第6話

 絹を裂くような悲鳴が、華奈の部屋へ響き渡る。

 華奈は痛む指を庇うようにもう片方の手で掴み、目と口を見開いて、その場へ蹲る。ただでさえ視界はぐるぐると回り、視界の焦点すら定まらず、ずっと胃は唾すら飲み込ませまいとせり上がってくる来るというのに、ここへ更に指に走る激痛。恐らく骨と一緒に、靭帯にもダメージがあったのだろう。折られた指は、手の甲へ向かって反り上がっており、まるで自分の体ではないかのように、手が左右へ揺れるのと一緒に、ぐねぐねと動いていた。

 フローリングの継ぎ目を滲む視界で捉えながら、華奈は何度も、どうして。そう頭の中で自問する。

 これでも精一杯、やってるのに。

 お父さんに言われたこと、なんでもやってるのに。

 わたしは一度だって、反抗してないのに。

 これまで考えない様に思考の外へやっていた考えが、ここにきて堰を切ったかのように溢れ出してくる。気が付くと、華奈は悔し涙を湛え、痛みの中、父の背中を睨んでいた。

 その頃父は、痛みに蹲る華奈をよそに、入り口付近の床へ置いてあった飲みかけのビールを取り、それを流し込んでいるところだった。そしてふと、華奈の方へ振り返ると、こちらを不遜な表情で睨み付けてくる彼女と、目が合った。

 真っ赤に充血した目を細め、眉間に皺を寄せ、唇を固く結ぶ。そんな華奈の表情は、父もこれまでの生活で、一度だって見たことがなかった。もしかしたら華奈の母と三人で暮らしていた時はそんな顔も見たことがあったのかもしれないが、およそそれは——。

「おい。お前」

 先ほどまでの冷たい表情から一変、父は片眉を上げ、抱いた苛立ちを全く隠そうともせずに華奈を睨み返した。

「何だよ、その顔」

 これまで自分の言いなりで、何一つとして逆らうこともせず、奴隷のように過ごしていた華奈から向けられた、むき出しの憎悪。

 父は床を踏みしめながら華奈の方へ向かい、そのまま我を忘れて、初めて本気で、これ以上ないくらいの力を込めて、華奈の側頭部を殴った。

 聞いたことのないような鈍い音がして、そのまま勢い良く、ごろごろと床を転がる華奈を父は追いかけ、こちらに腹を向けて頭を抱えた華奈に、今度は蹴りを入れた。

 酔っているから、あるいは激情で我を忘れているからか。これまで無意識の内に加えていた手心など忘れ、父は暴言を吐き続けながら、とにかく腹を蹴り、胴を踵で踏みつけ、衝撃で華奈が転がれば、今度は背中を蹴り続けた。

 靴もスリッパも履いていない状態では、父の手や足も多少は痛みを生じるが、それすら今の父にとっては、取るに足らないものだった。それよりも、今は自分が働いて得た金を使い、家に住まわせて食事を摂らせ、学校にも行かせているこの娘に睨み付けられていた。その態度を二度と取れないようにすることが先だったのだ。

 自分という存在に、舐めた態度を取ったらどうなるか、教えてやる。

 心の中で、父は叫んだ。

 それからどれほど、華奈を痛めつけただろうか。流石の父も、肩で息をする程度には疲労を感じ、ようやく手を止める。

 ポケットから煙草を取り出し、火を着ける。そして煙を吹かし、眼下に転がる華奈を見た。

 力任せに蹴り続けていたせいか、気が付けば父親は部屋の隅にまで華奈を追いやっていたらしい。うつぶせの状態で、ぐったりと身体の力が抜け、倒れ込む華奈は、恐らく鼻血だろうか。赤い水たまりに顔を伏せ、ぴくりとも動かなかった。そしてその血は床や壁、更には華奈のワイシャツや、父の足にまで付着している。

 父は汚らわしそうに顔を顰めると、それを踏みつけない様に一歩後ずさりをした。そしてすぐ、異変に気付く。

 鼻血にしては、量が多い。

 まさか。

 そう思って冷静を装う父は、しかしその表情とは裏腹に、頭から冷や水を浴びせられたような焦りを感じた。先ほどまで感じていた酔いは、呼気のアルコール臭さは最早感じられない。あるのは、部屋の空気が無くなったかのような息苦しさと、心臓を鷲掴みにされているような苦しさだけである。

「おい、華奈」

 声を出して、それがあまりにも弱々しく、震えていることに気付いて、声に力を籠める。自らの動揺が、信じられない。

「おい、華奈!」

 父は肩で息をする。短く、浅い呼吸しかできない。指先が氷でも触れた様に冷えていき、酸欠で視界がぼやける。

 気絶しているだけだ。きっとそうだ。意識を失っているだけだから、ちょっと刺激でも与えてやれば、すぐにでも起き上がるだろう。

 自分を落ち着かせるためにそう言い聞かせながら、父はその場へしゃがみ込む。そして、華奈の肩を掴んで、手前に引いた。

 壁の方を向いていた華奈の頭が、釣られて上を向く。その目は薄く開かれており、少なくとも生気のようなものは、一切感じられなかった。

「ふざけんなよ……。いつまで悪ふざけしてんだ」

 色々と考えなければいけないことがあるはずだが、父はすっかりパニックになっており、何も思考がまとまらないまま、服が血で濡れることも厭わず、肩を抱いて華奈を部屋の角に押し込む。

 そこへ背をもたれさせ、今やすっかり恐怖でがたがたと震える手を必死に動かし、父は華奈の頬を、力なく叩いた。

「おい、もういいから。起きろ」

 あらぬ方向を向いた目は、その衝撃を受けても何一つ反応を返さない。

 それを見て、父の中で何かが切れていた。すべてを忘れたくなった。悪い夢だと思った。だから早く目が覚めることを祈った。

 魂が抜けたような、虚ろな表情を浮かべ、父はぐったりとうつむく華奈から視線を外す。足に力を入れて立ち上がると、口に咥えた煙草を吸い、思い出したように缶ビールを持って、部屋を後にした。


 リビングの椅子に腰かけた父は、だらしなく開いた口に煙草を突っ込み、煙を吸い込んでは、ビールを一口飲む。その動作を、一体どれくらい繰り返しただろうか。

 時々、思い出したように壁にかかっている時計へ目をやり、何かを思い出しそうになって、怯えた様に視線を泳がせ、冷蔵庫へ新しい酒を取りに行ったり、新しい煙草をキッチンの引き出しへ取りに行ったり。

 だが華奈の部屋を出てから、いくら経っても時間は遅々として進まず、ただ机の上に並ぶ空き缶と、灰皿の上に吸い終わった煙草の山が増えていくだけだった。

 今の父は、何も考えていない。正確には、努めて何も考えない様にしていた。ただ、ひたすらにアルコールで脳を麻痺させ、ニコチンで身体を害し、せめて震えが止まらない両手が静かになるよう、願うだけだった。

 締め切られたカーテンの向こう側では、日がゆっくりと沈み、橙色がカーテン越しに部屋の中を染めている。

 俺が悪いのか?

 次に父が気付いた時、今度はさっきまで夕日で明るかったリビングは、夜の闇に飲まれていた。

 まるで自分のものではない声で、そう囁かれたような気持ちになって、父は慌ててその場で立ち上がる。慌てて周りを見渡すも、辺りには自分以外の誰もいない。アックスですら、傍にはいなかった。

 俺は悪くない。

 次にまた声が聞こえた時、父は恐怖に駆られ、椅子ごと後ろに倒れ込んだ。

 打ち付けた背中と肘に鈍い痛みが走り、顔を歪める。しかしすぐに手を着くと、情けなく這いずって机から離れる。

 泥酔しているからか、全身が鉛で作られているかのように重たい。頭もずきずきとした痛みが、心臓が血液を流すたびに襲い来る。

 そうだ、俺は悪くない。

 またしても声が聞こえた時、ようやくそれが紛れもない、自分自身の思考であると気付く。

「俺は……間違ってない」

 だがそんな考えは、声に出してしまえばすぐ、瓦解する。

 それは自らの犯した罪を悔いるでもなく、他者へ責任を擦り付け、現実から目を逸らそうとする弱い心だった。父の内心はそんな、弱い人間だった。

 悪い夢だ。そう何度も呟いて、父は涙を流した。それを隠そうともせず、拳を握ると、それで何度も床を殴った。まるで、それをすれば過去に戻れるとでも信じていそうなほど、必死に、何度も。

 数度で拳が裂け、血が滲む。それでも父はやめようとしない。獣の咆哮が如き叫び声を上げながら、左手も使って、ひたすら自罰的に床を殴りつけた。

 その痛みでも誤魔化せない、罪が父の背中を這い登る。

 人殺し。

 父は何も、刑罰に怯えているのではない。

 ただ、人が人を殺めるなど、耐えられるストレスではなかった。


 華奈が父の娘ではないと知ったのは、華奈がまだ小学4年生の春だった。

 その日、いつも通り会社に行き、外出中にかかってきた電話に出た父は、錯乱状態の妻によって、耳を疑う話を聞かされた。

 交通事故に遭って、大怪我をした。

 それを聞かされた父は、初め、何か質の悪い冗談だと思った。

 だが妻の慌て様は、それが嘘でもなんでもないことを示しており、その事故があった場所を聞くや否や、父は全力で駆け出していた。

 それからどこをどう走ったのか、いつ救急車に同伴したのか。あまりの出来事で記憶が定かではないが、隊員に華奈の血液型を聞かれたとき、父は必死に華奈の血液型を伝えた。

 わが子の事である。それもこんな事態だ。間違う訳にはいかない。父は、妻に聞かされていた血液型を伝え、輸血をする必要すらあるのかと、苦しそうに呻く我が子の手を握り続けていた。

 やがて病院へ到着し、ストレッチャーに乗って、院内へと運び込まれていくのを見送りながら、父はただ、無事を祈った。

 華奈がもし助かるなら、自分の何を差し出してもいい。だから命だけは。震える足で、そう祈ったのを憶えている。

 幸い、怪我の度合いは軽く、ただ出血が広範囲に及んでいたので念のために確認しただけだったと、医師に聞かされた時、心の底から父は安堵した。遅れて病院へ到着した母も、決壊した様に泣き崩れ、慰めるように背中をさすった。

 長らく子供に恵まれず、何度も諍いを起こし、やっとの思いで授かった一人娘だ。今は何より、無事だったことが喜ばしい。涙を呑んで、父も胸を撫で下ろした。

 だが数日で退院となり、母も働いているということでまだ時間に都合の付けられる父が一人で華奈を迎えに行ったとき、医師の告げた一言は、父の心に一抹の影を落とすことになる。

 救急車が到着して、隊員が血液型を聞いた時、聞いていた血液型と、実際に調べた血液型が相違していた。

 幸い、輸血はせずに済んだし、もしその必要があったとしても、きちんと事前に調べるから大事には至らないが、念の為に、きちんと把握しておいてください。

 白髪の温和な医師は、そう言って血液型診断の結果が書かれてある紙を、父に手渡した。

 そこに書かれていたのは、妻から聞いていたものと違う血液型だった。

 そしてその日を境に、父は家族で食事をしているときも、退院した華奈から病院での思い出話を聞いているときも、どこか胸の中に引っかかるものを感じていた。

 自分の血液型は、間違えようもない。父は会社で依然受けた健康診断の紙を引っ張り出して、確かめてみた。そこには、記憶通りのローマ字が書いてある。

 次に、妻の血液型を調べようとして、今自分がしていることの意味を考え直し、何度も悩んだ。

 この疑念は、晴らしていいものか。そう何度も自問し、何度も思い直し、そして事故から3か月がたった、暑い夏の日。

 とうとう思い立って、妻が華奈を連れて出かけている日曜日。父は、意を決して、母子手帳を開いた。

 そして、血液型の組み合わせについて、何度も何度も繰り返し調べ、数えきれない程自分の間違いを疑った。

 自分が無知なだけだ。可能性は低くとも、血液型の組み合わせに例外があるはずだ。でなければ、説明がつかない。

 そう心の中で何度も唱え、そうして、妻と華奈が帰宅するのを待って、確認してみた。

 すまない。最低なことをした。疑ってすまない。

 父は初めに頭を下げ、そして、核心に触れた。

 果たして、妻は観念したのか、それを認めた。そしてその時、父の中で何かが崩れたのだろう。これまで汗水を垂らして守っていたものが、こんなものだったのか。そう思い、目の前が真っ暗になるような気分を味わった。

 そしてその年の秋。

 華奈には告げず、離婚の話がまとまり始め、慰謝料についても弁護士を雇ってすぐ。

 ある日、父が仕事を終えて帰ってくると、ただ真っ暗なマンションの自室の中、リビングに父の名前以外記入された離婚届だけがぽつんと、置いてあった。

 華奈を連れて、ある日、何も言わずに居なくなったのだ。

 父は絶望した。

 こんなこと、望んでいなかった。

 金銭面で不安があったのなら、言ってくれたらよかった。

 話し合いの中で何度も諍いはあったが、それでも、こんなことになるなら。

 そして再び華奈と会うまで、父は何もかもを忘れるように仕事へ没頭した。朝も夜も、とにかく仕事の事だけを考え、それ以外のことを考える時間を極力減らした。

 そうして出世を重ね、2年という速さでかなり上の地位まで躍進した頃。

 華奈がこの家に、役所の人間と一緒に訪問してきた時、父は復讐の機会を誰かが自分に与えてくれたのだと思った。

 2年という歳月は、父の憎悪を肥え太らせるには十分過ぎたのだ。

 中学生になった華奈は、父への当てつけのようにあの女と同じような髪形をして、あの女と同じような顔をして、そしてあの女と同じように、またしても自分の金を寄生虫のように吸い取ろうとしてくる。少なくとも父の眼には、そう映って止まなかった。

 だったら。

 ここ以外、どこにも行くところがないこの華奈に、俺のされてきた行いを全て返してやろう。

 怨むなら、俺ではなく、自分の親を怨め。そう思って、父は2年前の春。

 華奈を家に招き入れたのだ。

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