第8話

「うわぁああ!」

 しかし父は、華奈以上に驚きを隠せない様子で、その場に思わず尻餅をついてしまった。華奈はそんな父を見て、咄嗟に謝罪する。

「す、すみません、大丈夫ですか……」

 しかし普段の行い故、華奈はおいそれと父へ駆け寄ることが出来ない。勿論父に懐いている訳ではないというのもあったが、それこそ近くへ駆け寄ったところで、驚かせたのが自分であるという自覚はある。だから殴られるのではと思い、どうにも足が竦んでしまった。

 しかし、華奈がどうしたらいい物かとあたふたしている時、父は華奈以上の恐怖と驚きを感じていた。

 普段、父は我ながら、ちょっとやそっとの事では驚きもしない、肝の座った人間であると自負していた。それこそ、今や会社でもかなり上の役職についている彼の事である。多少の部下が犯したミスや、客からのクレームにびくびくしているような心臓ではない。

 だが、よもや自分のせいで死んだ娘が、扉を開けた先に立っているなど、誰が驚かずにいられようか。父は冷え切った廊下の冷たさを尻と手の平でしばらく感じていたが、やがて震える口を必死に動かし、言葉を絞り出す。

「ど、どうして」

 言いたいことは、本当に色々あった。それに考えなければならないことも色々あった。

 少なくともあの時、自分は確かにこの年端もいかない娘を蹴り殺し、そしてその死体を部屋の中へ放置したまま、リビングにいた。その自分が離れている間に、生き返った?

 そう思って父は華奈の姿へ目を向ける。少なくとも華奈の見た目上は、明らかに生きている。血色も良いし、まるで何事もなかったかのようにけろっとしている。

 そこで父は、ふと華奈の頭部へ目をやった。

「? どうしたんですか、お父さん。なんだか……体調が悪そうですけど」

 様子のおかしい父に異変を感じた華奈は、不審そうに眉を顰め、自分の顔色を窺うように覗き込んでくる。その目には心配の色が浮かんでいた。

 そんな心配される存在ですら、俺はないというのに。

 自嘲的になって、父は彼女の頭部に目を向けた。

 鼻血も出ていないので、もしやと思ったが、案の定。華奈はその肉体から血の一滴も垂らしておらず、至って健康そうな姿で、そこに立っていた。

 だが、それでは父の記憶とどうしたって食い違う。

 少なくとも父が憶えている限りにおいて、華奈は確実に死んでいたし、それこそ指だって——。

 そこで我に返った父は、突然に起き上がると、華奈の方へ歩き始めた。

 驚いたのは華奈の方で、突然にこちらへ向かって歩みを進める父に、恐怖を抱かないわけがない。やっぱりこんな時間まで寝てしまっていたことに対して、大層怒っているのだ。そう思い込み、慌てて後ずさりをする。

「あ、あの。体調が、とても悪くて。それで、眩暈で立っていられなくて」

 必死に言い訳を並べる華奈は、そうして万が一にも父が自分の容態を理解して、少なくとも手を上げることを止めてくれたら。と希望的観測に縋る他なかった。

 しかし父は、そんな華奈の言葉すら聞こえていない。ただ、呆気に取られた表情でどんどん華奈との距離を縮めると、覆いかぶさるように手を伸ばした。

 肩を竦め、覚悟を決めた様に目を瞑る華奈。その片腕に手を伸ばした父は、力任せにそれを自分の目の高さまで持っていくと、信じられないものでも、それこそ恐ろしい物でも見た様に口を震えさせながら、ただ見つめていた。

 そんな、華奈にとっては意味の分からない時間がどれくらい過ぎた頃だろう。

 華奈は恐る恐る、口を開いた。

「あ、あの、お父さん。痛い、です」

 呼ばれて、父ははっと我に返る。そして自分が力を込めて華奈の手を握りしめていたことに気付き、慌てて手を離す。

「す、すまん!」

 言って、父はそのまま華奈から距離を取るように2、3歩後ずさりをする。

 言うまでもなく、父の胸中は穏やかではなかった。だが、それは華奈も同じことである。いや、父よりも、ある意味では恐怖や不思議を感じていたかもしれない。

 離された手首を手で擦りながら、華奈は今の発言が、父にしてみれば到底言うはずもない発言だと思っていた。それこそ、まだ父が偽物にすり替わっている方が納得できる。

 あの父が、謝った。

 それこそ、手首を掴まれて持ち上げられた時より、ずっと恐怖していた。

「いえ、大丈夫です」

 言って、華奈はどうしたものか、居心地悪そうにその場に立ち尽くし、手や足をもじもじと動かすくらいしかすることがなかった。そして父もまた、いつも通り、何事もなく動いている華奈を見つめ、果たして今自分の見ているこれが現実か夢か、分からなくなっていた。

 そんな現実味のなさに立ち眩みのような眩暈を憶え、父は顔を手で覆う。

 さっき、掴んだ華奈の手。確かに冷えて冷たくなっていたが、しかし確実に生きている人間の体温だった。それにあの指。

 俺が確実に折ったはずの指は、何事もなく曲げられていたし、痛がる素振りも見せないことから、折れていない様に見える。

 目を覆って上を向き、考えれば考えるほど何が何だか分からなくなっていく現実に、父は混乱を隠せなかった。

「お父さん、やっぱり体調、良くないんですか?」

 そんな父に、華奈は心配そうな顔を浮かべる。先ほどから父は意味の分からない行動ばかり取っているし、今も辛そうに天井を仰いでいる。こんな時こそ、親切にしておかないと、機嫌の悪くなった時に何をされるか分からない。という打算と、単純に今日、今この瞬間の父が理解のできない行動ばかり取るため、華奈はどうするべきか分からなかった。それ故の表情である。

 これがいつも通り、些細なことで言いがかりをつけ、怒ってくる父ならば、まだ理解できる恐怖だったのに。今の父は、何を考えているのか、微塵も伝わってこない。

「とりあえず……ご飯ですか?」

 言って、華奈は父となるべく距離を取るようにして回り込み、入り口の方へ向かう。そうして扉に手を掛けようとしたところで——。

「待て。待ってくれ」

 背中越しに聞こえる父の声と、次いでこちらへ近づいてくる気配を感じ、足が恐怖に竦む。

 慌てて振り返ろうとしたが、それすら恐怖のあまり出来なかった華奈は、父が背後に立ったまま、指先一つ動かせない。その顔は、今にも後ろから殴られたらどうしよう、蹴り飛ばされたら嫌だな。そんな恐怖が浮かんでいる。

 父もまた、華奈の背中を苦しそうな面持ちで見つめ、絞り出すような声で尋ねる。

「お前、覚えていないのか?」

 そう言われ、振り返った華奈。その表情は、相変わらず恐怖が染め上げていた。

 父は構わず質問を続ける。

「俺が、さっきお前にしたことだ。仕事から帰ってきて、そのあと……」

 言いかけて、父の頭にふと、一つの言葉が浮かんだ。

 赦し。

 あの時、気が狂いそうな程、赦して欲しいと願った。夢であってくれ、何かの間違いであってくれ。そう願った結果が、これなのか?

 自分で蒔いた種だというのに、傲慢だと自嘲する気持ちと、それでもあれが無かった事になるなら、そういう二つの思いに、父はその先を何も言えなくなってしまう。

「いや、いい……」

 そうして父は、目を逸らしてそう呟くと、華奈の肩越しに扉を開けた。

「それより、飯にしよう」

 果たして、華奈にこんな顔を向けたのはいつ以来だろう。

 酷く引き攣った笑顔を作り、父は華奈の肩に手を置いた。


 未だ胸中穏やかではないのは、華奈の方である。

 学校から帰ってきて、寝て、起きて、そうしたら父と鉢合わせ。それ以来、明らかに普段と様子のおかしい父に、華奈は嫌な想像ばかりしてしまう。

 何せ、明らかに様子がおかしいのだ。普段ならば自分と目が合っただけで、不快害虫でも見つけたかのように眉を顰める父が、今はまるでこちらのことを避けているかのような。腫物でも触るかのような態度で接してくる。

 かと思えば、時々何かを深く考え込むように止まって、難しそうな顔をする。

「後ろ、通るぞ」

 言われて、華奈も深く考え込んでいたのだろう。すぐ後ろへ近づいていた父の声に驚くと、反射的に身体が飛び跳ねる。

 父は冷蔵庫に飲み物を取りに行こうとしていたらしく、そのまま華奈の後ろを通っていたが、華奈は少ししてから、フライパンの淵に手が当たっていたことに気付く。

 遅れて、火傷特有のじんじんとした痛みが手の甲へ広がる。

「熱っ……」

 ぼそっと呟き、慌てて患部を手で押さえる。それに気付いた父は、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出しているところだった。

「どうしたんだ」

 そう聞かれて、華奈は返答に少し悩んだ。普段なら火傷したことを伝えたところで、何かしてもらえる訳ではないどころか、流水で患部を冷やす、なんてことも十分怒られる理由になり得た。

 曰く、水が勿体ない。お前がよそ見をしてたからそうなったんだろ。と言われ、無駄に怒られるだけである。

 だから華奈は、火傷を手で隠しながら、誤魔化した。

「いえ、なんでもありません」

「何でもないわけないだろ。火傷か?」

 父はそういうと、華奈の手を退ける。そして赤くなった火傷を見て、眉間に皺を寄せる。

「すみません」

 申し訳なさそうに頭を垂れる華奈。父はその手首をおもむろに掴むと、ペットボトルを置いた手でキッチンに水を出す。そして患部を冷やそうと、手首を引っ張る。

 だが、華奈は咄嗟に力を入れて、自分の方へ手を引く。

「ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声に、父が華奈の方を見ると、彼女はとても怯えた様子で足を踏ん張り、手を引く父から必死で離れようとしていた。そんな彼女の行動自体は普段から見られていたため、こういう抵抗自体珍しいものではなかったが、しかし父は、ショックを受けた。

 何せ、自分が華奈の火傷を心配して、患部を冷やそうとしたというのに、その行動を怖がられている。普段なら、それこそ父は激怒して、無理矢理に腕を引いたのかもしれない。華奈を殴りつけたかもしれない。

 実際、一瞬だけいつものように、父は手を上げようとしている自分に気付いて、すぐにそれを止めた。

「やめてください」

 尚も足を踏ん張り、離れようとする華奈に、父は説明した。

「違う。俺は冷やしてやろうとしただ。安心しろ」

 そう説明してやると、華奈は改めて父の方を見る。その目にはまだ恐怖が浮かんでいたが、しかし腕を引く力は緩くなる。それを感じて、父は改めてゆっくりと、水栓に手を近付けさせる。

 流れる水が華奈の手に当たった時、華奈は小さく身体を震わせたが、その後はただ大人しく、父にされるがまま、手の甲を冷やし続けていた。

 その手首を掴み続けながら、父は改めて、思考を巡らせる。

 俺はあの時、華奈を確かにこの手で。だが今、華奈は確かに生きている。握りしめた手首からは確かに、わずかではあるが華奈の脈も感じられるし、こうして喋って、触ることも出来ている。だとすると、やはり何か超自然的な力が働いて、華奈が死んだという事実が無かった事になった? 記憶も無くして? それはあまりにも父にとって都合の良い出来事であるため、認め難いが、それ以外に何か説明の付けようもない。というのもまた事実である。

 記憶も、どうやら全て失っているというわけではないらしい。それもまた不思議であるが、どうやら華奈の言葉から推測するに、起きてから死ぬまでの記憶がそっくりそのまま消えているらしい。

 父は、結局何か見えない力のようなものが働いて、あの過ちが無かった事にされた。という結論に至るしかなかった。そして、その見えない力に、不安すら抱いていた。

「どうだ、少しましになったか」

 明らかにいつもと違う様子の父に、手を冷やされ続けて5分程経って、父は華奈に聞く。華奈は、今度は指先が悴んでじんじんと痛むのを感じながら、しかし久しぶりに触れた父の優しさに、それ以上の不快感を感じていた。

「はい、大丈夫です」

「ならいい」

 手を離した父は、そのままペットボトルを持ってキッチンを離れる。その後ろ姿を目で追いながら、怪訝そうな顔を浮かべる。

 普段なら、こんな風に水を無駄にしたら、絶対に怒るのに。どうして今日は?

 そんな疑問を抱きながら、コンロに再び火を着けた。

 フライパンの上で、刻んだ野菜と肉が音を立て始める。

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