Book 1-VI : Εὕρηκα!
目覚めた瞬間、レオはうつ伏せになって寝ていたことに気づいた。息苦しく感じたのは錯覚ではなかったのだ。それにしても奇妙なほど現実味に満ちた夢だった。
窓の外では晩夏の太陽を浴びた海が優しく波打っている。始業まで5日を切った。今日は図書館を含む学院の諸施設が運営を再開する日だ。
学院のことを考えたレオの記憶のフィルターから、昨晩の苦い経験が滲み出てくる。嫌なことがあった日の翌朝はいつもこうだ。
彼女は結局、どこに身を隠していたのだろう。
「身を隠した」と言えば、夢の中のニムエが消えていった先には何があったのか。
ニムエと姫奈、二人の影がレオの頭の中を変わるがわる満たしていく。ニムエのことを優先させろ。そう心の声が急き立てるのを受け、姫奈に対して謂れなき負い目を感じてしまうのだった……。
*********
開館時刻を過ぎているのに、図書館は暗かった。まだ誰もいないのだろうか。歴史書を閲覧するには司書か、アシスタントの生徒に声を掛けなければならない。レオがカウンターに向かうと、誰かがデスクに突っ伏していた。人の気配を感じ、その誰かは頭をもたげて顔を覆っていた重厚な焦茶の髪を手で掻き上げた。
それはなんと姫奈だった。
「藤原さん! 昨日は……いや、ここで働いてるの?」
まさか、ここで一夜を明かしたのではないよね? 思わずそう聞きそうになったが、すんでのところで自制心が阻止してくれた。もし見当違いだったら、そのような突拍子もないことを考えついてしまう程度の思考力しかない人間だと思われてしまう。
姫奈は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。昨晩、会場を抜け出した彼女は、一人っきりになれる場所を探した。運よく合鍵を携帯していたことに気づき、月光すらまともに届かない図書館に潜り込んでそこに蹲った。やがて自分の将来までもが闇夜に掻き消されたような気がしてきて、家に帰る気力も失った。濡れ衣を着せられ、疑いが晴れなかったら大学入学内定を取り消されてしまう上、メリストクラットの地位まで脅かされるかもしれない、などと考えているうちに意識が途絶えた。
自分を取り囲む棚にぎっしり詰まったを本を見て、姫奈は昨日の記憶を取り戻した。
「あの……昨日は……あっ」
反射的に立ち上がり、一瞬、視線を落とすと、咄嗟にデスクに置かれていたファイルを掴んで上半身を覆い隠した。裸体を目撃されたかのようなその反応は、身につけていた豪華なドレスとはちぐはぐな行動だった。
その一連の動作を目の当たりにしたレオは、そこでようやく自分の直感が正しかったことを悟った。彼女の服装は、昨日と全く同じだった。それは、ここに一晩中籠っていたことを自白しているようなものだ。それ故の反応だったのだ。
「昨日は、あの、本当にごめんなさい」
姫奈は再び謝罪した。
「あっ……どうして謝るの? その……君は悪くないってみんな分かってるよ」
どうしてもっと気の利いた言葉を掛けてあげることができないのだろう。レオは不器用な自分に腹を立てた。そして、アテナの館にはもっと雄弁に彼女を慰め心の安寧に導ける男性がいるのだろうという勝手な憶測から、自己への苛立ちとは別種の感情も芽吹いた。
「えっと、今日は何しに来たの?」
少しの間、沈黙が流れた後、気まずさを誤魔化すように姫奈が口火を切ったが、その直後、図書館の来館者は何らかの資料を探しに来ているに決まっていると考えてより気まずくなった。
「あっ……あの……ちょっと探してる本があって」
そう返したレオも、図書館の来館者が何らかの書物を探しているということは言うまでもないと気づき、更にいたたまれない気分になった。不適当な返答をしてしまったことを後悔しながら姫奈の後ろのガラス張りの本棚に目を走らせた。古典作品や著名人の直筆の手紙といった貴重資料に紛れて、目当ての本の金文字のタイトルは浮かんでいた。
『HISTORIA VARBALLIÆ』
「そこの『イストリア・ヴァルバッリアェ』なんだけど(Hを発音すべきだっただろうか? VAを『ウァ』と読むのが適切だったか? Æの発音がEに近すぎて変だったのではないか? 文系なのにラテン語もまともに発音できない人間だと思われたのではないだろうか?)なんとなくこの機会に読んでみたいと思って……」
「『この機会』って?」
姫奈は速やかにガラス戸を開け、本に手を伸ばしながらそう言った。彼女は好奇心旺盛で、疑問に思ったことをすぐに口に出してしまう癖があった。
「あっ……それは……」
レオは目を泳がせた。一体どんな「機会」ならこの本を読みたいという欲求を生じさせるだろう。このまま自然な会話の速度を維持しつつ説得力ある設定を構築するのは至難の業だ。相手がこれほどまでに論理的整合性に敏感な人物なら尚更だ。
「ま、別にそんなのどうでもいいんだけどね、『どうでもいい』というのは語弊があるけど要するにその『機会』自体がどうでもいいという意味ではなくあくまで私には関係のないことだから」
姫奈はレオが言葉に詰まっているのに気づき、自分の数秒前の言動が対話相手のプライバシーを侵害する恐れがあることを認識した。それも、ただの人ではない存在のプライバシーを。この際、強制的に対話を完結させるしかない。
「とにかく! これは貴重資料だから3日以内に返却してね」
姫奈は焦燥感から声量の制御能力を失いつつあった。
「そっ、そうだよね。これは貴重資料だから3日以内に返却するんだよね。本当にありがとう」
レオは不自然極まりないながらも文法的には正しい文をなんとか生成できた。そして、リハーサル不足の戯曲のような会話の末、求めていた本の入手に成功したのだった。
なんだ。簡単じゃないか。
気まずさの後味は残るが、やや拍子抜けしてしまった。貴重資料を閲覧するには特別な手続きが必要となる可能性を考慮し、複数のシナリオを想定して頭の中で入念に幾度もイメージトレーニングを遂行した上、身分を保証するものの提示を求められた場合に備えシグネットリングまで持参してしまった自分が馬鹿らしく思えた。そもそも、人は(よほど詮索好きな人を除いては)他人の私的事情に無関心なものである。それにも関わらず何か行動を起こすたびに人の目を気にするのは、自意識過剰というものである。
レオは帰宅する時間を惜しみ、図書館前の自習室に直行して歴史書を開いた(こうして即座に次の行動に移るのは、気まずさから気を紛らわすのにもうってつけの対処法だ)。目次を見ると、雨乞いの儀式とその影響についての記述は約30ページに及ぶらしい。3日もあれば余裕で読み終えられる。
そう意気込んだが、ほんの数ページ読んだだけで集中力が途切れた。本は中身までラテン語で書かれていた。中等部時代からラテン語を学んでいたレオだが、古代印欧語特有の分語法を多用した文章を読み解くのは労力を消費する。やはり3日では短すぎるだろうか。
レオは読むのをやめ、何気なくページをパラパラとめくってみた。随所随所に丁寧なイラストが挿入され、図説のようなデザインになっている。そのイラストのうちの一枚が目に留まった。観音開きの扉。昨日の夢に出て来た扉に酷似している。なぜ見覚えがあるのか、今になってやっと思い出せた! 校舎地上階の「
Εὕρηκα! レオはそのイラストが載ったページを読み進め、扉の向こうには、封印されし魔界の入り口が隠されているという事実を知った。このことは『学院の七不思議』の一つとして生徒たちの間で噂されてきたが、まさか本当だったとは。ということは、昨日見た夢は、ニムエがどういうわけか魔界に行き着いたということを示しているのだろうか。
実は、この解釈の信憑性は高いと考えられる理由が一つだけあった——。
*********
暴君として知られていた先王・クロノス4世——イネッサ女王の父——は度々、公務を放棄して狩猟を楽しんでいた。レオが生まれる十年ほど前、人間界での狩猟に飽きた王は、貴族階級の狩猟仲間や側近たちを引き連れ魔界へ遠征に出るようになった。そこで彼は、幸せを呼び万病を癒す伝説の赤い鳥を見つけた。すぐさま鳥を標的にした彼だが、その烈火の如く光り輝く紅の羽に目がくらみ、まともに狙いを定めることができなかった。鳥は攻撃を躱して遥か彼方へ羽ばたいて行った。王はその弾みで落ちた尾羽を人間界に持ち帰った。その羽を見たマーリンは血相を変え、直ちにそれを返還しなくては国に災いが起こると忠告したが、王は聞く耳を持たなかった。
抜け落ちた後も輝きを失わない羽を王が自室に飾って悦に浸っている傍、当時10代だったイネッサ王女を含め、王族一同はマーリンの予言を片時も忘れることはなかった。王の崩御の直後、レオの父であり元騎士の故・カストル王配は、その羽を返還すべく、ご懐妊中の新女王を残して魔界に旅立った。しかし、王配は鳥を見つけられぬまま不慮の事故で帰らぬ人となり、羽は彼の亡骸とともに再び王国へ持ち帰られた。
それ以降、羽は宮殿の一室で、その他の数々の秘宝に埋もれて眠っている。
13年前の大飢饉の際は、国民の多くがこの件を思い出してマーリンの予言が的中したと考え、マーリン本人もそれに同意していた。そして、プリンセス・ニムエが行方不明になったとの知らせを聞いた国民は、彼女の無事を祈りながらも、こうして図らずも王家が生贄を捧げたことで暴君の罪が償われたのだと密かに囁き合っていたのだ。
*********
記述によると、魔界が封印された後、「開かずの扉」の鍵は王立博物館に寄贈されたらしい。
マルチェッロ!
レオは反射的に連想した。持つべきものは友……だが、そこで思考が止まってしまった。鍵との物理的距離が近いというだけの彼に何ができるというのか。
マルチェッロにどのような権限が与えられ、どの程度自由に展示品を扱えるのか、レオは知らなかった。展示品が教育や興行のために学院や公共施設に貸し出されることならある。それでも、そういう特別待遇を許可するのは正職員の、それなりに地位が高い誰かだろう。そもそも鍵は「寄贈された」とのことだが、展示はされているのか?
確かマルチェッロの主な職務は清掃で、その次に頻繁に行っているのはガイドツアーだったはずだ。主な対象は考古学や美術の学生で、彼らの多くは展示品のスケッチや模写のために訪れるという。
「模写」というキーワードに辿り着いてハッとした。
そうだ。ホンモノである必要なんかない。
歴史書によればかつて1日に延べ数十人の国民が出入りしていたという魔界の扉だ。スペアキーの一つや二つはあるのではないか?
歴史書の中の鍵に関する記述を見返した。Clavem、clavis、clavi。「鍵」を表す語は常に単数形で現れる。それでも可能性は捨てきれない。ヴァルバリア語では「鍵」は単複同形なのだ(昔は海賊や敵対的な魔物から身を守るために玄関や窓に幾重にも錠前を取り付けるのが当たり前であり、その結果「鍵」は質量名詞扱いになったのだと言われている)。それで、本当は複数の鍵があったのに単数として誤訳されてしまっただけかも知れない。
もちろん、スペアキーだって歴史的に重要な物であり、厳重な管理下で大切に貯蔵されているのだろう。来訪者が好き勝手に持ち出せるはずはない。それでもホンモノを入手するよりは格段にハードルが低いのではなかろうか?
やはり持つべきものは友だ。望みは薄くても、やはりここではマルチェッロを頼るのが得策のように思えてきた。
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