オクシモロン(仮タイトル)

なすみ

第1話




 進学校とはいえど、中学三年生にもなれば、大半の生徒は他の学校同様、若干の風紀違反や、授業中にスマートフォンを触るといった、良からぬ行為が目立つようになる。しかし、そんな中においても彼女は、およそ入学当初から変わらぬ態度で、授業に臨んでいた。その為か成績も、学年内で10本の指に入るほどの優秀さで、春休み前に作成した通知表も5が並ぶものである。

 しかし担任を含めた教師たちは、そんな彼女の優秀さとは裏腹に、入学当初から毎日のように繰り返される遅刻や、体調不良による早退。そしてブレザーやスカートから覗く手足に、包帯を巻いて登校していることを気にかけていた。

 教育熱心が行き過ぎた親の体罰か、はたまた家庭事情が荒んでいるのか。これほどの優秀さが故、考えにくいところではあるが、裏で喧嘩に明け暮れているのか。

 そういった噂が生徒から始まり、教師の間でもまことしやかに囁かれていた。そうして事を重く見た学年主任が、公にはしないまでも児童相談所に連絡を取り、彼女の自宅へ様子を見に行かせたり、家庭訪問の時にも注意深く観察していた。しかし最終的には、どれも原因の発掘に至るものがなかった。

 すると教師陣では次第に、市内有数の進学校において、わざわざこれ以上藪を突いて蛇を出す必要もないだろう。という考えになり、そういった動きもすっかりと、鳴りを潜めていった。

 そしてそれは、若干の違いこそあれど、彼女自身も望んでいることだったのだ。


 制服の衣替えから数週間もすれば、すぐに秋になったと感じるほど、特に朝と夕は冷え込むようになった。早くも色付き出した植え込みと、その根元で茶色くなっているねこじゃらしを見て、華奈はブレザーの襟を寄せた。

 吹奏楽部の奏でる音と、運動部がランニングする掛け声を背中に、速足で帰路を急ぐ彼女には、一緒に帰宅する友達はいない。皆、その中に交じって部活動に励んでいるのだろう。だから登校時はあれほど人が多かった道も、帰るときには同じ制服を着ている人はほとんど見えない。

 制服の下に暖かいインナーも着ていないため、また秋の風が吹くたびに、彼女は寒さを耐えるように肩を寄せ、カバンを引き寄せた。

 昨日の夕方は、こんな寒い中、一度スーパーに寄って、重い買い物袋を下げながら家まで歩かなければならなかったことを思うと、これでもまだマシかな。そう思い、カバンを背負い直す。

 そうして10分程歩いて、自宅の前に着く。その頃にはすっかり手足は冷え、そして胃は空腹による胃酸過多とこの後のストレスで、針でも飲んだかのようにきりきりと痛んでいたが、だからと言って帰宅しないわけにはいかない。

 帰りたくないな。心の中で思いながら、冷たい門扉に手を掛ける。

 自宅は、このあたりでもなかなか見ないような豪邸である。中学一年生の時に、初めて帰宅した際、華奈は驚いた。

 以前住んでいた人は退去し、それを家ごと父が買い取ったらしいのだが、華奈の記憶が正しければ、買取時、父は母と離婚し、一人だったはず。それがなぜこんなに大きな家を、と訝しんだものだが、今となっては何となく想像も付く。

 あの父親のことだ。見栄を張って、購入したのだろう。とにかく人からの見え方を気にして生きているような人だ。そのくせ、自分の家族からはどう思われていようとあまり気にしていない。

 自分の背丈以上もある塀で囲まれた中にそびえたつ、3階建ての家を見て、華奈は住み始めてからすぐにそう思った。

 それに、これほど敷地も広く、周りもレストランやビルが多い立地だ。普段の行いも、これなら周りに知られることがないだろう。

 門扉を施錠して、少し歩いてから小さな階段に足をかけ、やっと玄関にたどり着く。カバンの中から渡されている鍵を出して開けると、ゆっくりとドアを開ける。

 そうしないと、もし鎖が外れていた場合、飼っている大型犬の餌になってしまうから。

「ワンワンワンワン!」

 ガシャガシャと、柵を揺する音。そして、華奈の方に向かって牙を剥く、ジャーマンシェパード。華奈はほぼ毎日のことながら、すっかり足が竦んでしまって、その場に立ち尽くしてしまった。

 すると程なくして、階段の方から父の声が聞こえてくる。

「おい、うるさいぞ」

 階段を下りてきた父は、そういって玄関の方まで来る。それを合図に犬は牙を剥き、唸っていたのを辞め、父の足元で座った。

 警察犬として有名な犬種だからか、頭は良い。

「す、すみません」

 華奈は恐怖で唇を震わせながらそういうと、家の中に入って、後ろ手に扉を閉めた。

 別に何か、これまで犬にトラウマがあったわけではない。むしろ、この家に来てからそのトラウマを植え付けられた、というのが正確だろう。

 恐る恐る、靴を脱いで端に寄せ、柵に手をかけ——

「——アックス」

 華奈の動作に再び、警戒するように唸り出した犬、アックスを手早く静止して、父は足元を指さす。すると伺うように父を一瞥した後、アックスはようやく、警戒を解いたようだ。足元に伏せて、耳を寝かせる。

 その頃にはすっかり怯えてしまった華奈は、震える手でようやく柵を閉め、呼吸すら忘れていたことに気付く。

「あのな、いつも言ってるだろ」

 アックスを従わせたまま、父は言う。

「いつもいつも、帰ってくる度に吠えさせるな。うるさいんだよ」

「ごめんなさい」

 賢い犬というのは、主人が敵視している存在を察して、自らも牙を剥くという。どうやらアックスにすっかり警戒されている華奈は、約2年経っても、帰宅の度に吠えられ、その度に父が止めに入る。というのが恒例になっていた。

 他でもないその父が、原因なのだが。

「とにかく、いい加減にしろ。俺は暇じゃないんだ」

 鬱陶しそうにそういって、父は踵を返す。それに追従してアックスも、リビングへと向かっていった。

 華奈は再び、軽く息を吐くと、柵を閉めてから、荷物を置くために2階へと上がった。

 自室に入ると、カバンを下ろす。ブレザーをハンガーにかけ、この後のために持って帰ってきた教科書を机の上へ置き、そばへカバンを置く。

 果たして勉強が出来るほどの時間が、就寝までに確保できるか分からないが、しかし用意しないでおくと、忘れて寝てしまいかねない。華奈にとって、学校で過ごす時間より、家に帰ってきてからの方がよっぽど忙しかった。

 卓上の時計を見ると、18時30分を回った頃。これからすぐに晩御飯の支度をしなければならないが、洗濯機も回しておきたい。

 普段からしていることなので、今に始まったことではないが、華奈は自室を出て、階下のリビングへと向かった。

 リビングのドアを開けると、父が丁度、冷蔵庫からビールを取り出しているところだった。華奈は声をかける。

「あの、お父さん」

 返事はない。嫌われている自覚はあるし、別に華奈も父を好いているわけではない。

 ただ、普段なら華奈が帰宅した際、自室からアックスを大声で呼んで止めるところを、今日はわざわざ降りてきて小言を言ったりしていたので、少し気が立っているのだろう。

「洗濯を回そうと思うんですけど、先にお風呂、入られますか?」

 慎重に言葉を選びながら、話しかける。

 父は無言で缶を開け、ビールを煽った後、振り向く。

「わざわざ訊かなくても、それくらいわかるだろ」

「あ、えと……」

 これには華奈も、言葉が詰まる。内心では、分かるわけがないと呟いた。

 いつも父は夕食の前か後に風呂へ入るのだが、その前に洗濯してしまったとき、酷く怒られた。

 そして、前か後かは、その時の気分次第であると、少なくとも華奈は考えていたからだ。

 返答に詰まる華奈を見て、父は不機嫌そうに舌打ちをすると、缶を手に持ったまま、ゆっくりと近づいてくる。そして手の届くところまで来たとき、父は缶の底で、華奈の額を小突く。

「何も考えずに過ごしてるから分からねえんだよ。お前は気楽でいいな」

「……すみません」

「すみません、すみませんって」

 鼻で笑って、父は持っていた缶をひっくり返す。

「わっ」

「風呂は後だ。俺がビール持って風呂に入ったことあるか? 出来損ないが」

 頭を伝って、制服と身体を冷たいビールが伝う不快感を感じながら、華奈はしかし、何かを言い返したりするでもなく、ただ黙っていた。

 こういう時は、何か言い訳をしたり、反抗するよりも、ただ嵐が過ぎ去るのをじっと待つのが賢いと知っているから。

 すると、やがて父は鼻を鳴らし、自室へ戻った。その後をついていくアックスが、フローリングを爪でカチカチと音を立てながら歩き去るのを待って、華奈は目を拭った。

 こういった扱いは、今日に始まったことではない。華奈も今更、腹を立てたりはしない。ただ、腕や足の傷口に巻いてある包帯へ染みたビールが、傷口に沁みるだけだ。


 いつも風呂は父の後と言われているので、華奈は濡らしたタオルで手早く身体と髪を拭き、学校指定のジャージに着替えた後、そのタオルとバケツを持って、リビングも片づけた。そうしている間にも夕食の時間は刻一刻と迫っている。急いで支度をしなければ、また父に怒られてしまうだろう。そうなれば、次は頭からビールを掛けられる程度では済まないかもしれない。これ以上、傷を増やしたくない。

 冷たい水に顔をしかめながら、急いで床へかがみこむ。

 果たして、何とか時間になって父がリビングに再び現れるまでに、料理の支度は出来た。幸か不幸か、1人前だけ用意すればいいので、時間は思っていたよりもかからなかった。

 無言で椅子に座った父に、華奈は声をかけて缶ビールと冷えたグラスを差し出す。それをやや乱暴に受け取った父は、そのまま口も利かずに、料理を食べ始めた。

 その間、華奈はというと、向かいに座って一緒に食事をする、わけではない。

 この家に来てすぐ、父に、お前の汚い食い方を見てると食欲が失せる。俺が食い終わった後、勝手に一人で食べてろ。そう言われて以来、父が食べ終わった後を見計らって、急いで食事を摂っていた。

 なのでその間、華奈はというと、なるべく父の機嫌を損ねない様に注意しながら、アックスの食事を用意するのだった。

 アックスの皿を用意して、戸棚からドッグフードを用意する。それを決められた量入れて、別のソース状のものを上からかける。人間でも食べられそうな程、食欲をそそる肉の香りが鼻を突き、華奈は余計に空腹が刺激される。

 昼食を持っていくことも、増して朝食を食べることも許されていない華奈は、いつもこの時間になると、胃酸を吐きそうなほど腹が減っていた。あまつさえ昨日は父の機嫌を特に損ねてしまい、一日に一度しかない夕食すら、罰として食べさせてもらえなかった。ひょっとすると、今日の父が苛立っているのは、昨日の出来事をまだ怒っているのかもしれない。

 餌を用意している華奈の傍、ではなく座っている父の足元で伏せているアックスは、待ち遠しそうに尻尾を振って、華奈の方を見つめている。しかし華奈は対照的に、出来上がった餌皿を持つ手が震えて、とてつもない恐怖を感じていた。

 何もしていないのにそんなことはあり得ない、と分かってはいても、もし餌皿をアックスの前に差し出したとき、自分の手に噛みついてきたら、飛び掛かって襲われたら、そう思うと、気が気ではないのだ。

 新聞を見ながらゆっくり食事をしている父の足元に近づき、少し遠くの方から餌皿を滑らせるようにして差し出す華奈。アックスは食事こそ嬉しいが、警戒している人間が近づいてきたことに対して、ふっと立ち上がると、ぎろりと睨みつけ、口を閉じたまま小さく唸った。

「ふん、アックス、噛みついてやれ」

「お、お父さん……!」

 父のそれは軽口であったが、言われる華奈にしてみれば堪ったものではない。ここまで父の言うことを忠実に聞くこの犬が、冗談を命令と捉えて噛みつく可能性は大いにある。そう考えて、咄嗟に立ち上がり、後ずさりをする。

 しかし父は、アックス以上に気迫のある顔で、そんな華奈を睨みつけた。

「なんだ、文句でも言いたそうだな。口答えか」

 途端に、首筋にナイフでも押し当てられたかのような恐怖が華奈を凍り付かせる。

「違います。ただ、その、怖くて」

「怖い? 馬鹿を言うな。アックスがそんな程度で噛みつく訳ないだろ。お前よりよっぽど賢いんだぞ」

 華奈が後ろに下がったせいで、より強く唸っているところを見て、とてもそうは思えなかったが、しかし父に早くしろと急かされて、華奈は再び、ゆっくりとアックスの前に、餌皿を置き、すぐに離れた。

 直後、父の良し。という声で、飛びつくようにして齧り付いたアックスは、餌を貪り始める。

 それを満足そうに父は見ていた。

「いい食べっぷりだな、アックス。お前は俺の言うことをちゃんと聞くし、駄目と言ったことはしない。本当に賢い犬だよ」

 嫌味として聞こえた華奈は、胸を締め付けられる思いをしながら、台所の鍋を洗いに戻った。

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