第4話

 航空写真で、この学校はコの字型をしている。その二つある角の辺りに階段が位置しており、すべて合わせて3階建て。階段に挟まれたところがそれぞれの教室、その左右を曲がると移動教室、というような形になっていた。

 一階が1年生、二階が2年生というような分け方がされていて、華奈の教室は3-B。左に出ればC、トイレと続き、D組の教室が曲がり角の前にあった。

 昼休み、当然ながら教室はどこも、昼食を取る学生が机を寄せ始める音が鳴り響き、授業中の水を打ったような静けさはどこへやら、学校全体がとても騒がしくなる。

 中には1階のA組を出てすぐ曲がり角の先にある購買部で、その日の昼食を買いに行く学生などもいるが、華奈だけは一人、それらの流れとは逆方向へ歩を進める。

 D組の方へと歩き、階段を下りて2階。そのまま曲がり角を抜けると、人気のない家庭科室、そしてその奥に、教室2つ分の場所を取っている、図書館が見えてくる。

 防音性も兼ねているのだろうか。ここと職員室だけに使われている、スライド式のやや分厚い扉に手をかけ、華奈は力を入れて引っ張った。

 ゆっくりと滑るように開いた先は、特に何も特徴のない、至ってどこにでもあるような図書室。天井まで届くほどの高い本棚が華奈を出迎え、そこにはいろいろな本が——といってもあくまで中学校にあるような本たちだが——背を向けて入っている。

 中に入って上履きを脱ぎ、置いてあるスリッパに履き替えると、華奈はその本棚の方へは近付かず、入り口すぐ右にある、貸し出しなどを行うカウンターの中へ入った。

 図書委員である華奈は、いつもこのカウンターに座って、昼休みを過ごしている。とはいえ、そもそも昼休み時は図書委員も当然、昼食の時間であるため、ここに来る必要はないのだが。しかしいつも昼休みに食事もせず、ただ教室で本を読んでいるというのも、居心地の良いものではない。そんな華奈にとって、図書委員という役職と、この部屋は時間を潰すのに丁度良かった。

 次の授業開始まで、あと40分と少しあることを、壁にかかっているシンプルなデザインの壁掛け時計で確認し、華奈は一番下の大きな引き出しに手を掛ける。

「今日は何読むの?」

 と、その時後ろから声がして、華奈は振り向く。

 そこには、国語の教師が華奈の肩越しに、引き出しの中を眺めていた。

 華奈はずらりと並んだ大小様々な本の中から、文庫本サイズのものを抜き取ると、引き出しをゆっくり閉めた。

「これです」

 椅子に座ったまま身体を捻り、華奈は表紙を向けた。

 それを見た教師、轟は、いつも眠たげにしている目を少し見開いて、驚いた様子を浮かべた。

「これ、先生が進めた本だね。読んでくれてるの?」

「はい」

 本当は感想を言うべきなんだろうな。と華奈は内心思ったが、あまり人と話すことがそもそも得意ではないため、すぐに身体を元に戻して、前に向き直った。

 すると轟は、再び元の眠たげな調子に戻って、ゆっくりと隣の椅子を引く。そして、ため息を吐きながらそこに腰を下ろした。

 いつも、華奈の昼休みはこうして始まる。この部屋は飲食も限られた場所以外では禁止だし、私語なども自分以外の生徒が居るときは出来ない、どころか注意する側ですらあるのだが、しかし華奈にとって、これほど静かで落ち着けて、あまつさえ好きな本に囲まれることのできる場所は、ここしかなかった。

 決して勉強が嫌いなわけではない彼女だが、ここで過ごす昼休みは、それ以上に一日の中で唯一、心が休まるひと時を過ごせていた。

 轟は、前に一度、たまたま用事があって、昼休みに図書室へ寄った際、華奈と出会った。そもそも轟が今担任しているのは1年生のクラスであり、教えているのも、1年A組からD組までの4クラス。それ故、これまで彼女とは殆ど面識もなく、1対1で話すこともなかった。

 強いて言うなら、月に1度ある委員会議という、1年生から3年生までの、華奈の場合は図書委員が3名、それと教師が集まって話し合うというものがあるが、それも基本的には教師がイニシアチブを取り、ホワイトボードに議題を書いて指示をそれぞれに伝えるというものであり、さらに華奈はもちろん、そういった場においても発表や意見などが苦手な方に属する。

 そのため、初めて華奈と出会ったとき、轟はどうにも扱いに困ったのを憶えている。なにせ、こちらが何か話しかけようと、目を合わせようとせず、返事も肯定か否定。会話が続かず、困った轟は。

 諦めた。

 諦めて図書室に顔だけ出し、あとは少し声をかけて、隣で本を読むことに終始した。

 元よりものぐさな性格である。果たしてそれが、コミュニケーションを苦手とする生徒に対する対応として正しいかどうかは疑問が残るが、それこそ華奈が実は求めている対応だった。

 だがこの日は、いつもと少し違った。

「何それ、怪我?」

 背中越しに話しかけていた時は、それに気付けなかった轟は、いつも通り華奈の左側に座って、ふと視界の端に白いものが映ることに気付く。そして見てみると、華奈の左頬には、大げさな程の大きさをしたガーゼが、留められていた。

 普段何事に対しても無関心で、それこそ国語と本の話にだけ興味を示す轟が、この様にして華奈の異変に気付くことは少ない。

 もっとも、それ以上に気付いたところで声をかける人の方が、この学校には少ないだろうが。

「どうしたの、凄く痛そうだけど」

 何気ない語調でそう言われた華奈は、しかし内心とても焦っていた。

 何せ、今の今まで学校にこのガーゼを貼ったまま来ていることなど、すっかり忘れて過ごしていたのだから。

「あ、えっと。転んだんです」

 もう屋内にいても寒い位の気温だというのに、華奈はすっかり背中に、冷や汗をかいていた。それがブレザーの下に来ているワイシャツに滲むのを感じながら、手に持っていた本を、平静を装って机の上に置く。

 我ながら、まるで絵に描いたように下手な言い訳だな。と直後に思って、付け加える。

「寝てたら、ベッド……から落ちて」

 それを聞いた轟は、その場面を頭の中で想像して、再び華奈の横顔を見た。

 まあ確かに、場所が場所なだけにややガーゼの大きさが不自然すぎる気はするが。ただ、たまたま大きすぎただけかもしれないし、縦長く痣が出来たようだったら、これくらい大きく貼るのも無理はないか。

 そう思って、口を開く。

「なんだ、それなら良かった」

「はい」

 声を震わせながら、華奈は何とかその場を凌いだと、再び本に手を伸ばす。

「てっきり、誰かに殴られたりでもしたのかと思ったよ」

 あっけらかんとそういいながら、轟は自分の引き出しから、同じように読みかけの本を手に取って、ページをパラパラとめくる。

 だけどこの生徒が、まさか人と殴り合いの喧嘩なんて、するわけないしな。

 そう思って本に視線を落とす轟を、今度は華奈が目を見開いて見つめ返す番だった。

 癖なのか、いつもそうしているように、くりくりと毛先の巻いてある頭をわしわしと掻き回してから、気怠そうに椅子へもたれ掛かって読書を始めた轟に向かって、華奈は恐る恐る、聞いてみた。

 後になって思えば、華奈自身はこの時、無意識のうちに自分の抱えている秘密を暴いて欲しい、助けて欲しいと願っていたのだろうか。

 決して誰にも知られてはいけない、家での出来事を。

「もし、誰かに殴られてたとしたら、先生ならどうします?」

 轟と同じように本へ目を落とした状態で、彼女は問いかけた。

「えっ、まあ相手によるけど……助けるんじゃないかな」

 活字を目で追いながら、轟は流石に、大人として正しい発言を心掛けた。


 轟にとって、学校での教師という自分の立場とは、あくまで労働。あくまで勤務だと考えていた。

 元より面倒臭がりな性格であり、たまたま勉強がそれなりに出来て、たまたま教師の職に就いただけであり、轟の方こそ、職員室で皆が昼食だなんだと騒がしくなる中、居心地の悪さを避けてこの図書室にありついただけである。

 なので、例えば仮に、隣のこの女子生徒が誰かに殴られて——一番可能性が高いのはいじめだろうか——傷が出来たと言ってきたら、と思うと、とても面倒なことになるな、と考えてしまっていた。

 困っている人を助けるのは当たり前のことだとしても、それをだからといって、嬉々としてこなせるほど、自分自身が出来た人間ではないと理解している。

 ただ。

 だからこそ、こんな自分といつも一緒に読書をしてくれる華奈に対して、轟も多少の親近感を感じていた。

 そして、もし本気でいじめられていたりして、殴られていたとした場合。それを本気で隠したいなら、学校を休んでしまえばいいのに。とも、思っていた。

 次の授業は、昼休み後の5時間目を飛ばして、6時間目に1-Dだったので、轟は昼休みを終えて退出する華奈を見送った後、少ししてから職員室へ戻った。そして教材の支度と、この後やる授業内容の確認をしてから、時間になったので職員室を出ようとしたとき、二つある出口のうち、轟の席から遠い方のドアに、華奈の姿を見つけた。

 机の上の缶コーヒーを飲み干してごみ箱に投げ入れ、何となくその様子を見つめていると、華奈はどうやら担任の教師に何度か頭を下げ、申し訳なさそうに廊下へ戻っていった。

 その様子を見て、どうやら今日も体調不良だかで早退するらしいと思ったが、すぐに授業へ遅れそうなことに気付き、足早に職員室を後にした。

 進学校、だからだろうか。普通の中学校なら、このようにして月に何度も繰り返し早退、もしくは遅刻する生徒に対して、教師は保護者へ連絡をしたり、理由を聞いたりして、なるべく出席日数を保たせようとするだろう。しかしこの校風はそうではない。

 轟も赴任当時は驚いたが、成績が殆どすべて、その生徒を評価するバロメーターのようになっていた。なので、華奈のように早退しようと、遅刻しようと、出席日数さえ足りていれば大した問題にはならないし、教師の誰も、それを咎めようとしないのだ。

 事実、成績がトップの生徒は、親が午後から体育などの時間割だった場合にそれを早退させて、塾に通わせることもあるらしい。だから先程の光景も、対して珍しい物でもないのだ。

 授業で使うカバンを肩に、轟は華奈が下校していったであろう玄関の方を見て、あくびを漏らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る