第9話
その後も父の態度は、華奈にとって不自然としか言いようのない物ばかりだった。だが、それがどうしてなのか。それは華奈には全く予想すらつかない。だからこそ、それが余計に恐怖心を煽る。
「お待たせ、しました」
時刻は深夜1時を回った頃。華奈はかなり遅くなった夕食を作り終え、食卓に座る父の前へ、皿を出した。
父はそれを黙って見ていたが、最後に箸が並べられたところで、口を開いた。
「その。なんだ。お前も食べるんだろ」
苦虫を嚙み潰したような表情で、言葉に詰まりながら父は華奈を見る。それは父にとって、精一杯怖がらせない様に質問したつもりだった。あまりに迂遠な言い方なので、華奈には当然伝わらなかったが。
「座りなさい」
そう付け加えて、ペットボトルの緑茶を一口、含んだ。
数秒の気まずい沈黙が、食卓に広がる。その間、華奈は頭を必死に回転させて父の言葉。その真意を探っていた。が、結局理解できず、質問を返す。
「わたし、ですか?」
「お前以外に誰がいるんだよ。食べないのか?」
父は対面に位置する、いつも華奈が使っている席を指した。
「そこに座って、一緒に食えばいいだろ。冷める前に」
気恥ずかしさから、父はぶっきらぼうにそういうと、箸を手に取った。そして大皿に乗った野菜炒めに箸を向ける。その様子を呆然と見ていた華奈は、やがて父の指示には従った方がいい。と考えを改め、急いで自分の分を皿に盛りつける。
そうして父の正面に皿と箸を用意して、席に着いた華奈は、しばらく父の様子をちらちらと、まるで視線を避けるようにして確認を繰り返す。そして、まるで悪いことでもするかのようにこそこそと、目の前の食事を食べ始める。
通夜のような重苦しい静けさの中、いつも通り箸を進める父と、それを倣うようにして、ぎこちなく手を動かす華奈。
父は、食事を口に運びながら、頭の中では心を入れ替えて華奈に優しく接そう、もう手は上げないでおこう。そう心に誓って、振舞ったつもりだった。だが、やはり一朝一夕で人の行動は変えられない。
どうすれば華奈に対して、自然に優しく、父親らしい振る舞いが出来るのかを考えていた。
一方華奈は、相変わらずこれまでと比べて、明らかに態度のおかしい父に、とてつもない違和感を憶えていた。いや、これこそ華奈にとって普段から望んでいたような暮らしだったかもしれないが、いざそれを父に実践されると、何かイメージしていたものと乖離しているような印象を受けた。
火傷をしたら心配してくれて、ご飯も一緒に食べることを許してくれて。状況だけ見たなら、この家に来た初日よりも穏やかなひと時を過ごせているはずなのだが。
「どうだ」
沈黙を破る父の声が、今まさに食事をようやく口に運ぼうとしていた華奈の動きを止めさせる。
「その……。体調は。眩暈とか、しんどかったんだろ。良くなったのか」
言葉を一つずつ選ぶ、ぎこちない口調だった。
華奈も、それを尋ねられて何と返すべきか、分からなかった。これまで父に、体調の心配をされたことなど、ただの一度もなかったのだ。
「はい。もう、大丈夫、です」
震える喉から、蚊の鳴くような声を絞り出す。それが父にどう聞こえたのかは分からない。しかし父は、華奈の返答を聞いて、小さく息を吐いた。
そしてまた食事に戻る。
華奈はそんな空気に、苦痛さえ感じていた。目の前の食べ物も、まるで手の届かないくらい遠くに感じられた。食べ物に箸を伸ばすことさえ恐怖していた。
父は、口にしていたものを飲み込むと、先ほどよりは滑らかに言葉を発した。
「お前、もう少し楽にしたらどうだ。そんなに怯えなくていい」
言って、自分の発言に驚いた。父はすぐに口を堅く結ぶと、居心地が悪そうな顔をする。
そう言われた華奈は、感情が大きく揺れ動いた。込み上げてくるものが大きすぎて、目に涙が滲むのを感じた。それを何とか耐えようと息を止めるが、それでも両目が熱を持ち、鼻の奥に涙が染みてくる。呼吸の度に喉がしゃくり上げてきて、息を吸うのも途切れ途切れになる。
怯えなくていい。父は今そう言った。だが、どうして父へ怯えずに居られようか。これまでの仕打ちによって、どれほど華奈が身体と、それ以上に心へ傷を負ったか、この男は何も理解していないのだ。勿論、彼も彼なりに変わろうとしての言葉なのかもしれないが、それは少なくとも、今の華奈には受け入れられない。心の奥では、どうせまた同じことの繰り返しになる。そんな予感が、燻っていた。
「頑張ります」
誤魔化すように制服の袖で目頭を拭い、嗚咽混じりの声で答える。泣いているなんて、父に。今の父には特に知られたくない。弱いところを見せたくない。そう思って、箸を急いで進める。
父はそんな華奈を少し見つめた。その目は、いつものように怒りで我を忘れたようなものではなく、何か違う、複雑な感情が灯されていた。しかしそれはすぐに無表情の奥へ消えていき、また黙々と食事が続いた。
かに思えたが、父は突然、音を立てて立ち上がった。椅子が床を擦り付ける不快な音が静かなリビングに響き渡り、華奈はまた肩を竦めた。驚きで涙も止まり、小さく息を吸う音が喉から鳴る。
父はそうして、何事かとこちらを伺う怯えた両の眼を見据え、決心したような表情で口を開く——がそこからなにか言葉が出ることはなく、一度噛み殺すように顔を強張らせた後、長い沈黙が後へ続く。
華奈はその間、蛇に睨まれた蛙のように、父の視線から目を逸らすことが出来なかった。だが見つめられ続けているのも心地の良いものではなく、今にも意識を手放してしまいそうな程の緊張が身体を凍り付かせた。心臓を直接に握られているような感覚に、呼吸すら浅く、早くなっていく。
どれほどそうしていただろうか。父は肩で一度息を吸うと、渇いた唇を動かした。
「すまなかった」
言って、父は視線を下に降ろした。その声は、普段の唸るような怒気を孕んだものではなかった。むしろ、何か後悔の念を含んでいるように弱々しく、くぐもっていた。
華奈は突然に謝罪の言葉を投げられ、ようやく肩の力が抜ける。もう少し父が発言するのが遅れていたら、過呼吸でも起こしていたかと思う程、手先や足先がぴりぴりと痺れ、そこに再び血液が巡り出すようなこそばゆさを感じていた。
そして元の働きを始めた脳で、父の謝罪を改めて受け入れようとした。が、どうにもその真意が測れない。何せ、この家に来てから父が謝罪をしたことなど、ただの一度もなかったのだから。
果たしてこの謝罪を額面通り受け入れるべきか、それとも先ほどからの異様な態度を含め、ただ一時の気まぐれとして拒むべきか。彼女にはどうするべきか分からない。
だが、先ほどから直立したまま、何をするでもなくこちらの返答を待つ様にして、腰へ手を当てたり鼻の下を指で擦ったりしている父は、自分へ害を成すような人間には見えなかった。
弱い人。華奈の目には、そう映った。それを皮切りに、悔しいという気持ちも、怖いと思う気持ちも、まるで初めからなかったかのように冷静さを取り戻していく自分を感じていた。
「なあ、華奈」
沈黙に耐えかねた父は、再び華奈を呼ぶ。
「本当に、済まなかったと思ってる——今までの事、全部謝る。……だから」
華奈は父の雰囲気を身体で感じ取りながら、最早何の感情もなく、テーブルの一点を見つめ続ける。そうして、ゆっくりと口を開いた。
「だから、許して欲しい、ですか?」
先ほどまで目を赤くして涙を浮かべていたとは思えない程、冷たく響く華奈の言葉。それに父は驚いて顔を上げる。
「そんなの。都合が良すぎるんじゃないですか」
思考はいくら澄み渡っていようと、身体は恐怖を憶えているのだろうか。それとも、目を合わせる必要すらないのだろうか。華奈は父の姿を視界に捉えようとせず、ただ淡々と喋る。
その冷たい語調が父の心を抉って、小さな苛立ちと無力感を抱かせる。
「な——ど、どうしてそんなことを言うんだ、華奈。俺はただ、反省して……」
予想だにしていなかった華奈の言葉に、父は戸惑いを隠せない。こちらが謝罪をしているのに、そこへ漬け込むような態度にも腹が立つし、もう今更改心したって、どうしようもないのか、という諦めもあった。
華奈はそうして何も言えなくなった父を感じ取りながら、ゆっくりと椅子を引き、同じように立ち上がろうとする。だがその動きは鈍く、まるでこの行動が正しいのか、迷いながら動いているようだった。事実、華奈はこうして謝罪の言葉をぶつけてきた父に、どうするべきか理解していない。
「もう、お父さんが何を思ってるのか、わたしには分かりません。でも、また同じことの繰り返しになるだけだと思います。だから、もういいです」
その声は言い聞かせるように穏やかであり、悲痛さを含んでいた。父はそんな言葉をぶつけられ、無意識の内にまたしても拳を握っていたが、何かを言おうとした口からは華奈を引き留める言葉が一つも出てこなかった。
華奈はそのまま、迷いを感じさせつつ立ち上がると、踵を返してその場を去ろうとする。
その光景を眺めながら、唇を噛んだ次の瞬間、父は華奈がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。机に身を乗り出し、料理の乗った皿をひっくり返しながら手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。ガチャガチャと、皿の揺れる音が机の上で鳴り響く。
「待てっ! 待ってくれ!」
そう叫んだ父の声は、殆ど悲鳴のようだった。
腕を掴まれたと理解した途端、華奈は全身に怖気が走るのを感じた。すでに幾度となく感じてきたその恐怖は、未だに慣れることもなく、腕を掴まれただけで全身が動くことを本能的に拒絶する。視界がぐらぐらと揺れ、喉を締め付けられるような感覚に襲われた。
捕まった。逃げられない。また——同じようになる。そう思った。
「華奈、なんで逃げるんだ」
荒い息を口の間から漏らし、父は振り返った華奈を見つめていた。しかしその目には怒りなど見られず、むしろ焦りや混乱で染まっているように見える。しかしそれとは裏腹に、父に掴まれた腕は、骨が軋むような痛みを覚えるほどの力でしがみついてきていた。彼女は2階へ続く階段の方へ身をやったが、すぐに元の場所より父の方へ引き戻されてしまう。
食卓は今や、惨状を呈していた。
白米の盛られた茶碗は横倒しになり、机が揺れるのに応じてごろごろと円を描いて転がっている。平皿に盛られた野菜炒めは卓上に散乱していて、暖かい味噌汁が零れ、机の端からぼたぼたと零れて床へ飛沫を飛ばしていた。
せっかく作ったのに。
華奈はふとそう思ってしまい、また目に涙が滲みそうになる。だがすぐに気を持ち直すと、浅く息を吐いた。
「お父さん」
華奈は、必死な様相でこちらを見つめる父に目をやる。
「お願いします。もう、嫌なんです」
その声は、ただ冷酷さを帯びて、父の心に突き刺さった。彼は驚いたように目を見開いて、思わず手の力が緩む。いや、無意識の内に緩めたのだろうか。
急に支えを失い、背中から転んだ華奈は、ごろごろと床を転がる。それを見た父は、先ほど華奈の部屋でやったことがフラッシュバックして、言葉すら出なくなる。対する華奈は、結局心配の言葉一つかけようとしない父を、床に這ったまま見つめ、敵意を持って睨みつける。
視線を感じた父は、ようやく口を利けるようになる。
「ち、違う、今のはお前が……」
だがそう言いかけて、すぐに口を噤む。そもそも手を引いていなければ、こんなことにならなかったのだ。
今更、父が弁解できることなど何もなかった。何ひとつ、残されてはいなかった。
華奈はそんな父を赤らんだ目で見つめ、その場に手を着いて立ち上がる。そうして、足早に階段を駆け上がっていった。
トントンと、階段を駆け上がる軽い音がリビングから遠ざかっていき、やがて扉の締まる音が遅れて、大きく響いた。
それはまるで、彼女が父に対していよいよ心を閉ざしたように聞こえ、耳の中で何度もその音が反響するように感じた。
散乱した食事をまとめてごみ箱に入れ、皿や茶碗を流しに置きながら、父は何度も、華奈が放った言葉を反芻していた。
もう、嫌なんです。
それが華奈の声で、あの冷たく吐き捨てるような口ぶりで繰り返され、父はそれを思い返すたびに自分の中にあるどす黒い何かが掻き毟られるような気持ちになった。
これまで身も心も掌握して支配していると思っていた子供に、自分の存在がずっと不快だったと、面と向かって言われているような気持ちになる。
「ふざけんな……」
これまでずっと、華奈のことを自分より弱い存在だと思って過ごしていた。だから思い通りにしてきたし、その代わりに生かしてやっていた。
それが、こちらが下手に出た瞬間、好き放題言いやがって。
不満がどろどろと湧き出し、やり直そうと思っていた思考を、怒りが染め上げていく。もう華奈に対して二度と振るわないと誓ったはずの拳を握りしめ、父は耐えきれず、それを振り上げた。
「ふざけんな!」
大声で叫び、父は床を拭いていたタオルを階段に向かって投げつける。勢いよく宙を飛んだそれは、階段近くの壁に当たって鈍い音を立てる。
「片付けもしないで、何様のつもりだ!」
そのまま怒りに任せ、更に椅子を足で蹴り飛ばす。ガタガタガタと、轟音を立てて華奈の座っていた椅子が壁の方へ吹き飛び、脚が一本、ぶつかった拍子に根元から折れる。彼はそれを見て、一瞬だけ華奈を手にかけてしまったときの事と重ねて考えてしまったが、すぐにまた頭に血が昇る。
あいつは結局、自分の事だけしか考えていない子供だ。
「降りてこい、華奈!」
上階に向かって、父は叫ぶ。だが勿論、返事はない。どころか物音すら聞こえない。父は激昂して、理性を完全に手放したまま、階段を駆け上がる。
華奈の部屋の前に立つと、そのまま勢いよくドアノブを掴み、回した。
開かない。
見ると彼女は鍵をかけていた。
それを見た瞬間、父はドアを殴りつけた。
「おい、開けろ! 俺との話がまだ終わってないだろ!」
あくまで一般家屋のドア。それほど厚いわけでもないそれを何度も殴る音が、彼女の部屋中へ響き渡る。華奈は心臓が止まりそうな程のストレスを感じ、現実から目を背けるように耳を塞いだ。そうして、ベッドの上で膝を抱え、目を固く瞑った。
勿論、華奈は父が心を入れ替えたなど考えてもいなかった。どうせ、すぐに元の調子へ戻ると分かっていた。しかし彼の暴力的な振る舞いが再び顔を表すのは予想以上に早く、予想以上に烈しかった。
どこにも逃げ場のない部屋の中、華奈はせめて父が疲れ果てるまで、ドアが破られない様に。それだけを祈って、真っ暗な視界の中で耳をより強く塞いだ。
「好き勝手言いやがって、言いたいことはそれだけか! せっかく俺が、お前のために!」
父は思考が纏まらず、ただ感情の赴くままに叫び続ける。ドアをひたすら殴りつけ、華奈はその時間が永遠にも感じられた。
一体、どれくらいそうしていただろうか。
華奈はふと、ドアを叩く音が止んだことに気付き、ようやく父が諦めて部屋の前から去ったのだと思った。恐る恐る目を開け、次に耳から手を離して顔を上げる。
そこには、息も絶え絶えで、額に汗を滲ませた父が立っていた。
拳からは血が滲み、目は虚ろで、歯は怒りを湛えて唇の隙間から見えていた。
華奈は、生まれて初めて感じる程の恐怖に晒された。全身から力が抜け、もうどこにも逃げられないことを悟った。
そして、やはり父は変わろうとしないことも、同時に悟った。結局、あれは一時の気まぐれだったのだろうか。
「何度も言わせるな。……俺の言うことを聞け。俺に逆らいやがって」
どこか遠くの方で父の声が聞こえているような感覚を憶えながら、華奈は拳を振り上げた父の目を見据えた。
「……それで、また殴るんですか」
その一言に、父の動きが止められる。彼女の言葉には、諦めと呆れが内包されていた。父は、恐怖しながらもこちらを冷たく見つめる華奈の表情に再び怒りを感じたが、何とか一度、拳を下ろす。
「何が言いたい」
唸るような声で、父は凄む。華奈はそれに身体では怯えて見せたが、その冷たい瞳だけは変えられなかった。
「殴っても、何も変わらないのに。お父さん、もうやめてください」
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