Book 2-IV : 呼びかけ
4人は二手に分かれて行動することになった。レオと姫奈、アンブローズとジョヴァンニがペアになり、それぞれがパスヴェラを携えて旅を再開した。双方の位置を確認し合えるよう、ウィルに頼んでGPSによる位置情報機能を『オン』にしてもらってある。
石板上の地図を上下左右にずらして今いる場所の地形を調べた結果、そこが地理的にヴァルバリア本島に酷似した島だと判明した(実際には、その形状はヴァルバリアと完全一致していた。しかし、測量技術の未熟さにより、祖国で出回っている地図には至る所にわずかながら誤差が生じており、その不正確さが原因で、4人の思い描く祖国の地形と地図上の魔界の形状には若干の差異があるように見えてしまったのだった)。
そして、海を越えればユーラシアやアフリカのような広大な陸地が(少なくとも)北・東・南の方角に広がっていることも分かった。
島の南部には、アルナフィーリャに匹敵する港町があるようだった。アンブローズとジョヴァンニはそちらへ向かい、後者がイベリア半島に準ずる地帯へ向かう手立てがあるかを探りつつ、王女に関する情報も収集することとなった。
*********
レオと姫奈は逆方向——祖国では名物・サフェーラ川の水車が聳える田園地帯——の方角に歩き出したが、アゴラの出口はまだまだ先だった。
二人は幼馴染でありながら、いつも必要最低限の会話しか交わさず、ましてや肩を並べて歩いたことなどなかった。
レオに至っては、外出先で女性と二人きりになるのはこれが初めてだった。未知の領域でこのような未曾有の事態に直面し、二重のプレッシャーを感じていた。一寸先は闇の無計画な旅路において、相手が自身の理解の域を超えた知能の持ち主であることに安堵して然るべきなのに、その事実のせいで、かえって自然体で振る舞うのを難しく感じていた。
一見、何の変哲もない市場だが、陳列された品物一つひとつが、ここが人間界の自然科学の法則が通用しない場所だと思い出させてくれる。
両脇の商店に所狭しと並べられているのは、素材も用途も分からない器具や、動物とも植物ともつかない瓶入りの生命体(「怪物」と呼ぶに値するほど奇怪で有害そうには見えなかった)だった。唯一、場違いに感じられたのが、金属製と思しき製品を扱う店舗だった。そこの商品はいずれも簡素な食器や調理器具のようだった。しかし、これらもパスヴェラのように魔力の作用が加われば超自然的な機能を見せてくれるのかもしれない。
特に興味深いものが目に留まるたび、レオは感想や考察を述べたくなる衝動を胸の奥に押し戻していた。下手なことを言って己の浅学ぶりや思考回路の拙さを露呈させたくなかったからだ。
仕方がないので、訳もなく幾度も帽子の鍔の角度を調整したり、襟元を正したり、当面の間は直進するのみだと分かっていながらしきりに地図に目を落としたりしていた。そうしながら、この平静とは程遠い精神状態をなんとかできないかと考えていた。しかし、それは昨夜ジザベルと踊らされた際の不快感とは似て非なるものであった。確かに心地良くはないものの、そこから逃げ出すか留まるかの選択肢が与えられたならば、迷わず後者を選ぶだろう。
一方の姫奈は、蝶結びになったコルセットの紐をいじくりながら歩みを進めていた。これは彼女が緊張や気まずさを感じているときに出てしまう癖だ。次に誰かを手懐けたり、何かの分析結果を具申したりできる機会の再来の兆しが一向に見えてこないことに、身勝手な焦ったさを覚え始めていたのだった。
やがて、幼い子ども達が集う平屋の屋敷に差し掛かった。大きく開け放たれた窓から中を垣間見ると、4〜5歳くらいの幼児のような背丈の子ども達が、お絵描きやごっこ遊びのようなものを楽しんでいる。
「ねぇ、あの……」
お願い。振り向いてください。
ちょうど地図に見入っていて屋敷が眼中に入っていないらしいレオに向かって、姫奈がおずおずと呼びかけた。
彼女は、誰かに話しかける際にその相手の名前を口に出すという行為に対し、強い苦手意識を覚えていた。その理由は大きく分けて二つあり、いずれも悲しいことに実体験と密接に結びついていた。
第一の理由は、相手の名前の正確な発音に失敗する可能性に対する恐怖だ。多様なルーツを持つ人々が共生するヴァルバリアでは、あらゆる言語に由来する人名が使用されている。ヴァルバリア語の音素目録には存在しない音が本来の発音に含まれている場合は、類似した音に置き換えれば無礼に当たらないのだが、音の類似性に関しては主観的印象が異なりがちだ。そのため、本来の音と代用される音との差異が呼ばれる側にとって許容範囲だという確証は得られないのだ。
彼女自身のファーストネームのローマ字表記はXimenaであり、正式な発音は、スペイン語式の[çimena]だ。[himena]などでも構わないが、最初の音節の発音について大きく誤解し、[ksi]や[ɕi]のように発音する人が後を絶たなかった。そういう人と遭遇する度に読み方を訂正するのは気まずいし、訂正される側はより居心地の悪さを感じることだろう。
第二の理由は、身分と敬称・尊称に関する不文律だ。ヴァルバリアでは、ファーストネームの呼び捨てが許容されるのは、家族間や同年代の親しい友人同士のみだ。その他の場合、年下の相手ならばその人の階級に見合った敬称又は尊称+ファーストネーム、年上ならば敬称又は尊称+苗字というフォーマットで呼びかけるのが習わしだ。
メリストクラットである姫奈が飛び級して、年長の生徒達と共に生活するようになったばかりの頃、彼女の適切な呼び方に関して同級生達の間で混乱が生じてしまった。
会話の皮切りとなる呼びかけという行為に際し気の迷いが生じることで、同級生達は彼女とのコミュニケーションに消極的になった。そしてそれは、彼女が今なお孤立を深めている一因となったのだった。
姫奈が「レオ」というシンプルな人名を口にするにあたり、上記の第一の理由は問題にはならない。しかし、第二の理由は、大きな壁となって彼女に立ちはだかっている。
王族であるレオは「ヴァルバリヤス」という姓を持っているが、実生活でこの名が用いられることはまずない。例外的に、年齢や階級を問わず全ての国民が彼を「レオさま」あるいは「殿下」と呼ぶのが一般的だ。
マルチェッロのような親密な関係にある数少ない幼馴染達は、彼を呼び捨てにすることもある。しかし、それは出会って間もないタイミングで、彼自身がそのような呼び方で構わないと明確に意思表示したことで構築された特殊な間柄だ(その一方で一部の不良少年達が無許可で不適切な二つ名を用いることはあるが)。
自分でも信じがたいことだが、姫奈は飛び級後の約5年もの間、一度も自らレオに話しかけたことがなかった。もしそのような機会があったのなら、彼女が「レオさま」あるいは「殿下」と呼びかけたのに対し、彼が呼び捨てを許可するというシナリオがとうの昔に実現されただろう。しかし、彼女は卓越した状況判断力と計画力を駆使して、なんとか彼の名前を呼ばずに済むように生きてきてしまったのだった。
「ん?」
姫奈にとっては幸いなことに、レオはすぐに振り向き、目に入った情景をもとに彼女と同じことを考えついた。
他者の私有地を勝手に覗き込むことが人間界ならばプライバシーの侵害にあたり、魔界でも同じ規範が適用される可能性が高いことは百も承知の上で、さりげなくブロンドの長髪を探したが、淡い期待は裏切られた。
よくよく考えてみれば、ヴァルバリア本島と変わらないサイズのこの島で偶然見かけた数十人の中に探し求めていた人がいる確率なんて、考慮に値しないほど低い。
姫奈はコルセットの紐を強く引っ張りすぎて誤って解いてしまい、慌てて雑に結び直した。過去数十分に渡って彼の役に立てていないことに対する焦燥感から突発的に及んだ行動が、空回りしてしまったのだ。次に発するべき言葉が見つからないまま目を泳がせていると、子ども達の部屋に成人と思しき誰かが入ってきた。緑色のドロドロした液体で満たされたコップを複数個、大きなトレーに載せて運んできたのだった。
「のどがかわいたひとー?」
姫奈には、それが救いの言葉のように聞こえた。
「私も喉乾いちゃった」
便乗して心にもないことを言うことで、スムーズに次の行動に移れるよう仕向けようとした。実際には、驚異の部屋で多量の水を口と鼻から摂取してからまだ2時間も経過していなかったし、この世界ではあのようなヘドロが飲み物とみなされていると考えると、何かを体内に取り込む気には到底なれなかった。
「僕も」
レオも本心と真逆の意思表示をしたが、その直後に激しく後悔した。
今のは『何か飲み物が欲しい』と遠巻きに伝えていたのだ。それにただ同調するだけなんて、まるで察しが悪く役に立たない人間のようだ。
「あ、ど、どこかで飲み物を調達しよう」
姫奈の思考のスピードに追いつくように、咄嗟にそう付け加えた。すると——。
チョロチョロチョロ。
すぐ背後で水が流れる音がした。
見ると、歩いてきた道の反対側に掘られた用水路に水が流れている。
今までは流れていなかったような……。まるでレオの声に反応して水が流れ出したようだ。
「あれ? さっきまでは干上がってた気がするけど」
姫奈が言うのだから間違いないとレオは思った。とにかく二人は用水路に歩み寄った。
「わぁ濁ってる」
姫奈がぽつりと言った。これは『この水は飲用に適さない』即ち『飲料水は他所で調達する必要がある』という意味だ。中身のない相槌を打つ前にそれに気づけたレオは、自尊心の回復を実感した。
「とりあえずこれを遡ってみよう。井戸か何かがあるはずだから」
用水路に沿って歩いていくと、途中で大きな円形の競技場があった。観客席はいっぱいだ。
二人が一旦足を止めて木々の間から覗くと、競技場の中央には二人の男が立っていた。一人は箒を手に持っているから、魔術師に違いない。もう一人は東洋風の壺を両腕で抱えていた。魔術師は、その壺に入った透明な液に箒の穂を浸した。そして、一度深呼吸をすると、まだ液の滴る箒にまたがった。
続いて3人目の男が松明を手にして入場し、箒の穂先に点火した。液は油だったようだ。その直後、魔術師は天高く跳ね上がった。先程のアンブローズの飛び方とは比べ物にならないほど俊敏だ。その上、燃え上がる穂先が四方八方に激しく跳ね回るので、箒は暴れ馬さながらの動きを見せた。魔術師は振り落とされそうになりながらも片手を柄から離し、手を振った。観客が歓声をあげる。
レオと姫奈は、これは見世物の一種なのだろうと思った。会場は熱気に満ちていたが、二人はあまり興味をそそられなかった上、時間を無駄にしたくなかったため、立ち去ることにした。
しばらく進むと、レオの予想通り小さな井戸があった。付属の桶で中の水を汲み上げると、幸いそれは透明で無味無臭だった。
二人がそこで形だけの水分補給を済ませたとき、後方から低いがなり声が聞こえてきた。
「おい君達、こんなところで何をやっている!」
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