Book 1-XI : 邂逅
「へ〜海水で髪が変色するんすか」
一行は次の目的地をカンマルフィーリャに定め、来た道を引き返していた。もう一度マルチェッロの家のある丘まで戻り、そこを超えてさらに北にある一回り大きい山——ヴァルバリアで二番目に標高が高い地域——に差し掛かったところに、この町は存在する。
徒歩では40分くらいかかると思われる道中、脈絡のない無駄話をしていたアンブローズだったが、ついに話のネタが尽きてしまい、先刻の事務所でのやりとりについて話すよう姫奈にせがんだのだった。
実際に使用した「髪が『傷む』」という文言を姫奈は避けた。なぜなら、レオの髪がまさに言及した通りの影響を受けていると思われるからだ。女王陛下の髪色から察するに、レオは実際にはダークブロンドだ。それが、常習的な海水浴の結果、より薄い色の毛が入り混じる今の状態になったのだ。しかし、姫奈はそれを忌避すべき望ましくない変化だとは微塵も思っていなかった。
「それ本人が言ったんすよね? 何年も前に。それ覚えてる先輩の記憶力やっぱハンパないっすね」
「客観的事象を元に推測しただけ。本人が言ったんじゃなくて」
「えスイソクっすか?」
その答えにレオも興味を惹かれた。
「この世界はね、3つの層から成り立ってるの。表面にあるのが今、私たちが見ているこの現実でしょ。その一つ下はただひたすら抽象的で、そこからさらに深く潜ると今まで見えなかったものが見えてくるの」
「……なんか意味分かんないっすけどヤバそうっすね!」
彼女の説明はレオにも異言語の如く理解不能だったが、それ以上詮索しようとは思わなかった。先程、刺々しい態度を取られたショックからまだ立ち直れておらず、これ以上、自らの脳の働きの鈍さを曝け出したくなかったのだ。
「にしても坂道キツいっすね〜帰りは馬車にしません? オレ今金持ってないっすけど」
レオは王室助成金として支給された50シェケル分の金貨を常に持ち歩いている。乗合馬車の3人分の運賃なら微々たるものだし、協力してくれたお礼にしては少なすぎるくらいだ。
「どこかに停留所があればね。お金は僕が払うからいいよ」
「お〜あざ〜す! 先輩めっちゃ気前いいっすね!」
「ところでこの計画を遂行するに当たっての予算は決めてる?」
姫奈が聞いた。それは決めていないというのがシンプルな答えだ。レオは元々物欲がない性格なので、なんなら二人に謝礼金として25シェケルずつ渡してしまっても構わなかったが、もしもの時のために少しは手元に残しておきたかった。次の支給までにまだ2ヶ月もあるからだ。
「40シェケルくらいかな」
「けっこ〜大金じゃないっすか!」
*********
パルダヴァール伯爵は、クロノス4世の再従兄弟に当たる人物の血を引く若い紳士で、王室との親交は深い。半世紀ほど前、鳥類学に精通していた彼の父は、ヴァルバリアでは数少ない森林地帯が広がるカンマルフィーリャにバロック式の豪邸を構え、そこで暮らし始めた。そこには当時、島に自生するキノコやベリーを採集して生計を立てる平民達の活気あふれる町が形成されていた。
彼らの平穏が脅かされたのは、パルダヴァール邸が建てられて10年も経たない頃だった。人類の搾取を目論んだ魔界の住人達がヴァルバリアに忍び込み、カンマルフィーリャ周辺の山林に潜むようになったのだ。彼らはやがて、こちらの世界での山賊に該当する犯罪集団になった。
パルダヴァール家はやむを得ず、売り払ったばかりの沿岸部の土地を買い戻してそちらに帰還し、善良な町民達も我先にと山を離れていった。
魔術の禁止と魔界の永久封鎖が決まった時、魔術師達は特別許可を経て山賊を一斉排除した。彼らのほとんどにとって、それが魔力を使う最後の機会となった。
ところが、その後も一度染み付いてしまった危険区域のイメージが払拭されることはなく、カンマルフィーリャは荒廃したままの状態で現在に至っている。今では、人間の不法入国者を含む犯罪者達が数々の空き家に住みつき、無許可の商売を営みつつ、国の治安を守る騎士達の目を掻い潜って生きているという。
*********
そのような事情があって、現在のカンマルフィーリャは国で最も治安の悪い地帯となっている。そんなところへ足を運ぼうとするレオを、姫奈とアンブローズは制止しようとしたが、結局は彼に根負けする形となった。
これから得体の知れない魔界の存在と対面することになるのに、人間のならず者如きに怯えていてはいけない。それがレオの言い分だった。この時点で彼は、鍵を入手できたら自ら魔界に足を踏み入れると決心していた。厳正な法治国家だと思っていた我が国で、重要文化財の窃盗犯が実質無罪放免となっていることを受け、魔界への侵入という犯罪行為への抵抗も薄れてしまったのかもしれない。
それでも、目当ての人物の元へ近づくにつれて胃がキリキリしてきた。いつの間にか、快晴だったはずの空に暗雲が立ち込めている。それがここで足を止めるべきだという妹からのメッセージなのではないか、と都合のいい解釈をしていた矢先、ついに朽ちかけた民家が軒を連ねているのが見えてきた。
あれほど強情を張ってここに来ることを望んだ手前、もう後には引けなかった。
三人は苔むした道をゆっくりと進み始めた。皆、ここに来るのは初めてで、邸宅がどこにあるのかは当然知らなかった。坂道が多く高低差が激しい山岳地帯だからか、一際大きいはずのその邸宅を民家の屋根越しに見つけることはできなかった。
しばらくはこの周辺を当て所なく歩くしか無いのか。
そう思いながら辺りを見渡すレオの視線の先には、露出の多い服を纏った年齢不詳の女性達や歯の黄ばんだ屈強な男性達がいた。レオは帽子を目深に被り直し、姫奈が自分とアンブローズの間に来るようにして歩みを進めていった。すると——。
「お? 雨っすか?」
「あっ雨」
頭に何も身につけていない姫奈とアンブローズがひと足先に気づいた。鼠色の雲から大粒の水滴が滴り落ち始めたのだ。1分もしないうちに、人生でほどんど経験したことのないレベルの豪雨となった。13年前を彷彿とさせる異常気象だ。
雨宿りに適した建造物を探そうとしたレオは立ち止まった。ここでは、宿屋や酒場は全てアヘン窟だと聞いたことがある。そして、もし適当な一般家屋の戸を叩こうものなら……。それでは町外れの雑木林の木の下にでも身を寄せようということになり、三人は小走りで民家の間を進み始めた。
とある曲がり角に差し掛かったところで、老朽化が進んだ店舗の看板が見えてきた。
『ミスター・アーラのハピネス・ショップ』
町の雰囲気にそぐわない無垢な響きの店名だ。その時、右手からアンブローズの声が聞こえた。
「あっ! あそこの質屋入りません?」
なぜ質屋だと分かるのだろうか?
「あれチェーン店でアゴラに本店あるんすよ。そっちのマスターめっちゃいい人だし大丈夫っすよ」
経営者がまともな人間だとしてもここの店舗の主人は……とレオは異論を唱えようとしたが、アンブローズはもう店のドアに手を伸ばしていた。
朝からすでに10キロ近く歩いた上に冷たい雨に濡れ、これ以上体力を消耗したくなかったレオは、姫奈と共におずおずとアンブローズの後に続いた。
レオはそれまで質屋というものに入ったことはなかったが、中は大体予想通りの構造だった。入って左手に大きなデスクがあり、初老の店主が腰掛けて何かの本を読んでいた。店主が顔を上げた時、ちょうどレオと目があったので、レオは軽く会釈した。店主はそれに応じることなく、少し怪訝そうな顔をすると再び本に目を落とした。
店の奥には質流れした数々の貴重品が並んでいる。エキゾチックな宝石が埋め込まれたアクセサリーや、針金細工の芸術品が大半を占めている。
奥の壁には何本もの短剣が飾られていた。これらは全て王族や貴族のために造られたものだ。ヴァルバリアでは、長い剣を所持することが許されているのは騎士達だけだ。その他の上流階級の人々は、男女問わず、護身用に刃渡り20cmほどの短剣をベルトとロングジレの間に挟んで携帯するのが伝統なのだ。
ここにあるものは合法的に入手されたのだろうか? レオは色々と勘繰った。姫奈は店内の様子には一切興味を示さず、眉間に皺を寄せてひたすら窓の外ばかり凝視していた。アンブローズは興味本位で品物、特に金属製のものを見て回った。
しばらくして、ギィーと音を立てて再びドアが開き、中肉中背の三十路の男が入店してきた。彼も雨宿りに来たのだろうか。また店主は顔を上げたが、何も言わずに読書を再開した。
レオは、男がドアを半開きのままにしたのが気になったが、客である自分がわざわざ閉めに行くのも不自然なのでそのままにした。
男はレオ達を素通りして奥の方へ行くと、比較的大きめな短剣を一本、掴み取った。数分後、店内を一周して入り口付近のレオ達の近くに戻ってきた頃には、首飾りなど紐状のものを何本か手首に掛け、片方の手には指輪のような小物もいくつか握りしめているようだった。
総額は王族の基準でもかなりの額になりそうなのに、この地域に住んでいる人でもそんな大金を払えるのか。
そう考えていたレオは次の瞬間、自分がいかに平和ボケしているかを思い知らされた。
「おい!」
店主の怒号が響くのと同時に、高額品の数々を抱えた男はドアに突進し外に飛び出した。店主はデスクの下に隠していたハエ叩きのような棒を持って男を追い始めた。店を出る直前、店主はレオ達に向かって叫んだ。
「お前さん達もあいつを追ってくれ! 頼む!」
三人は、すぐには動けなかった。
自らも一世一代の大事なアジェンダを抱えている今、他者のトラブルの巻き添えを喰らっている余裕はレオにはなかった。それと同時に、店主の力になりたいとも思った。たとえならず者達に紛れて生きていても、彼は人権を持った一国民だ。
「どうするの?」
「先輩行きます!?」
姫奈とアンブローズが同時に尋ねた。それに応えるように、外が一気に明るくなった。見ると、豪雨はおろか、あの暗雲すら幻だったかのような、奇怪なまでの青空が広がっていた。
それでレオは確信した。さっきまでの異常気象にも意味があったのだ。見えない力がレオ達を一旦ここで足止めし、今、もう一度進めと合図を送っているのだ。
「行こう」
レオははっきりと答え、二人の答えを待たずに店を出た。
もう男の姿は見えなくなっていたが、遠くの曲がり角で店主が左折したのをかろうじて確認できたので、その地点を目指してレオは全速力で進んだ。
店主は小型の笛のようなものを持っていたのか、彼の走って行った方から鳥の断末魔のようなけたたましい音が響き渡る。それを聞いて家々の窓や玄関から何事かと顔を出す人々の目の前を、レオは泥を跳ね上げて疾走した。
角を曲がった際、遠方に見えてきたのは、国内屈指の規模を誇る豪邸だった。なんの植物かも分からない幾重もの蔦に包まれ、外壁の色は判別できない状態だ。ポーチの両脇に植えられた樫の枝は伸び放題で、一部は割れた窓から邸宅内に入り込んでいる始末だった。
嗚呼、あそこには!
「ヴァンニ! ヴァンニ! ファン!」
店主との距離がだいぶ縮まってきたレオの耳に叫び声が届く。
「そいつを捕まえろ!」
邸宅2階の、道に面したバルコニーに黒装束の誰かが颯爽と現れた。
パガニーニを彷彿とさせる背格好、青光りする巻き毛、何を考えているのか分からない目つき。あの頃から何も変わっていなかった。
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