第24話
華奈が二つ目のサンドイッチを食べ終わった時、轟は壁の時計をちらりと見やる。そして、もう昼休みが終わるまでの時間が残り少ないことを悟ると、言うべきか悩んでいたことを、意を決して伝えた。
「華奈」
呼ばれた彼女は、口の端に着いたクリームを舌で舐め取ったところだった。そして轟を無邪気に見つめる。今やすっかり、華奈にとっての轟は、改めて心を許した相手になっていた。空腹に苦しんでいるところを救われたというのが、それほど華奈にとっては大きい出来事だったのだろう。
轟は、一度目を伏せて言葉を整理してから、小さく息を吸う。
「……もし、困ったことがあったら、話して欲しい。お父さんにされてることも、何となく分かっちゃってるし」
そう言われた途端、華奈は冷や水を背中に流されたような気分になる。そして焦りを憶えながら、口が勝手に動くのを感じた。
「ち、違うんです。わたし、出来が悪いから……」
内心では、助けを求めたいという思いが顔を出す。しかしその本心を押し潰すようにして、恐怖心が現れた。思えば、華奈はその気になればいつでも誰かに相談できる環境だった。すぐに助けを求められる状況だった。しかしそれをしないでいたのは、この恐怖心からである。
もし誰かに助けを求めたとして、それが父に露呈したら。そう思うと、気が気ではない。きっと、もう二度と学校にも行けなくなるだろう。自由を奪うために父が何をするかも分からない。ひょっとすると、より辛い日々が始まるかもしれない。
それに、助けを求めたところで、それが叶わなかったら。見放されたら。そんな想像もまた、彼女の判断を鈍らせていた。
華奈は、自分の意思とは裏腹に、父を擁護ばかりする口が憎かった。
「それに、お父さんも悪い人じゃないんです。本当に優しい人で、わたしがちょっと失敗しても……そうです、ちゃんと見放さずにいてくれて。たまに叩いたりもしますけど、でもわたしは一人で生活出来ないし、お父さんがお金を稼いでくれてるお陰で……」
スカートの裾を強く握り、必死で轟に弁明する。父は悪くない。わたしに原因がある。それを何度も繰り返す。どれだけ口が乾こうと、父の事を悪く言うなど到底出来なかった。必死で次の言葉を絞り出し、父を擁護する。轟は、ただ黙って、そんな華奈を見つめていた。眉を下げ、まるで痛ましいものを見るような表情で。
「だって、お父さんが居なかったら、わたしは何も出来ないんです。何ひとつ自分でちゃんと出来なくて、だからお父さんが厳しくするのは、わたしの為なんです。わたしが怠けてばかりだから」
声が震え、涙が滲む。様々な感情が堰を切って溢れ出し、込み上げるものを抑えられない。轟が悲しそうに自分を見つめていることに気付いても、口は止まらない。華奈にとってそれは、まるで自分の存在そのものが間違いであるかのように、自分を責め立てる辛い行為だった。しかし、そうして必死に父を守り、忠誠を示すことだけが、父からの愛を僅かでも得られる方法だと信じていた。
轟が、もし何か父と自分を引き剥がす行動に出たら。父と離れてしまったら。そう想像するだけで、身の毛がよだつ。自分は、父という存在無くして有り得ない。そう決めつけて疑わなかった。そこに多少の暴力が介在しようと、華奈は、依存している存在がない状態での自分など、想像も出来ない。
まるで視界を封じられた状態で、見知らぬ町に放たれたような恐怖を思い浮かべた。
「それに、お父さんはちゃんと考えてくれてるんです。このコートだって」
華奈はまるで何かに追い詰められているかのように、息を切らしながら慌てて背もたれにかけてあるそれを掴む。身体の前へ持っていき、轟に見せつける。
「わたしが寒いって言ったらすぐに……わがままなのに……それにわたしなんて、全然頑張ってもいないのに」
手の甲に、涙が落ちる。迫りくる恐怖に息を荒げながら、必死に父の正当性を説く彼女の声はどこか空虚で、響きのないものだった。瞳は恐怖に震え、追い詰められた気持ちで藻掻きながらも、救いの光へ手を伸ばすことすら恐怖して目を背けてしまう。まるで、波間に流された溺れるクラゲのように、無力で、寄る辺なく漂っていた。
華奈は重い足取りで、玄関をくぐった。トリミングの成果があったのだろうか。アックスは少し怯えた様子で華奈を見つめていたが、吠えることはもうなかった。ただ大人しく柵の向こうからこちらを見つめている様子に、しかし華奈は気付かない。
あの後、昼休み終了を告げるチャイムが鳴り、華奈はようやく押し黙った。轟も、辛そうに眉を顰めたままだったが、やがて何か2、3言伝えてから、部屋を後にした。その足取りは、まるで逃げるようで、華奈は助けを求められない弱い自分を噛み締めながら、悲しそうに部屋を後にするその背中を、音で感じるしかなかった。
その後の授業も、当然身が入らず、気が付いた時には全ての授業が終わっていた。ただその間、ずっと、轟が父と自分を引き剥がそうとしないか、それだけが気がかりだった。
重い足取りで靴を脱ぎ、柵をゆっくりと閉めて自室へ向かう。その姿を、アックスは警戒しながら、顔で追っていた。
救って欲しい。そう心の中で願いながら、しかし父と引き剥がされることをとても恐ろしく思う自分の、相反した感情。それは華奈自身も、理解出来なかった。ただ、轟にそんな自分の気持ちを理解して欲しい。という、とても身勝手な思いだけを抱いている。結局、その後に轟と会うことはなかったが、家に帰ってきてからも、その心配だけはずっと付きまとっていた。
ベッドの隣に鞄を置き、ゆっくりと自分も腰を降ろした。周囲は暗く、父の帰りまではまだ時間があるはずだったが、まるで何かに追い詰められるような気持ちと、身体を支配する倦怠感に囚われ、心がざわついていた。
ふと、轟の表情が浮かぶ。彼女が見せたあの痛ましいような眼差し。何も言わずに去っていった後ろ姿。華奈は、彼女がこれまで自分の話を黙って聞いてくれていたことを思い出し、微かな温かみを感じた。しかし同時に、それは恐怖にも繋がっている。もし彼女が本気で自分を助けようとしたら——父と自分の関係を壊そうとすることの、それがどれだけ恐ろしいことか。
夕食の用意をしなければ。そう頭では分かっていながらも、華奈は身体をベッドに横たえた。無意識に着たままのコートを全身で感じる。これがあることで、父の存在が身近に感じられるようで、少し心が休まる。しかし、その安寧もどこか不安定なもので、父の恐怖を思い出さずにいられない。
程無くして、その恐怖に駆られるようにして身体を起こした華奈は、コートを脱いで1階へ降りた。いつも以上に疲れ果てた身体を引きずるようにして台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。やることをやらなければ。自分の仕事をしなければ。そう思い直し、心の奥で感じる不平を飲み込んだ。
部屋が薄暗くなり始めた夕暮れ時。玄関の扉が開く音と共に、父が帰ってきたと華奈は察知する。少し汗ばんだ手で包丁を握り直し、出来るだけ平静を装いながらまな板の上に横たわる鯖の切り身に目を戻す。
すぐにリビングの扉を開け、父が上着を脱ぎながら入ってくる。
「おかえりなさい」
か細い華奈の声に、しかし父はいつも通り反応を示さない。ただ黙って台所へ近づいてくると、華奈がぴったりとシンクに身を寄せた、その後ろを通り過ぎる。そして、まるで華奈などいないものかのように冷蔵庫を開け、ビール缶を一本取り出した。
プルタブが開く音が大きく響き、華奈は父の機嫌が良くもないが、悪くもなさそうだと安心する。
その華奈の小さな背中を、父は缶を口に当てながら見つめた。
「……昼、何を食べた?」
父の声が静かに響く。瞬間、辺りの空気がまるで棘のように華奈の全身へ突き刺さる。皮膚がちくちくと痛むような錯覚を覚え、重苦しい空気が喉へ詰まって呼吸すらままならない。
華奈は、そんな質問をこれまで一度もされたことがないことを思いながら、まるで自分の内面が全て父に見透かされているかのような感覚に襲われる。動揺した心を必死で隠そうとするが、頭の中で何を言うべきか、纏まらない。
夕食以外、食べることを父は許していない。華奈はその時こそ都合良く解釈したが、もし父にサンドイッチを食べたことが知られてしまえば、きっと言い訳の余地などなく、殴られるだろう。
咄嗟に、口を突いて嘘が出た。
「何も……食べてません」
殆ど初めてと言っていい、父に対しての嘘。華奈はまな板から、握りしめた包丁から視線が外せない。ただ一心に、どうか露呈しませんように。そう心の中で唱え続けた。
父は、微かに口元を歪ませ、笑みを浮かべた。
「そうか、何も食べていないなら、夕食が楽しみだな」
華奈はそんな父の含みある言葉に、更なる焦りを感じた。全身から汗が吹き出し、眩暈すら感じる。その時、華奈はすぐ背後に父が歩み寄ったのを感じた。
華奈の踵に父のつま先が当たりそうな程の距離で、父は上から覆いかぶさるように華奈を見降ろした。
「もう一度、聞くぞ。何を食べた?」
彼女はどうするべきか、もう分からなかった。ただ無我夢中で、言葉だけが紡がれる。
「えっと……わ、わたし、お昼は……何も食べてないです」
それを自分で認識した瞬間、心の中に罪悪感と恐怖心が押し寄せる。父は肩を跳ねさせ、隠し事をしている華奈の反応に気付いていた。まるで獲物をもう逃げ場のない所まで追い詰めたかのように、口角を吊り上げる。
「それは、いいことだ。俺が言った通り、夕食以外は食べてないんだな」
その言葉に、一瞬華奈は嘘が見抜かれてはいないのでは。と僅かな希望を持った。
次の言葉が始まるまでの、ほんの数瞬であったが。
「サンドイッチでも食べておけば良かったのにな」
ふっと、華奈の目の前に父が腕を伸ばして、レジ袋を置いた。それは紛れもなく、華奈が昼、轟から貰ったものだった。
父は華奈の後ろに立ち、片手でビールを飲みながら、もう片手でその中に手を突っ込む。そして、クリームのついた包装を、一つずつ、確かめる様につまんで横へ置いた。その丁寧な動作は、却って華奈を怯えさせた。
父はやがて、二つの包装と、未開封のサンドイッチ一つを並べると、華奈の耳元に口を近付けた。そうして、小さく唸る。
「もう一度、聞いてやろうか? お前はどこで、誰と、何を食べてた?」
父の顔は、相変わらず笑みを浮かべているが、その声音には怒気が含まれていた。華奈は頭が真っ白になり、喉が恐怖で震え始める。視界が狭まるのを感じ、目線すら動かせない。
「お、お昼は……」
口を開くが、恐怖で言葉が続かない。父の目は、そんな華奈をじっと横から見つめていた。
「俺に隠れて、友達から食べ物を貰ったのか? それとも、俺の渡してる金を使ったのか? どっちにしろ、お前が卑しい奴だという事に変わりはないがな」
その言葉に、華奈は思わず肩を竦める。首筋に父の生温い吐息がかかり、まるでこれから捕食される獲物のような気分だった。
「で、どっちだ?」
再び静かに質問され、華奈は何とか言葉を絞り出す。
「……サンドイッチ、を、貰いました」
「そうか。で、お前はいつまでこんな事を続けるつもりだ? もうお前のせいで、どれだけの手間がかかっている思ってるんだ?」
父の声が徐々に大きくなり、華奈は肩を竦める。父はそんな華奈の右手を後ろから掴むと、背中に捻り上げた。直後、華奈の僅かな悲鳴が喉から漏れるが、抵抗しようにも父の力に勝てるわけがない。そのまま、容赦なく後ろ手に捻り上げられ、肩の骨と筋肉が悲鳴を上げる。
「何も食べていない? 本当に、何もかも隠し事だらけだな、お前」
父はそういうと、手に力を籠める。このまま、腕を捻り上げて肩の骨でも脱臼させてやろうか、という気持ちが沸き上がるのを感じた。これまで、反省して華奈に暴力を振るうまいと我慢していた自分が、馬鹿馬鹿しく感じられる。
「お前が嘘を吐いたくらいで、俺にバレないとでも思ったか」
次の瞬間、父は腕を離したかと思うと、そのまま空いた右腕で華奈の後頭部に手を添える。そして一気に力を入れ、礼でもさせるかの様に、顔をシンクに叩きつけた。
幸い、置いてあった包丁の傍に顔を打ち付けたので、切り傷を負うことは無かった。しかし鼻の奥に火箸を突っ込まれたような痛みに、涙を反射的に流しながら顔を上げた華奈は、だらだらと溢れ出てくる鼻血が制服を汚しているのを見た。
遅れて、恐怖が思考を支配する。
「う、うううう」
慌てて、何とか両手で鼻を抑える。血が床を汚さない様に、零れ出るそれを手皿で受け止めながら、流しの方へ移動する。しかし父はそれすら許さない。襟首を掴んで引き戻したかと思うと、華奈の髪の毛を掴んで、無理矢理に上を向かせる。そして自らも顔を覗き込んだ。
髪を掴まれ、鼻も痛み、涙をぼろぼろと流しながら鼻血を垂らす華奈は、恐怖で染まった目を泳がせながら、何とか父に取り入ろうと口を開いた。
「す、すみませんでした。嘘を吐きました。ごめんなさい……」
父はそんな、恐怖に支配された様子の華奈を見つめ、口角を吊り上げた。
「おいおい、初めから嘘を吐かなかったら良かったんだろ? やっぱりお前は、殴ってやらないと俺の言う事が聞けないか。馬鹿だもんな」
そう言うと、父は更に強く髪を引いた。
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