Book 1-XIV : 歪曲

水路に浮かんでいたのは、ヴェネツィア風のゴンドラだった。先端に大きな燭台のような金属の棒が取り付けられており、そこに松明を固定して前方を照らせるようになっていた。


実は、この水路の有効活用にあたり、15歳以上の全ての王族とほとんどの世襲貴族はゴンドラの漕ぎ方について極秘の手解きを受けていた。


レオはまず一人で乗り込んで座席に寝かせてあったオールを持ち上げ、3人に乗船を促すと、不慣れだが迷いのない手つきで係船用のロープを外した。


目的地までの正確な距離は分からなかったが、スタート地点の標高が高いため、自然な水流に乗って進んでいけば問題なかった。時折、緩やかなカーブがあり、船体の角度を微調整する必要が生じただけだ。お陰でレオは、すでに疲労で言うことを聞かなくなりつつある四肢にさほど負荷をかけずに済んだ。


両脇と頭上に広がる土壁の至る所からは、岩や木の根の一部が突出していた。それに混じって、素材は不明だが、白い板が打ち付けてあるのも見えた。それは、今ゴンドラがどの地域の下を通過しているのかを示す標識だった。


『サフェーラ川』


国の農業を支える川だ。流域面積は広いが、もうアゴラ近くの田園地帯まで降りてきたと見ていいだろう。


ジャブジャブジャブジャブ。


新たなカーブが近づいてきた時、今までとは違う水音が響いてきた。なんだか小さな滝のようにも聞こえ、急降下でも待ち受けているのかとレオは身構えたが、それは思い過ごしだった。


カーブを曲がると、左手の土壁には直径30cmくらいの穴が数個開いており、そこから多量の水が絶えず流出しているだけだった。


それをまじまじと見つめていた姫奈が何かを悟ったように息を呑んだ。


「分かった! 水車で水を循環させてるんでしょ? 天然の地下水だけじゃ足りなそうだもんね」


正直なところ、レオもこの水路の水がどう確保されているかよく知らなかった。ただ、標高の低い位置まで到達した水を人工の仕掛けによって高い地点まで絶えず送り返し、新たに湧き出てくる天然水と混ぜることで、ゴンドラの航行に十分な水量を保っていることは事実だ。


レオは曖昧な返事をした。唯一、彼が確信を持っているのは、この巨大な仕組みの構築にこそ魔力が使われたものの、現在は自然な地形と物理の法則だけで持続可能なシステムが成り立っているという点だ。その運用にも魔力を適用しようものなら、肝心な時に魔術師達が他の事で手一杯になってしまった場合にシステム全体が滞ってしまうと考えられ、現存のデザインが考案された。それが功を奏して今なお利用できるようになっているという訳だ。


「菜園の横の風車もこれに使われてるの?」


ヴァルバリアには、外観からは用途が分からない水車や風車が点在しており、海外からの訪問者にとっては一種の名物になっていた。粉挽などに利用されているようにも見えないそれらは、「水や風を司る神々や精霊に見守られていることを忘れないようにするため」の、一種の宗教的建造物として認知されていた。それがどうも違うらしいことに姫奈はたった今、気づいたのだった。


レオを見上げながら無邪気に問う姫奈の顔が松明で照らされ、彼は久々に彼女が自分より年下であることを意識した。彼は、女性の上目遣いとは概して不快感を抱かせるものだと思っていたのだが、例外も確かにあることを学んだ。


ふと頭に、先程「オフィス」に言及した時の彼女の棘のある態度が浮かんだ。もうあんなふうな扱いを受けずに済むように、そして今のようなひとときがこれからたくさん訪れるように、今後は思考の流れの速度を彼女に合わせられるよう努めたいと思った。


「風車」という言葉が引き金となり、ジョヴァンニの脳内には豊かな情景が溢れていた。


ラ・マンチャ地方も悪くはないのだが……。


人知れず、船外に手を伸ばして水路に指を浸してみた。待ち望んできたのは、その指でグアダルキビルの水に触れる日だ。この氏名を与えられたのだって何かの運命に違いない。碧空を背景に見渡す限りのビターオレンジが広がる地に迎え入れられる時は、そう遠くないのだ。


「あとは? ヘロンの噴水とか?」


姫奈がさらに問うた。「ヘロンの噴水」が何かは分からなかったが、彼女が歯を見せて笑う瞬間に立ち会うのがいつぶりか、レオは考えた。


ガガッ。


前方不注意により、小脇に挟むようにしていたオールを大きめな岩に引っ掛けてしまった。ハンドルが持っていかれて左肩を捻挫するところだった。


「いた」


ジョヴァンニが鼻で笑ったように聞こえた。


「え〜ヘロンの噴水てなんすか?」


レオが応答できる前にアンブローズが興味を示した。


「水圧と空気圧を利用して水を上向きに噴射させる装置のこと」


「めちゃ面白そうじゃないっすか! それオレらでもフツーにできるんすか?」


「化学室にある容器とかチューブで作れるんじゃない? 私はやったことないけど、作り方が書いてある本なら図書館にありそう」


「うぉ〜オレ自由研究それにしよっかな〜」


「いいんじゃない?」


「つかそんなことよりなんか吐き気してきたんすけど〜」


アンブローズのような平民は、船や馬車で移動する機会が限られているので、こうして自分の意思に反して身体が揺さぶられることに適応できないのも無理はない。


「循環してんなら水にリバースはヤバいっすよね」


「横になったら?」


姫奈は今まで座っていた側とは反対の座席——ジョヴァンニの隣——に移動し、アンブローズが座席に横たわれるスペースを作った。


アンブローズは言われた通りに身を横たえたが、暗がりの中でも彼の血色の悪さが窺える。


いざとなったらジョヴァンニの帽子にでも戻させればいいとレオは思った。穴を開けられてしまったし、羽根飾りも風雨に晒されて一部が抜け落ちたり折れ曲がったりしている。港で新しいものを買い与えてやれば済む話だ。


しばらく無言で眉間の辺りを抑えていたアンブローズが急に目を見開いた。


「あ〜も〜やばいす。さ〜せんも〜ほんとさ〜せん」


座席に肘をついて起き上がりながら誰にともなく訴えた。


「お前その帽子貸してやれよ。どうせボロ雑巾みたいだし」


まるでこの時を待っていたかのようにジョヴァンニがレオに言った。


「この帽子は破損していることによって道具的価値が出るんだ!」


お陰で今日は誰にも正体を悟られずにここまで来られた。あの町で身分がバレたらどうなっていたかは想像もしたくない。


「へ〜じゃあもっと価値が出んじゃね?」


「君のを使えばいいじゃないか!」


「なんだついに本性表したなお前」


けぽ。


二人が言い合っていると、嫌な音が聞こえた。


見ると、アンブローズは麻袋に顔を突っ込んでいた。松ぼっくりを貯めていたあの袋だ。足元に置かれていたのを姫奈が思い出し、すんでのところで差し出したのだった。


それを見届けたレオは、この不幸が自分の身に降り掛からなくて良かったと思ったが、姫奈がアンブローズの隣に座り直して背中をさすってあげているのを見て、その考えが揺らいだ。


「あ〜もりおんのごはんが」


寝起きのような声でアンブローズが言った。「もりおん」とは彼が飼い始めたという動物の名前に違いない。


人間が飼育可能な、松ぼっくりを摂食する動物種とは何なのか、姫奈は疑問を口にしたくなったが、ぐっと堪えた。


そうこうしているうちに、次なる標識が見えてきた。


『ヴァルバリア王立学院』

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