第2話




 これほどまでに、父と飼い犬から蛇蝎の如く嫌われていても家を離れたり、それこそ然るべき機関へ助けを求めないのは、何も華奈にその知恵がないわけでも、手段がないわけでもなかった。

 学校に通うことを許されず、座敷牢に閉じ込められるわけでもなく、しっかりと通学は出来ているし、学校で自分から告発すれば、自宅に捜査が入るのは極めて順調にことが運ぶだろう。

 それをさせないのは、今際の際、母が彼女に言った言葉だった。

 お父さんは、弱い人だから。

 わたしは上手に出来なかったけど、あなたなら出来るはずだから。

 それは果たして、母親の本音だったのか、それとも一人、娘を残してこの世を去ることが相まって、過去の思い出が美化されたものか。華奈は今でもその言葉を思い出しては、これといった確証は得られていない。しかし、少なくとも中学を卒業して、働けるようになるまでは。

 それまでは、この父親の庇護がなければ、暮らしていけない。

 それに、施設で暮らすことに対しても、華奈は刑務所のような居心地の悪さを想像していた。

 皆との共同生活は難しいだろうし、勉強するための環境だって、整っていないかもしれない。だったらまだ、この家で多少の不自由と暴力に甘んじている方が、気が楽、というのもあった。

 とはいえ、それで精神が摩耗しないわけではない。

 父が夕食を食べ終え、そのまま今日は自室に戻らず、リビングでテレビをつけて晩酌を始めたとき、華奈はもどかしさを憶えた。

 早くお風呂に入ればいいのに。

 流しに置いた皿を丁寧に洗いながら、彼女は父の方を一瞥した。

 ソファに座って、足元にアックスを携えながら、退屈そうにテレビを見る姿は、あまり普段見るものでもない。きっと、父のことだ。自分がリビングを離れて風呂に入ったら、華奈がすぐに食事にありつけて、そのまま風呂も入れることを面白く思わない故の行動だろう。

 皿の触れ合うカチャカチャとした音に交じって、腹が小さく鳴る。華奈は堪らず、食器の乾燥棚に置いたばかりのコップを手に取り、水道水を注ぐ。

 それを、まるで人目を忍ぶようにして、一息に飲み干すと、すぐ流しの中へコップを戻した。

 この家で華奈がする行為は、ほとんどすべて、父の気に障るといっていい。それほどまでに、何がそんなに苛立つのか、父はそういった所作を見つけては、あれこれと難癖をつける。

 空の胃に、少し冷えた水が食道を伝って流れ落ちるのを感じて、不快感で顔を顰める。

 洗い物が終わった後、父の方を見ると、丁度飲んでいた缶が空になったらしい。近くのごみ箱に放り込んで、冷蔵庫の方へ向かってくる。

 ダイニングキッチンの、華奈が使っている流しより奥側に冷蔵庫が位置しているため、急いでタオルを取り、手と周りの水気を拭く。そうしている間にも、酔って少し顔が赤らんだ父は、裸足でフローリングを、ひたり、ひたりと歩いてこちらへ向かってくる。

 一瞬、この場を退いた方がいいか、とも考えたが、すぐに思い直して、華奈は冷蔵庫に手を掛ける。

 その頃には父もキッチンの中へと入ってきており、とても間に合いそうになかったが、しかし何もせずに見ていると、それも怒られてしまうと考えて、冷蔵庫のビールに手を伸ばす。

「邪魔なんだよ」

 取って手渡そうとした華奈は、直後、後ろから伸びてきた父の手によって髪の毛を後ろから掴まれ、それに痛みを感じる暇もなく、父の後方へ引き倒されていた。

 大人二人がそのまますれ違おうとすると、お互いの肩がぶつかるほどの狭い空間でそんなことをされた華奈は、転げない様に足を横に踏み出すことも、手を着くことも出来ず、強かに肩、そのまま右側頭部を床へ打ち付けることとなった。

 まるでスイカを膝程の高さから床へ落としたような、鈍い音が頭の中を反響し、華奈は咄嗟に呻き声を挙げてしまう。肩にも鈍い痛みを感じ、普通は起き上がることより、痛みに身が蹲る方を優先してしまうだろう。

 しかしこの家で、そんな悠長なことはしていられない。

 そのまま身体を起こし、四つん這いになった華奈は、悲鳴混じりの吐息を漏らしながら、這う這うの体で、何とかキッチンから逃げる。

 その時、父は冷蔵庫から乱暴にビールを2本、片手で鷲掴みにすると、冷蔵庫の扉を閉め損ねたまま、元来た道を戻ろうとしていた。

 そして、ごみ箱の傍に蹲り、膝を抱えて頭と耳を塞ぐようにして蹲っている華奈を見る。

 そのごみ箱を力強く蹴り飛ばしたとき、中身の生ごみと、それから空のアルミ缶が音を立てて散乱する音と、華奈の怯え切った悲鳴が狭いキッチンに再び響いた。

「……」

 父はそんな様子を見降ろして、尚もがたがたと震えながら、顔を伏せて小さく呻いている華奈の傍へ屈むと、先ほどと同じように、今度は空いている手で頭を上から押さえつけ、髪の毛を引っ張って顔を上げさせた。

 目を固く閉じ、大粒の涙を頬に垂らしながら、がたがたと歯を震わせている様子の華奈。その顔を更に自分の方へと引き、

「目開けろ」

 低く唸った。

 しかし、すっかりパニック状態になってしまった華奈に、そんな命令が聞けるわけもなく。何が何やら分からずに、その表情のまま、小さく首を左右に振るばかりである。

 父は舌打ちして、掴んだ頭を手前に引き、そのまま後ろの壁に叩きつける。

 またしても鈍い音が響き、父はそのまま、頭を押し付けた。

「目開けろって言ってんのが聞こえないのか」

 耳の奥がビリビリと痛むほどの大声に、今度こそ謝罪のような譫言を口にしながら、華奈は薄く目を開ける。その視界一杯に、無表情の恐ろしい父がいた。

「すみません、すみません、すみません」

「いいか。俺の邪魔をするな。追い出されたいのか?」

「い、嫌です」

 それだけは。というように手を伸ばし、華奈は媚びるように父の裾を掴む。

「だったらどうするべきか、わかるだろ」

 呆れた語調でそういって、手を離す。そうして父は立ち上がると、背中越しに吐き捨てる。

「晩飯、食うなよ」

 それは罰として、父が良く華奈に言う言葉だった。一日に一食しか食べることを許されていない華奈にとって、これはとても辛い罰であったため、なるべくそれを言われない様に普段から過ごしていた。事実、昨日何も食べていない時点で、相当な苦痛を感じていたのだ。

 それが、今日も?

 驚きと焦りで、慌ててその場に手を着いて、父を呼び止める。

「待ってください。わたし、昨日もご飯、食べさせてもらえてなくて、今日も食べなかったら、本当に」

 それは育ち盛りの子供にとって、とても悲痛な叫びだった。

 それを聞いて、父も足を止める。

「き、昨日のことは謝ります。すみませんでした。今度は洗濯物を干し忘れたりしません。約束します。誓います。今日のことも、もう二度としません。ですから」

 言って、華奈は四つん這いのまま、膝を折り、肘をついて、頭を下げる。

「お父さん、お願いします。ご飯を食べさせてください」

 床に頭をこすりつけ、瘦せ細った手足を揃えて懇願する様は、とても惨めだ。華奈は床に涙を垂らし、それと鼻水が混じったものが、鼻の奥の方で、まるで水が入ったようにつんと痛むのを感じる。

 父は果たして、そんな華奈の様子を振り返って認め、その場に缶を一本置いて、もう一本を開けながら、傍へ近づく。

 そして、浅黒い足を、その頭へ乗せた。

「お前さ。そうやって土下座したら、なんでも許してもらえると思ってるだろ」

 踏みにじるようにして、体重を乗せる。華奈はより一層と、惨憺たる思いになりながらも、それでも必死で謝罪を繰り返す。

「すみません。そんなつもりでは、ないです」

「だったら乞食みたいに土下座する以外で、出来ること、あるだろ」

 そういうと、父はようやく頭から足を離し、二階への階段を登っていく。

 父の言わんとすることが理解できる華奈も、逡巡したのち、より一層暗い表情を浮かべ、父の置いていった缶ビールを手に持って、その後を追った。

 先に部屋へ入っていったらしく、閉まっている父の扉の前に立った華奈は、もう一度、考えた。これをして食事を貰うのは、今に始まったことではない。しかし、それは何度繰り返したところで気持ちの良いものではなく、むしろ、その後に食べる食事は、とても喉を通るようなものではなかった。

 しかし、明日ももし食事を与えられなかったら。そう思えば、きっと、先か後かの問題なんだろう。華奈はそう自分自身を納得させ、曇らせた顔のまま、扉をノックした。

 しかしいくら待っても、中から、入室を許可する返答が返ってこない。

 普段であれば、父が声をかけてくれる。そうすると、華奈は部屋に入ることが出来る。

 不審に思い、もう一度扉を叩こうと——

「なにやってんだ」

 背後から聞こえてきた父の声に、華奈は驚いて後ろを振り返る。

 そこには父と、アックスがいた。

 それに気づいた華奈は一瞬、腰が抜けそうになるほど恐怖を、主にアックスに対して抱いたが、なんとか落ち着きを装う。

「早く入れ」

 不機嫌そうな父はそう言って、ビールを煽る。華奈は小さく返事をすると、焦りながらドアノブに手を掛ける。そして恐る恐る入ろうとしたところを、後ろから父に背中を蹴られ、転がるように中へ入った。

 父とアックスが後に続き、彼らはそのまま、父の机へと向かう。アックスはいつもの定位置、机の左側にあるベッドへ入ると、何度かそのままぐるぐると回り、大きな爪でクッションを掘るような所作の後、尻尾を巻いて、落ち着く。

 父も椅子に座ると、机に向かった。

 華奈だけが一人、どうするべきかは分かっていながら、何とかならないか、等と淡い希望を抱いて、入り口の傍に立ち尽くしていた。

 やがて父がそちらを見て、口を開く。

「おい、さっさとしろ。いつもやってることだろ」

 そういって急かされ、華奈は慌てて傍へ行く。しかし父とアックスの間を通るとき、やはり足取りが重くなる。

 いつもと違うのは、この犬がここにいることである。

「失礼します」

 呟くようにそう言って、その場に腰を下ろす。それから、四つん這いで這うようにして、机の中、父の足の間へ潜り込む。

 初めの頃は何度も机に頭をぶつけて、作業中の父に怒られたりもしたものだが、今では多少スムーズに入ることが出来る。

 その様子を視界の端で捉えながら、父はキーボードを用意して、パソコンを触り始める。不規則にタイピング音が鳴り、机の傍で丸まっているアックスの吐息を感じながら、華奈は諦めたような表情を浮かべ、そして父のズボンに手を掛けた。

 チャックを開け、ボタンを外す。そして下着を少しずらすと、華奈は固く目を閉じながら、それを口に咥えた。

 不快な感触と匂いが口から鼻へ抜け、気持ち悪さから、嘔吐の前兆のように、唾液が口いっぱいに出る。そして汗だろうか。塩気を感じながら、眉を顰める。

 程なくして、その三割も口に入らなくなるほど屹立したところで、教え込まれたように、狭い隙間で正座をして、手と口を使う。

 華奈が涎を垂らすまいと啜る度に、脈動するかのように蠢くそれは、初めのうちこそ父も余裕を持って、華奈の奉仕を受けていた。

 しかし、その状態でしばらくしていると、やがて父はキーボードから手を離す。それはタイピングの音が突然鳴りやんだことで華奈も気付き、嫌な予感を憶えながら、口を広げてより激しく、動きを繰り返していた。

「アックス」

 時々、華奈はこの犬が人語を理解しているのでは、と訝しむことがある。それほどまでにアックスは、父の言うことを聞き、指示も響きからこういう動きをすればご褒美がもらえる、などという古典的条件付けではなく、それこそ言葉の意味を思考しているのでは、と思わせる行動が見受けられる。

「華奈が下手くそだったら噛みついてやれ」

 その言葉の直後、耳を立てて牙を剥き出しにしたまま、低く唸り出す。それを横目に見て、華奈は酷く怯えた。

 合図をすれば、ではなく、下手くそだったら。

 もしかしたら、噛みつけ、という語句に反応して唸っているのかもしれないが、しかし今の華奈にはそんなことを考える余裕もない。パニックになりながら、目に涙を浮かべ、喉の奥深くまで使って口淫を続けることしかできなかった。

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