Book 2-I : 懐かしき新世界
「え〜も〜封印解いちゃったんすか〜? 一言声掛けてくれればよかったのにぃ〜」
直立不動で目下に広がる世界を眺めていたレオのすぐ傍に、いつの間にかアンブローズが歩み寄ってきていた。物心ついた頃から大人の目を盗んで魔術に触れてきただけあって、その表情から強い驚嘆の念は窺えない。
レオが振り返って、つい先程まで混沌を極めていた驚異の部屋を見渡すと、自由自在に動き回っていた生き物や楽器、モップはもう見えなかった。全て下の世界に流されていったのだろうか。そして、いつの間にか雨雲も消えていた。残されたのは、水が引いた床上に散乱するガラスや陶器の破片のみだった。
「つかど〜やったんすか?」
「分からないよ。ここに水が流れ込んで、あとは自然に……」
言いながら、「自然」という単語がこの状況にはしっくりこないと感じた。
「眩しすぎて最後の方はまともに見ていられなかったんだ」
次に歩いてきた姫奈は、よく動く眼球で扉の中の空間を見渡し、状況の分析を試みているようだった。
よかった。
レオは安堵した。二人とも怪我はないようだ。それは、あの逼迫した事態にも関わらず銘々が賢明で適切な判断を下せた結果だが、レオがこれほど有能な泳ぎ手でなかったら、今頃どうなっていたか知れない。今まで趣味として続けていた水泳の能力で初めて他者の役に立てたことを、レオは誇りに思った。
最後に扉のこちら側に足を踏み入れたジョヴァンニは、少し離れたところから魔界を目の当たりにし戸惑いと好奇の入り混じった微笑を浮かべたが、すぐに振り返って後ろを確認した。無法地帯での生活は、常に背後への注意を怠らないことの大切さを彼に教えたのだった。
ガッ。
突然、驚異の部屋と廊下を隔てるドアの隙間——いまだに閂代わりの箒が差し込まれている取っ手の少し上——から、平たく面積の広い金属製の刃が飛び出した。騎士達が斧で向こう側から箒を切断し、ドアを開けようとしているのだ。
ジョヴァンニが反射的に開かずの扉の片側を押し戻し、レオも即座に反対側に手を伸ばした。そこでレオは、自身の左手にまだしっかりと鍵が握られていることに気づいた。あれほど切羽詰まった状況で、生き延びることしか頭になかったのに。人体は時としてその持ち主さえも予想だにしなかった動きを見せてくれる。
扉を閉めた二人の間で姫奈が錠を指でなぞり、その構造を速やかに調べた。
「鍵、見せて」
その言葉を受けて鍵を持つ手を開こうとしたレオだが、その手をあまりに強く握りしめていたがために、関節が滑らかに動かなくなってしまっている上、掌の下半分には深い爪痕が刻まれていることに、我ながら衝撃を受けた。
「よかった。シンメトリーみたい」
鍵を水平にして見ると、鍵山部分はきれいな左右対称の形状になっていた。きっと扉のどちら側からもこの鍵一本で施錠・解錠できるのだ。魔界側からの施錠にあたり別の鍵が必要となる可能性を姫奈さえも今の今まで考慮していなかったのだが、そのような懸念は無用だったという訳だ。
グギギ。
ガチャ。
変わり果ててしまった驚異の部屋の内部で唯一、この扉のみ原状回復が完了した。
それと同時に、向こう側から木板を蹴破るような音がして、直後に大勢が傾れ込んできたのが分かった。騎士団達に計画を挫かれるのを間一髪で阻止できたようだ。
*********
絶えず流動しているように見える滝型の階段は、どういう訳か、実際に踏みしめてみると固形物の性質を持っていた。そのため、レオ達は沈むことも流されることも滑りそうになることもなく階下に降りることができた。
階段の真下には小さな池があり、一番下の段がその淵の一部と重なっていた。あの生き物達はここに潜っていったのだろうか。一方で、楽器やモップなどの器物の数々は、生気を失ってそのほとりに転がっていた。
見渡すと、魔界は美しい場所だった。
とはいえ、そこはなんの変哲も無い草原で、地球上にあるそれとなんら変わらなかった。空は快晴で、太陽が燦々と輝いていた(時差があるのか、その位置からしてまだ昼過ぎのようだ)。周りを木々に囲まれた草原の中で唯一、現実離れしているものといえば、瑠璃色や藤色、薔薇色など、あらゆる色の葉をつけた一本の大木だけだった。それにしても――。
この場所は!
「ねぇ、ここって……」
右斜め後ろの姫奈も同じことに気づいたらしい。
そうだ、ここは、あの雨乞いの儀式が執り行われた野原と瓜二つだ。前述の池と大木の存在以外に目立った相違点はないように思われる。
あの野原が一体どこだったのか、レオは物心ついて間もない頃の記憶から判断できずにいた。宮殿から、干からびた草花で覆われた道を通って徒歩で現地へ向かったような気はするのだが、1814年現在、自宅周辺にそのような空き地は存在しない。
その思い出の場所に最も類似しているのは、王族達の食卓に並ぶ野菜の栽培が行われている30㎡にも満たない庭園で、身体が小さかったが故にそこを広大な土地として記憶してしまったのだろうと無理やり自分を納得させていた。
しかし、それは間違っていたのだ。もし魔界が元いた世界のパラレルワールドなら、この場所は、今は学院が建っている地点ということになる。どうりであの野原がもう存在しない訳だ。
皮肉なことに、未知の世界で驚愕の次に彼が抱いた感情は、懐かしさだった。
若しや――。
根拠なき空想が膨らむ。
僕達は、空間のみならず、時間も移動したのではないか? この世界は、もう一つの世界の過去の姿を反映しているのでは? だから学院が設立される前の情景がこうして残されているのだ! 妹の幻影があの頃の姿のままだったのも、そのために他ならないのではないか?
「あ〜なんか目がヘンなんすけど〜」
レオの思考がアンブローズの声に遮られた。
振り返ると、アンブローズは左右の目を交互に閉じながら辺りを見回していた。
「標本に使われてた薬品か何かが入っちゃったのかも」
姫奈がそう言いながら彼に歩み寄り、その目を覗き込んだ。
「何これ? 片目の色が変わってる!」
「えマジっすか? なんかヤバい感じっすか? 充血してる的な?」
「違うの、左目の瞳が! いろんな色が混じってる!」
「何それヤバス、ヤバテロス、ヤバタトス」
「なんていうか……昆虫の羽みたいに光の加減で違う色に見えるの」
レオも至近距離から見てみると、確かに薄い青から黒に限りなく近い茶色まで、人間の瞳の色として発現しうるあらゆる色が混ざっており、そのグラデーションが見る角度によって変わる。
「なんか右目と左目で見え方が違くて〜左目だけなんか焦点合わない的な」
「眼鏡外してみたら?」
姫奈の言う通りにしたアンブローズの瞳孔が大きく開くのが、側から見ても分かった。
「うぉ〜なんか左目だけメガネなくても見える〜!」
それは、その日のその時点までに遭遇したあらゆる魔的現象よりも大きな衝撃をアンブローズに与えた。眼鏡なしで世界を見ていた頃の記憶は、彼にとってあまりに遠いもので、朧げにしか残っていなかったのだ。レンズを通さずに見る鮮明な世界は、実に新鮮だった。しかし、それと同時にわずかながら落胆も覚えた。
「でもなんかオレ……一瞬スゴいパワー体得しちゃったのかと思ったんすけど……ただ片目回復しただけみたいっすね」
その落胆をユーモアで誤魔化そうとしたが、上手い言い回しが思い浮かばず、ただただ本音を吐露した。
「でも不便っすね〜」
眼鏡の左側のレンズを指で押して外そうとしたが手を止めた。
「あ〜オレ予備のやつこないだ踏んじゃって壊したんだった」
姫奈が胸元に収めていたすみれ色のハンカチーフを抜き取り、彼に手渡そうとした。
「眼鏡は外して、見えない方に眼帯しておいたら? これじゃ長さが足りないかな」
受け取ろうとしたアンブローズをレオが制止した。
「待って! こっちの方が長いし多分巻きやすいよ」
襟元に結んでいた深緑のバンダナを解いて差し出した。アンブローズはそれを受け取り、右目のみが覆われるように頭部に巻きつけた。
「おお〜これが視力イイ人目線なんすね! つかヴィジュアル的にどうすかこれ? ヘンじゃないすか?」
「……いいと思うけど?」
レオと姫奈は当たり障りのない返事をした。
「アフロディーテ的にはどうなんすかね、お兄さん」
それまで無言だったジョヴァンニにもコメントを求めた。
「え? 別に……髪の色に合ってていいんじゃね?」
「え〜マジっすか〜? めっちゃテンション上がるっす〜」
アンブローズは照れ隠しに話題を逸らそうとして再び周囲を見回し、複数あったモップのうち一本がちょうど足元に横たわっているのに気づいた。
「じゃ、オレ早速偵察してみますね〜裸眼で」
そう言ってモップに跨ると、瑞々しい芝生をぽんと蹴った。
そこだけ重力がなくなったかのように、ふわりと彼の体が持ち上がる。まるで童話や言い伝えに登場する典型的な魔法使いのようだ。
「おお〜! なんか……」
いつもより体が軽くて飛びやすい!
言いかけたアンブローズは、あまりにも慣れた手つきで離陸してしまったことを悔いた。これでは、日頃から飛行の魔力も乱用していたのがバレてしまう。もっとも、ここまで人目につく魔術は、祖父が残していったシルヴェスター家の私有地内でしか試したことはなかったが。
「……空気がめっちゃ
適当を言って誤魔化したが、あながち嘘ではなかった。言語化するのが困難だが、空気がそのままエネルギーに変換されて全身の筋肉に行き渡るような、呼吸をしているだけでパワーが増大していくような、他に類を見ない感覚に包まれ、物理的にだけでなく精神的にもふわふわと浮遊しているような気分になった。
「あっ、あっちの方にアゴラ的なのが!」
南西の方向を指差しながら言った。
やはりそうなのか。この野原とアンブローズの目線の先にある地点の相対的位置関係は、学院とアゴラのそれと同じだ。
アンブローズは少し高度を下げ、指差した方向に進路を変更した。その前方斜め下には色とりどりの大木がある。
ザザッ。
「お、いててっ」
自身と大木との距離を見誤り、梢に片足を引っ掛けてしまった。
すると、まずその部分の葉が一気に舞い上がり、そこから波紋が広がるように全ての葉が枝を離れて四方八方に広がっていった。
よく見ると、それらは葉ではなく、蜻蛉と蝶を混ぜたような蟲だった。ステンドグラスのような羽を持ったその蟲達は、群れを成し、地上に佇む3人を取り囲んだ。
姫奈は、地下水路で見せた屈託のない笑みを再び見せた。
それまでレオの心に影を落としていた、魔界に対する不安感が心なしか薄らいだ。魔界は実に美しい場所だ。ここまで華やかな情景は、数年前に出席した親戚の伯爵令嬢の結婚式以来かもしれない。
未知の世界に心惹かれる彼を引き止めるように、妹の涙が脳裏を掠めた。この場所の何が彼女をそれほど悲しませるのだろうか。
その揺れる心を知らないジョヴァンニは、無垢で平和的に見える光景に顔をほころばせている他の3人に侮蔑の念を抱いていた。美しさというものが得てして表面的で欺瞞に満ちていることを熟知していたからだ。
そして、初めてあの忌まわしい町に迷い込んだ時と似た感覚にも苛まれていた。ここでは右も左も分からず、頼れる相手を見つけられる保証もない。
『イベリア半島にも魔界の扉ある?』
先刻のその問いにアンブローズは答えることができなかった。魔界と人間の世界を繋ぐ扉が世界に複数存在することは本で読んで知っていたが、それがどこにあるかまでは分からなかったのだ。
大航海時代以降、スペイン人は世界中のあらゆる地域を侵略した。こちらの世界にも彼らの一部が到達したのではないか?
そこまで考えたジョヴァンニの首筋に、何者かの生温かい吐息がかかった。
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