1-XVIII : Alea iacta est(後編)

アンブローズは雨雲を消滅させるべく、杖を頭上に振り上げた。「Σ」字部分から緑色の光の玉が放たれる。専門用語で「ハルガス」と呼ばれる、魔的エネルギーを孕む可視光線だ。


ところが、天井まで届いたと思ったその光は天窓のガラスに反射し、進路を変えて標本の棚目掛けて飛んでいった。瓶詰めになって並んでいた深海生物や珍獣は、光に包まれた途端に生き返ったかのように動き出し、棚から抜け出してきた。


「うぉ〜なんだあれ〜?」


アンブローズのその一言でレオは悟った。いや、誤って雨雲を発生させた時点で気づくべきだったのだ。彼は自身の魔力をコントロールしきれていない。今日だけでも数回に渡って魔術を使いこなしているように見えたが、どれもまぐれに過ぎなかったのだろう。


唖然とする先輩達の間を縫って部屋を横断していく生き物達に向かって、アンブローズは再び杖を掲げた。ところが、次に放たれたハルガスはまたも的を外れ、部屋の反対側の棚に収納されていた見慣れない楽器の数々に当たった。楽器達は銘々、音楽を奏で始め、その調子の狂ったメロディーに合わせて希少生物が水を跳ね上げながら踊り狂うという、カオスな光景が完成した。


分厚い雨雲が天窓を覆い、ほとんど太陽光が届かなくなった部屋の中、レオの気持ちも一気に暗くなった。これから魔界に足を踏み入れるにあたり、魔術や魔力に精通した友の同伴に安心感を見出していたのだ。今更ながら顔も知らぬ父親の死因が思い出される。生きて帰れる保証すらない旅路を目前に、命綱がぷつりと途切れた気がした。しかし、現段階では無事に魔界の扉を開けられるという確証すら揺らいでいるのだ。入り口の反対側には……。


叩いたり蹴ったりする音が響くドアに目をやったレオは再び絶句した。


生き物達に紛れて跳ね回っていたはずのモップがいつの間にかそこに移動しており、片側から箒を小突いていたのだ。まるで自由を奪われた仲間を救出しようとしているかのように。


「アンブローズ、箒が!」


レオはいまだに降り注ぐ水の轟音に負けない声量で叫んだ。


アンブローズは振り向き、事態を把握した。そして危うくモップに杖を向けそうになったが、手を止めた。ハルガスが箒の方に命中したら、生き物達や楽器達のように好き勝手に動き出すかもしれない。それで閂としての役割を放棄してしまったら、いよいよこの惨状が騎士達の目に晒されることになる。


そこで、彼はもう腰のあたりまで達している水を押しのけて進み、後ろからモップに掴み掛かった。激しくもがくモップを片手と両膝で羽交い締めにしながら、何もない壁の方を向き、至近距離からハルガスを飛ばした……が、モップは動きを止めない。


「えちょ……誰か止め方知ってる人いないすか?」


「いるわけないじゃん」


言いながらジョヴァンニは、急に片足が重くなったのを感じた。クロークの裾をたくし上げて見下ろすと、異常に発達した蛞蝓のようなものがブーツに絡みついていた。正確にはウミウシと呼ばれるその生き物の背にびっしりと広がる細かい斑点が目に入った途端、平衡感覚を失って側から見ても分かるほどのふらつきを覚えた。素早く他の3人を見渡し、幸い皆が他方を向いていて誰にも目撃されずに済んだことを確かめ一安心すると、もう片方のブーツのつま先でその生き物を引き剥す作業に取り掛かった。


「姫奈先輩〜どうかお知恵を〜」


「もうそれ破壊するしかないんじゃない?」


そう言った姫奈はすでに胸のあたりまで水に沈んでおり、水圧で酸素が思うように吸入できなくなっていた。重くなったスカートの裾を両手で握りしめながら、壁際に移動した。まだ床に足が届くうちに、空になった棚の上に避難すべきだと判断したのだ。それを察したレオは横泳ぎで先回りし、棚によじ登って彼女を引き上げた。


姫奈の言葉にアンブローズの胸はちくりと痛んだ。魔術師というのは、初対面の箒に対してもすぐに愛着を抱いてしまうものなのだ。モップだって似たようなものだ。それを破壊するなんて……。


だが、背に腹は変えられぬ! アンブローズはまず杖を口に咥え、空いた両手でモップの動きを抑制した。そして片目をギュッと閉じ、もう片方の目を薄く開けながら、壁に叩きつけ始めた。


バキッ! バキッ! バキッ、バキッ!


4回目の打撃でモップの柄は真っ二つに折れ、木片があたりに飛び散った。


「取りあえずやりました!」


杖を手に持ち直しながら方向転換すると、レオと姫奈に続き、巨大蛞蝓から解放されたジョヴァンニも棚に向かっていたので、後に続こうとした。しかし、もう少しで棚の一番低い段に片足が届くという時、上から室内の混沌を見下ろしていた3人の目が自分の背後の何かに釘付けになっているのに気づいた。


恐る恐る振り返ると、モップの残骸がピクピクと蠢いている。


「何あれキんモ!」


これは何の兆しだろうか。アンブローズがその動向を注視していると、やがてそれらは伸び始め、銘々が一つのモップに「成長」していった。全部で30本はある。


ゆらゆらと水中を舞う生き物や楽器とは対照的に、モップ達は高速で水上を飛び交い始めた。


ガシャン! ガシャン!


壁や調度品に容赦無く体当たりするモップ達は、まるで破壊された腹いせに意図的に部屋を荒らしているようだった。ものの十数秒で、ただでさえ混迷を極めていた室内は、海賊に押入られたような有様になった。


「うお〜!」


すっかり気が動転したアンブローズは、杖を大きく振り上げた拍子に手放してしまった。


ポチャ。


「ヤッベ! 杖落とした!」


もう水は、身長が185cm近くある彼でも背伸びをしなければ顎のあたりまで沈んでしまうほどの深さになっていた。


「オレ泳ぐの苦手なんすよ〜」


レオはそう言うアンブローズも棚に引き上げると、頭から水中に飛び込んだ。迫り来るイッカクの様な生物に脇腹を突かれそうになって肝を冷やしながらも、水を蹴って着実に進み、荒波に揉まれて押し流されていく杖を見事キャッチした。


「先輩! あざ〜っす!」


水面に上昇したレオはアンブローズに杖を手渡そうとして動きを止めた。これだ!


「ちょっと待って」


レオは深く息を吸い込んで再び潜水した。


浮遊物の合間を縫って開かずの扉まで泳ぎつくと、その下に杖を挿しこんだ。当然ながら扉の向こう側も浸水していたものの、幸い——何らかの超自然的な力を宿しているのか——鍵は奥に流されることなく先ほどの位置に沈んだままだったので、簡単に掻き出せた。


鍵を鷲掴みにし、もう一度水面に顔を出した。その瞬間、危うく一本のモップと正面衝突しかけた。こいつらがいつ他の3人を攻撃するか知れない。早くしなければここにいる全員の命が危ない……。


レオはアンブローズの胸に杖を押し付けると、ありったけの空気を肺に詰めて三度目の潜水を開始した。


生まれて初めて命の危機に晒されているのと、禁断の地に足を踏み入れる時が近づいているのとで、レオの緊張感は最高潮に達していた。そのただならぬ気迫が伝染したかのように、浮遊物達の動きも活発化する。まさに水中を乱舞しているという状態だ。そのせいで、扉までの僅か5メートルあまりの距離を幾度も迂回しながら進まなければならなかった。


やっとのことで扉に到達すると、無我夢中で鍵を錠にねじ込んだ。錆びているのか、回らない。再度試す。ズキンと鋭い痛みが手首に走る。筋を違えたか? 鍵はビクともしない。振り返って廊下に繋がるドアを見やる。完全に水没してしまったそのドアの向こうの物音はもう聞こえないが、明らかな異常事態を受け相当な人数が集まっているに違いない。今にもドアを壊して突入してくるのではないか。そうしたらこの計画は頓挫する。そんなのは許されない! 幻影の謎が解けるその瞬間まで、何としてでもニムエの後ろ姿を追い続けると決めたのだから。妹への海よりも深い愛情がレオに燃え上がるような活力を与えた。そして、存命なら同じくらい深く彼女を愛していたであろう父親から授かった腕力を信じ、彼はもう一度、鍵を捻った。


グギギ。


ガチャ。


望んでいた手応えがあった。


次の瞬間、扉は水圧で押し開けられ、水がどっと扉の向こうの部屋に流れ込んだ。そこには、古代ローマのテルマエを彷彿とさせる、大理石でできた円形の浴槽があった。流入した水はその窪みを満たしたかと思うと、やがて下から垂直に突き上げられるような奇妙な動きを見せ、吹き抜けの天井まで届く水柱を形成した。水の流れに身をまかせて扉をくぐり抜けたレオは、なんとか濁流から抜け出て浴槽の縁に這い上がった。奇妙なことに、浴槽外には飛沫すら飛んでこない。生き物達や楽器達はまだ水柱の中で揉みくちゃにされている。他の3人の姿は見えないから、まだ棚の上に留まっているのだろう。水柱はやがて七色の閃光を放ち始めた。その輝きは次第に強さを増し、眩しさのあまりレオは目を開けていられなくなった。


やがて、水の動きが止まった。ゆっくりと目を開ける。浴槽の底部は消えており、その数メートル下には、あるはずのない空間が広がっていた。魔界の封印が解かれたのだ。崩壊した水柱は今、階段の形をした幻想的な滝となって2つの世界を繋いでいる。


Alea iacta est——賽は投げられた。


運命の分岐点を告げる先人の言葉がレオの心に木霊する。さあ、ルビコンを越えよう。


***Book 1の終わり***

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