Book 1-VII : 鉢合わせる
レオは歴史書を抱えて一度帰宅し、自室のクローゼットの奥から継ぎ接ぎのある質素な服とボロボロの帽子を取り出した。王族や貴族は皆、微行のためにこういう服を一式揃えているのだ。
博物館やその近辺で第三者に目撃されることはさほど問題ないが、王族の一員として、魔界関連の展示物に近づくところだけは第三者に見つかってはいけない。
従者達はレオが今朝、学院に向かったことを把握している。帰るのが何時頃になりそうか予め伝えておくことはしなかった。そして、帰宅してから自室に戻るまでは、運良く誰ともすれ違わなかった。今から再び外出するところも誰にも見られずに済めば、まだ学院にいるものと思ってくれるだろう。
着替えを済ませたレオは、自身のヴァイオリン講師や母上のスピーチライターが使う平民用の出入り口に忍足で向かったが、すぐ外に人だかりができているのに気づき急停止した。どうも中庭の噴水が誤作動を起こしたか、決壊したかで辺りが水浸しになり、従者達がその後始末に追われているようだ。こんなのは初めてだ。
レオは方向転換して、厨房へ向かった。そこには食材を運び入れるための従業員用の裏口がある。その裏口は通学路に面しており、尚且つ学院から徒歩3分の場所にあるため、顔見知りの生徒と鉢合わせてしまう可能性が高いのが不安要素だが……(新学期開始はまだだが、寄宿生たちは昨日から学院に戻っている)。
厨房に行き着いたレオは、食材の調達者を装うため空の木箱を運びながら進み、無事、脱出成功した。本当に誰にも見られなかっただろうか。後ろを気にしながら歩いていると、前から来た通行人にぶつかってしまった。
「あっ失礼しました」
「あっサッ、サーセンした」
アンブローズだった。
「なんかオレらよくぶつかりますね!」
そう言いながら、アンブローズはぶつかった拍子に手持ち袋から飛び出したものを拾い始めた。それは大小様々な松ぼっくりだった。
「松ぼっくりなんか集めてどうするの?」
すかさずレオが聞いた。自分自身の外出理由を聞かれる前に別の話題を振ろうという魂胆だった。
「あっこれっすか? えっとぉ〜なんか最近小動物(?)的なの飼い始めてぇ〜そいつのエサっす……ってなんだこいつ〜!?」
普段の饒舌さが嘘のような歯切れの悪い言い方で答えながら松ぼっくりを拾っていたアンブローズの手に、20センチはあろうかという黒く太い節足動物が這い上がって来た。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイムカデキモイムカデキモイムカデキモイクカデミモイ」
アンブローズは半ばパニック状態になり、動揺のあまり語音転換を起こした。レオも昆蟲や奇蟲は苦手なので、手も足もでなかった。
すると、どこからともなく色白の腕がすっと伸びてきて、なんのためらいもなくその生き物を素手で摘み上げた。
「この子はヤスデっていうの」
優等生らしいハキハキとした口調でそう言ったのは姫奈だった。
あの後、彼女も一旦帰宅したものの、日課となっている蜂の観察のために平服に着替えて再登校するところだった。彼女は優しくヤスデを道沿いの茂みの下に戻してあげた。
「ムカデと違って無害だから気にしないで」
「わっ姫奈先輩! あざ〜す! いやフツーに気にしますけどね。ってか先輩のメンタル半端ないっすね!」
「君だって昨日、蛇を素手で掴んだじゃないか」
「あ〜あんときはシプタミヤ・ハイだったんでまぁ」
シプタミヤとは、りんご、ぶどう、ざくろなど7種の果物の果汁に様々な香辛料を加えたヴァルバリアの伝統的な炭酸飲料である。コーヒーに匹敵する覚醒作用がある。
「つかそんなことより今日マジで意味不明な夢見たんすけど聞いてくださいよ!」
アンブローズは自ら話題を変えて、直前の発言とは裏腹に、もうヤスデのことは気にしていないようだった。レオは、はやる気持ちを抑え、しばしの間、彼に耳を傾けることにした。ここで早々に立ち去ろうとしようものなら、間違いなくどこに何のために行くか尋ねられてしまうので、それを回避するための戦略的対応だ。
「いやなんか〜オレが双子設定で〜妹がいるんすけど〜」
ひと足先に立ち去ろうとしていた姫奈が動きを止め、無言のまま表情を強張らせた。
「双子」と「妹」の組み合わせは、「魔界」に次ぐタブーワードだ。特に男女の双子の話となると尚更だ。実際に性別の異なる双子を産んだヴァルバリア人は、女児の方が後に生まれてもその子を「姉」として役所に届け出を出すほどだった。それほどまでに忌避されている言葉を、双子の妹を失った張本人に向かって発するとは。
それは、あの事件の年にまだ物心つく年齢にすら達していなかった彼の未熟さが生んだ失態だった。
「んで〜何だっけ? なんかデッカいオレンジ持ってて〜それ半分に割ったんすけど〜片方海に落としちゃって〜なんかそれだけっす。なんか話してみると大したことないっすね」
レオにはそれが十分に大したことのように感じられた。全身を熱い血が駆け巡った。一族のトラウマを掘り起こされたからではない。彼の夢は、自分と妹、そして二日前に海で拾った片方の靴の暗示ではないか。だとしたら、オレンジの意味するところは?
「君に、妹がいる夢?」
レオが禁句への嫌悪感ではなく関心を示したので、姫奈は強い違和感を覚えた。
「いや妹はリアルにいるんすけどまだ4歳なんすよね」
アンブローズが言ったのと同時に、姫奈の視界の片隅に小さな人影が映った。
「あの子がそう?」
レオが無理して話を合わせてあげようとしているのではという懸念から、トピックをすり替えたいという意図もあり、姫奈は咄嗟に尋ねた。
「えっいやあいつ何でいるんだし」
アンブローズは振り返って姫奈の視線の先に目をやったが、そこにはもう誰の姿もなかった。
「えっどこすか?」
姫奈もわずか一瞬でその人影を見失ってしまい、当惑した。
「今いたのに! 藍色っぽいドレスの子」
今度はレオが意表を突かれる番だった。
「ブロンドの?」
やや震えた声で質問した。
「うん、でも、髪色は成長するにつれて変わることが多いでしょ?」
過去数日に渡ってレオを苦悩の海に沈めた怪異を知る由もない姫奈は、彼の質問を自分の発言への間接的な反論と捉え、即座に反駁を試みた。先ほど視界に入った少女は、確かにブロンドだったが、そのような明るい髪色が年月を経てより濃い色になるケースは多い。よって、彼女が赤毛のアンブローズと血縁者である可能性は否定できないという訳だ。
「いやあいつも赤毛っすよ。つか誰もいないすけどさっきのキモいのが人間化して先輩に恩返しに来たとかじゃないすか? 先輩にだけ見える的な?」
違うよ。蟲なんかじゃないよ。
レオの心臓はいよいよ早鐘のように打ち始めた。妄想ではなかったのだ。
今まで自分一人にしか知覚することができなかった幻影。それが客観的事実としての片鱗を見せ始めた。アンブローズの夢はただの偶然と一蹴できるかもしれないが、姫奈という、レオが知る限り非科学的事象とは最も遠い存在にまで影響が及び始めている。これは、自身の喪失感と罪悪感が織りなすファンタスマゴリーではないのだ。
「えっこれオレが憑かれてるとかじゃないっすよね? こっわ〜。も〜こないだの風水グッズ意味なかったじゃないっすか〜」
一人で硬直して思想を多岐に張り巡らせていたレオは、それを聞いて我に帰った。
アンブローズが、幻影が敵対的存在であることを懸念し、さらには自己防衛に当たり合法的な風水では心許ないと感じている。この現状を放置したら、彼は法に抵触する行為に手を出すかもしれない。そして、彼は今年16歳になる。次はもう補導では済まされないかもしれない。
「その子は危険じゃないよ!」
本心からの言葉が自制心を貫通して発せられてしまった。
「何言ってるの?」
一瞬の間があり、姫奈が想定内の反応を見せた。
レオは深く後悔した。百歩譲ってこれがアンブローズとの一対一の会話なら、幽霊の存在を仮定的に認めた上で、それが幼女ならば危険性は低いと論じることもできるが、姫奈にはその論理性の欠如は通用しない。
こうなったら、もう知り合いの子だなどと適当を言って誤魔化すしかないのか。
「彼女は、その……」
彼の焦燥は、姫奈に新たなアイデアを与えた。
「王女様、なの?」
彼女の反応がレオの想定を大きく裏切るものだったことは言うまでもない。
「な、どうして?」
レオは、彼女の知能が高すぎるあまり第六感のようなものが生じて人の心を読めるようになってしまったのかと思った。
しかし、姫奈のこの推測はその手の超能力とは無縁で、2つの論拠に支えられていた。まず、4歳程度のブロンドの少女で、これほどまでに王子の平常心を掻き乱す力がある人物は、一人しかいない。さらに、彼女はその卓越した記憶力で3歳の頃に目にした情景を呼び覚まし、その中に群青色のドレスを纏った王女を確認したのだった。
「そう思ってるんでしょ?」
「そう……だけど……」
姫奈は一呼吸置いてまた口を開いた。
「ねぇルイージ・ガルヴァーニの研究、知ってる? 死んだ蛙に電気を流すと筋肉が動くんだって。死者の世界って、案外私達の近くにあるのかもね」
実のところ、彼女はそんなことは微塵も思っていなかった。ガルヴァーニと蛙の話はヴァルバリアにも伝わり、それを受けて、電気は生き物の亡骸に新たな生命を吹き込むのだと空想を膨らませる者もいたが、そんなのはあり得ない話だ。生から死への道のりは一方通行なのだ。ヴァルバリア人の宗教観において神に近いとされる王族だって例外ではない。
だらか、先ほど見た幼女だって実際には王女であるはずはないと姫奈は確信していた。それでも、レオの頭の中ではそういう思考の流れができてしまっているのだ。その考えにはどこかしらに欠陥があるのだろうが、それを吐き出すことで彼の心が静まるのならば、それに越したことはない。そう思い、不完全な考えでも気兼ねなく表明できるよう誘導したかったのだ。アテナの館の年長の仲間達が自分に対していつもそうしてくれるように。
いつの間にか、アンブローズも普段はあまり見せることのない神妙な面持ちでこちらの様子を窺っていた。
姫奈とアンブローズ。二人はあらゆる面で正反対だ。唯一の共通点といえば……。
そうか。もっと早くに気づくべきだった。二人は雨乞い執行人達の中でも重役を担っていた魔術師の血を引いている。ここで鉢合わせたことは、何かの運命なのだろうか? 宮殿の中庭を問題なく通過して別の道からここに向かっていれば、二人と同じ時刻に同じ場所に居合わせることはまずなかった。もしや、何か超自然的な力が働いて3人を集結させたのか?
それに、アンブローズは魔術や超常現象に精通しているし、姫奈は国家が認める高知脳の持ち主だ。二人の助けを借りれば、きっと幻影の謎を解き明かせる。
その発想に利己性があることは十分に自覚した上で、レオは意を決して二人に経緯を打ち明けた。
肖像画のこと、靴のこと、会場の少女のこと、夢のこと、鍵のこと……。
姫奈は、不慣れな非科学的な話に戸惑いつつも真剣に聞き入った。霊現象の信憑性はともかく、彼は筋道立てて冷静に話すことができており、気が触れているようには思えなかった。先刻、彼が唐突に歴史書を求めてきたことと照らし合わせても辻褄は合っているし、何より彼の妹への真摯な思いはしっかりと伝わってきた。
そして、レオが頼むより先に彼女は自ら協力を申し出た。実のところ、彼女は、父親が主導者の一人を務めた雨乞いがあんな悲劇を招いてしまったことに負い目を感じており、こうしてレオの手助けをすることで父の罪を贖えるかもしれないと咄嗟に思ったのだった。
一方、アンブローズは、今まで脳のキャパシティの無駄遣いだと言われ続けてきた、魔術に関する膨大な知識が役立つときが来たと見て、心を躍らせた。しかし、王家のトラウマとタブーが絡んだ事態でそのようなポジティブな感情を垂れ流しにするのが不適切だと認識する程度の常識力は持ち合わせていたので、真剣な表情は崩さなかった。夏休みの宿題は溜まりに溜まっていたが、始業直前に3日ほど徹夜を続けてそれらを終えることを心に誓い、今は姫奈と共に全力でレオのサポートに回ることを即決した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます