第5話

 帰宅した華奈は、いつものようにアックスから吠えられ、それを何とか宥めながら玄関を抜け、そのまま2階の自室へと向かった。

 普段であれば父が先に帰宅して、少し遅れて華奈が帰ってくるのだが、こうして早退した日は、その順番が逆になる。恐らく父が帰ってくるのが、今から3時間後くらいだろうか。リビングの時計は、14時を少し回ったところを差していた。

 ここ数日間、一向に予習が出来ておらず、恐らく明日以降の授業では華奈の知らない範囲をやることになる。おまけに進学校だからか、授業の進むスピードもかなり速いものであるため、華奈は内心、とても勉強に対して不安感を抱いていた。

 しかし今は、それどころではない。

「うっ」

 自室の扉を閉めるや否や、猛烈な吐き気と眩暈に耐え切れなくなって、口を抑える。

 まるで荒れた海を進む船の上に乗っているかのように視界はぐらぐらと回転し、それも相まってか、口の中に突然、大量の唾が湧き出す。

 華奈は慌ててカバンをフローリングへ投げ出すと、走って勉強机の所まで駆け寄る。そして傍に置いてあったごみ箱を掴み、その中へ顔を突っ込んだ。

「お、ぇええ」

 昨日の晩に食べた白飯だろうか。米粒が少量と、あとは黄色い胃液が泡立って口からこぼれて、スーパーのレジ袋の中へと滑り落ちていく。

 しかし一度吐いた程度では吐き気も眩暈も収まらず、華奈はそのまま、2度、3度とごみ箱に向かってえずき、その度に唾と胃液が、空っぽの胃から搾り取られていく。

 全身の力が抜け、そのまま膝を折ってしゃがみ込むころには、多少吐き気こそ収まっており、代わりに喉が胃液で爛れた様に痛んだが、それでも多少は浅い呼吸を繰り返せるようになっていた。だが眩暈の方は相変わらず酷くなる一方で、恐らく立ち上がることが出来ても、まっすぐ歩けないだろう。そう思わせるほど、視界は滅茶苦茶に揺さぶられていた。

 華奈は口の中に残る飯粒を集めて、唾と一緒にごみ箱へ吐き出すと、手を机の縁について、身体を支えながらやっとの思いで立ち上がる。そして机の上にあるティッシュを手に取り、口を拭ってその中へと捨てた。

 華奈は几帳面な性格なので、普通なら吐瀉物の入ったごみ箱など、すぐにでも片付けに行くのだが、やはり立ち上がった状態で視線を前に向けると、とても歩ける状態ではない。常に世界が右回転しているように映り、それは目を瞑ると余計に酷くなった。

 いよいよ余裕のなくなった華奈は、そのまま覚束ない足取りで、よたよたと机を離れ、苦肉の策で、ベッドまで向かった。

 本来であれば、早退をした以上、父が帰ってくるまでに家の掃除や、料理の下ごしらえ等をして、父に言い訳の材料を揃えておくのが唯一、怒られない手段であったが、それもこんな状態ではまともに出来ないだろう。

 華奈自身、だからこうやって、何もせずに横になるなど、この後の事が火を見るよりも明らかだと理解した上で、マットレスの上に倒れ込む。

 そしてそのまま、目を固く瞑った。


 いつも華奈が就寝するのは、夜中の3時を超えた辺りである。

 家のことが一通り片付くのは、大体23時を過ぎた頃。それくらいにやっと、家事や洗濯、掃除が終わり、それから自分の時間を使える。といっても、睡眠時間のことを考えれば、使えて1時間もないのだが。しかしそれでは勉強に追いつけないので、華奈はそこから夜中の3時まで、ひたすら勉強に励む。

 元より、勉強自体が苦手で、それに教材も華奈にとっては教科書だけである。そのため、環境としては決して整っているわけではない。というのも、時間がどうしてもかかってしまう原因の一つではあったし、更に酷いときは、昨日のように父が慰み物として使ってくる日もある。そうなれば、その日はとても勉強を出来るだけの時間も確保できない。

 だが父は、華奈の成績が良くなければ、今度はそれを恰好の材料として、またしても華奈を虐げた。

 勉強が出来なければ怒られ、かといって時間は確保できないような生活。おまけに、大体の人間にとって頼みの綱であるスマートフォンのアラームや、卓上時計といったものも、華奈には買い与えられていなかった。

 そうして、まるで憂さ晴らしでもするかのように、華奈が何かにつけ失敗をするように仕向け、それを粒立てて虐待するのが、華奈の父だった——尤も、父親本人にその意識はないらしいが。

 現に、それから約3時間後。帰宅した父は玄関に入り、尻尾を振って嬉しそうに出迎えてくれるアックスの頭を撫で回しているとき、玄関に脱ぎ捨てられた、小さなローファーに気付く。

 たくさん撫でられて機嫌を良くしたアックスが、尻尾を振りながらリビングの床暖房が特に効く所へ戻っていくのを待ってから、父は小さく舌打ちをして、それを下駄箱の隙間へ蹴り飛ばした。

 そして自らも革靴を脱ぐと、静かに怒りを湛えながら、リビングを覗いた。だが果たして、そこにはアックスがいるだけである。

 目が合ったアックスは伏せの状態のまま尻尾を振り、主人の指示を待っている。しかし父は、そんなアックスに笑みを浮かべながら冷蔵庫へと向かい、いつものようにビールを取り、それを一口飲む。

 無論、冷蔵庫やコンロにも夕食の支度がされている、ということはなく、今朝トーストを食べた後の皿やバターナイフも、流しにそのままにされている。

 それを、口に缶をつけたまま一瞥し、小さく息を吐く。

 そして二階へと続く階段を上がり、華奈の部屋の前に着く頃になると、いよいよ父は無表情ながらも、腸が煮えくり返るような心持ちであった。


 これまで感じたことのないような激痛に飛び起きた華奈は、しかしうつぶせの状態から、身体を起こせないことに気付く。

 初め、まだ完全に覚醒していないこともあり、それがどうしてなのか全く理解できずにいた。だがすぐに背中の辺りへ感じる重量と、上から降ってくる声から、父が自分の上へ馬乗りになっていると気付く。

「何寝てんだよ」

 父は、掴んでいる華奈の腕に押し付けていた煙草を離し、口に咥えた。

 華奈はそんな様子に、慌てて身を捩って逃げようとしたが、当然の如く、父はその程度ではびくともしない。煙草の火を押し付けられていた腕も、同じように鷲掴みにされていて、振り解けそうもない。

 華奈は湧き上がる恐怖で、言葉にならない悲鳴を上げた。そしてそのまま、半狂乱で泣き叫んだ。

 父はその様子を冷酷な表情を浮かべながら見下し、消えかかっていた煙草を吹かす。そして口に咥えたまま、髪を振り乱して暴れる華奈の後頭部を、マットレスに押し付けた。

 今度は呼吸が妨げられ、くぐもった呻き声を漏らしながら泣き叫ぶ彼女の耳元へ、父は顔を近付けた。

「泣くな。殺すぞ」

 地の底から響くような声でそう伝え、髪の毛を掴んで顔を無理矢理に上へ向かせる。すると、痛みと恐怖で泣き叫んでいた彼女は今や、更なる恐怖によって、涙こそ流していたが、必死で嗚咽を押し殺していた。

「で。なんで、寝てんだよ」

 細く煙草の煙を吐き、父は再びそう告げた。

 喉をしゃくり上げさせながら、華奈は大粒の涙をボロボロとシーツに零し、何とか唇を動かす。

「あ、あの。体調が、とても悪くて。それで、眩暈で立っていられなくて」

 今更になって、腕の火傷がじくじくと、熱を持って痛み始めるのを感じつつ、華奈はなんとかそう告げた。

 なるほどな。

 父はそう短く言って、華奈の上から離れる。

 途端、彼女は胸が圧迫されていたこともあり、渇いた咳をしつつ、相変わらず具合が悪そうにベッドの上にうつ伏せで蹲り、肩を震わせていた。しかし、何も安心できる状態ではない。華奈は次、いつ父が殴ってくるのか、それとも蹴ってくるのかと怯えて、その姿勢からどうにも動けなくなっていた。

 例え、反抗しようとした所で父と華奈にはあまりにも体格差があり、たとえ今日のように体調が優れない日でなかったとしても、揉み合いになって勝てる相手ではない。今の彼女に出来ることと言えば、精々父の機嫌をこれ以上損なわないよう、必死で立ち振る舞うことだけであった——とにかく従順に、命令の通りに動くことが、唯一暴力を最小限に留める術である。

「立て」

 だからベッドから降りた父がそう言って来た時、華奈はびくりと肩を震わせ、もつれる足を何とか動かして、ベッドから転げ落ちるようにして降りた。

 たかが数時間横になった程度では当然、眩暈は依然として華奈の視界をぐるぐると回すばかりで、横になる前と比べて毛程も良くなっていなかった。それ故、マットレスに両手をついて何とか足を踏ん張り、歯を食いしばりながら立ち上がろうとした華奈は、次の瞬間には膝から崩れ落ちるようにしてその場へ座り込んでしまった。

「すみません、す、すぐに。立ちますから」

 手足を震わせながら、怯え切った目で父を見上げ、こちらを冷たく見降ろしている目と目があった華奈は、殆ど過呼吸になりながら、再び立位を取ろうと試みた。

 その二度目の試みが途中で失敗に終わった時、父は目を逸らし、つまらなさそうにため息を吐いた。

 それに肩をびくつかせた華奈は、もうその場に立つことは諦め、父の足へ縋りついた。

「お父さん、待ってください、待ってください。すぐ。立ちますから。本当なんです。本当に、眩暈が凄くて。し、信じてください。お願いします」

 父の片膝に慌てて這い寄った彼女は、そのまま縋りついて父を見上げる。そして、再び涙をぼろぼろと流しながら、恐怖に満ちた目で父を見つめ。そしてそのまま、まるで頬ずりをするかのように父の足へ頭を寄せ、両手を回して抱き着いた。

「もう、殴らないでください。やめてください」

 勿論、父にそんな命乞いじみたことをしたところで、それで父が心を痛める訳がない。事実、父はそんな様子に、一層腹を立てたのだろうか。

 咥えていた煙草を、まるで唾でも吐き出すかのように捨てる。まるでフローリングが焦げることなど微塵も気にしていない様子だった。そして次の瞬間には、華奈の髪の毛を上から鷲掴みにし、力任せに足から引き剥がした。

 ぶちぶちぶちぶち。そんな音と頭皮が剥がれるような痛みに、堪らず悲鳴を上げて父の足から手を離した華奈は、すぐにこの時、何としてでも父にしがみついておくべきだったと、すぐに後悔することとなる。

「お前。やることもやってないのに、許してくださいってか?」

 足から離れた華奈の腕を再び掴み、父はその場にしゃがみ込む。

 力強く握られていることもあって、弛緩したその手を空いている方の自分の手で広げ、人差し指を握りしめ。そして。

 ゆっくりと。

 父は、人差し指が本来曲がらない方向へ向けて、力を加え始めた。

「あ」

 一体父が何をしようとしているのか。華奈は一瞬、あまりのショックにその可能性を考えられなかった。しかし、今しようとしているのはどう考えても——。

 そう理解した瞬間、華奈は指を掴んでいる父の手に上から急いで自分の手を被せ、必死で抵抗しようとした。

 顔から一気に血の気が引き、全身に怖気が走る。普段父は、彼女を殴ることはあっても、蹴ることはあっても。

 こんな風に虐げることはまずなかった。いくらこの3年間で虐待がエスカレートしているとはいえ、ここまでのことをされるとは、まさか華奈も思っていなかったのだ。

 すでに指の角度は、手のひらに対して直角にまで曲がっており、指の筋には痺れるような痛みが走り始めている。華奈は更に力を入れ、今からでもなんとか父に止めてもらおうと、必死で足掻いた。

「お、お父さん。お父さん」

 とてもつまらなさそうに、無表情で力を入れ続ける父に、華奈は必死で喋りかける。

「あの、わたし、もう二度と早退しませんから。遅刻も欠席も、お父さんが白というまでは絶対に、しませんから。家事も炊事も、今まで以上に頑張ります。あの、私に出来ることなら、なんでもしますから。好きにしてくれていいですから。ですから」

 頭をめちゃくちゃに振り乱して、華奈は父の機嫌を損ねない様に引き攣った笑顔を浮かべる。だが父は、そんな華奈の方には目もくれず、ただその掴んでいる指に視線をやり、ふう。と呆れたように息を吐いた。

「二度と、か?」

「あ。あ、あ、はい! 二度としません!」

 希望を見出した顔で、華奈はようやく、安堵の表情を浮かべる。危うく本当に指を折られるところだった。そう思って、涙ながらに父へ約束した。

 それを見て、父は顔色を一切変えないまま、華奈の指を折った。

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