Book 1-X : 刺咬

彼はスペイン語圏出身のようだし、もうこの島にはいないのではないか? もはやこの世界で彼を見つけることの実現可能性は、魔界で妹を探し出すのと同程度しかない。もし彼が海を渡ったのなら、所持していても何のメリットもないあの鍵を持ち出したとは考えにくい。とっくの昔にこの国のどこかに投棄したのでは? 他の非行少年達の手に委ねられたということはないか? それともまさか、海に……。


丘を降りながら、相変わらず彼と顔を合わさずに済む方法を模索していたレオの頭に、最悪のシナリオが浮上する。


「いまだに鍵を所持しているとは考えにくいけど……」


姫奈が図らずもレオの考えを代弁する。


「最後にどこに放置したかくらいは聞き出せないと五里霧中だね」


その冷静な口ぶりからは、彼と再会する可能性に対する嫌悪感はさほど感じられず、レオは不条理にも裏切られた気分になった。


「にしてもその人どこにいるんすかね?」


「私、オフィスに行って聞いてこようか?」


「オフィスって……?」


港の出入国管理局か? それとも法の番人、ヴァルバリア騎士団の刑事課か? レオは混乱した。


「アフロディーテの!」


姫奈は目玉をぐるりと回しながら空気の混じった声で付け足した。それは、これほど不埒な生活を送ってきた彼をまだ除籍していない館への呆れを露骨に表現したものだった。3つの館は年に二回、親睦会を開催する。その招待状には参加資格を与えられた者、すなわち全館の全メンバーの名簿が添付されていた。そこには今でも彼の名が混じっているので、姫奈は彼がまだ国のどこかに潜伏している上、どういう訳かメリストクラットの称号を失わずにいることを把握していた。


その背景を知らないレオは、察しの悪い自分に対し姫奈が苛立っているのだと解釈した。彼女にそんな態度を取られたのは初めてだったので、瞬時に手足の末端から血の気が引くのを感じた。


「あ、そうだよね。ごめんね、ごめんね」


その反応で、今度は姫奈が返答に窮した。メリストクラットのメンバー管理をしているのは王族で、無意識のうちにレオの親族を間接的に非難してしまったのかと思ったほどだ。しかし、すぐに実体験を鑑みそんなはずはないことに気づいた。そして、彼は館の事務所まで赴く労力を考慮し、手間をかけることを詫びているのだろうと解釈し直した。


「ここ降りて左折したらすぐだから全然大丈夫。ここからだとうちの館より近いの」


道中で姫奈は、親睦会名簿から一向に彼の名前が消えない旨を二人に説明した。アンブローズは伝説の人物に会えることに興奮を覚えたのに対し、レオの足取りは人知れず重くなった。


*********


3時の方向に、大理石でできた二頭の等身大イルカが見えてきた。そこは、アフロディーテに寵愛された人々が諸々の事務処理を行なったり、交流の場として利用したりする施設だ。他の2つの館の者達も、入り口付近の談話室までならお邪魔していいことになっている。


姫奈はイルカの間を通って、薔薇の浮き彫りが施された木製の玄関の前に立った。レオとアンブローズは敷地外で待機している。


呼び鈴を鳴らすと、9頭身の色白で筋肉質の青年が顔を覗かせた。


「こんにちは。アテナの館の者です。貴殿の館の一員である元同級生を探しており、事務局の方から是非ともお話を伺いたく、参りました」


姫奈はできるだけ上流階級らしいポッシュなアクセントで言った。


「あぁあの男の子ねぇ」


青年は、姫奈の礼儀正しさとは不釣り合いの鼻持ちならない口調で返答した。


「そぉいうの困るんだよねぇ。カン違いした女の子がしょっちゅう押しかけてきてさぁ」


「私を誰だと思っているの?」


姫奈は一瞬で声色を変えた。肩にまとわりつく横髪を払いのけ、襟元に光るブローチを見せた。フクロウをモチーフにしたそれは、彼女がアテナの寵愛を受けていることを示すものだった。


「おぉっと悪かったねぇ」


青年は一瞬、顔を顰めたように見えたが、形だけの謝罪はした。姫奈は、次は彼を探している理由を尋ねられるだろうと身構えた。アテナの館の者達なら間違いなくそうするからだ。ところが、青年は勝手に早口で話を続けた。


「あの子なら船乗りになったよ。アルナフィーリャの港とアンダルシアを行き来する船の船長に気に入られてね。ほら、スペイン語の通訳が必要だろう? 今はちょうどマラガあたりにいるんじゃないかい?」


姫奈は2秒ほど考え込み、それが嘘だと見抜いた。


「それはないと思う」


「な、なんでだい?」


青年は裏返った声で聞く。


「海水で髪が傷むから。だからあの子は海辺にすら近寄らないの。まして船上で生活するなんてね」


焦茶色の瞳に見据えられ、青年は、頭一つ分以上背の低い少女を前に顔を引きつらせて硬直した。その後、後ろを振り返って誰にも聞かれていないことを確かめると、ため息をついて小声で切り出した。


「分かった、分かったよ。うん、彼はずっと国にいる。でもどこにいるかまでは言えないんだよね」


「なぜ」


「彼を守るためさ。彼がいろんないざこざを起こしたのは知っているよ。それを根に持ってて仕返ししたがってる輩がいるだろう? 彼の身に何かあったら誰がアフロディーテの裁きを受けることになるか分かんないからね」


「アテナの寵児である私を騙そうとしたあなたはどんな裁きを受けることになると思う?」


姫奈は目を見開いて口角を上げた。


「……」


青年は再びギリシャ彫刻のように固まった。


「……」


姫奈は無言で回答を待った。やがて青年は観念したような表情になると、かがみこんで彼女に耳打ちした。


「カンマルフィーリャにいるとだけ……」


姫奈の瞳孔が開いた。


「じゃ、女神のご加護があらんことを!」


青年はサッと上体を起こすと、取ってつけたような祈りを述べてバタンと玄関を閉じた。


「あなた、カンマルフィーリャに行くの?」


振り返ると、姫奈の後ろには見知らぬ少女が迫っていた。姫奈より少し年上の彼女の風貌から、この館に属する者だと容易に想像できた。


青年は、姫奈との会話を他者に盗み聞きされぬよう途中までは気を配っていたのだが、アテナの裁きという言葉に恐れ慄いて注意力が散漫になり、こちらへ向かってくる彼女に気づかなかったのだ。


「それならあの人にこれ、渡してくれる?」


そう囁きながら彼女が姫奈に託したのは、拳大のサテンの巾着袋だった。何やら硬い小物が入っている。


「旧パルダヴァール邸にいるって噂よ。見つけたら、私の気持ち伝えて。私、彼のこと本気で好きなの」


その言葉に、姫奈は条件反射のように侮蔑の念を抱いたが、それを貴族然とした微笑みでひた隠し、素直に袋を受け取ってスカートのポケットに収めた。

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