第10話

「何も、変わらない……?」

 その言葉を耳にした瞬間、父は何か、さっきまで自分をすんでのところで抑え込んでいた物が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

 視界が狭まり、父は自分の身体が意志を無視して動くのを、たた映像でも見ているかのような気分で眺めていた。

「お前が変わろうとしないだけだろ!」

 怒号が部屋に響き渡る。

 それに驚いた華奈が目を逸らした瞬間、身体が一瞬、宙に浮くような感覚を味わう。そしてすぐ、背中にマットレスの感覚を味わった。古くなったベッドのスプリングがぎしぎしと悲鳴を上げる。華奈は、視界一杯に広がる父の顔を見て、思わず視線を逸らす。

 結局こうなるんだ。期待しない様に注意してはいても、一度態度の軟化した父を目の当たりにした華奈は、やはり心のどこかで期待を抱いてしまっていたらしい。だが今は、その分だけ裏切られたという気持ちが、鋭いナイフのように彼女の心を切り付けていた。

「俺は変わろうとした。お前に頭も下げた。それなのに、お前は!」

 仰向けで倒された華奈は、叫びながらこちらへ腕を伸ばしてくる父へ必死の抵抗を試みた。だがそれも虚しく、数度顔の前で振り回した両手は、手首を父に掴まれ、頭の横へ抑え付けられる。

 そうして父が華奈の腰辺りに座ると、いよいよ彼女は何も身動きが取れなくなってしまった。

「お前はそうやって被害者面で、偉そうに説教まで垂れやがって、何様のつもりだ!」

 父の怒りは頂点に達し、その華奈を責め立てる言葉が一つ一つ、矢のように心へ突き刺さる。その苦痛に胸を痛めながら、華奈はひたすら、どうして私が責められなければならないのか。そう心の中で繰り返した。

 父にとっては、こうやって押し倒して、両腕を掴んで怒鳴りつける。これはまだ暴力の範疇ではないのかもしれない。しかし華奈にとっては、裏切られたと感じるに十分過ぎる行いだった。

「お前を養ってやってるのは誰だ? 毎日飯を食わせて、この家に置いてやってるのは誰だ! どうした、言ってみろ!」

 手首を握る力がまた強くなり、骨が軋む。きっと、父がもう少し本気で力を籠めれば、わたしの腕なんて、簡単に折れるんだろうか。そう思った瞬間、耐え難い恐怖に襲われた。逃げられないと分かっていながら、それでも無我夢中で暴れる。

 だが華奈が父の拘束から逃れようとすればする程、父もまた力を入れて、無理矢理にベッドへ抑え付ける。そしてその華奈の行動は、父の怒りをも助長させる。

「言え! 言ってみろ!」

 腕を掴んだまま振り上げ、それをベッドに力いっぱい叩きつけられた華奈は、とうとう口を開いた。

「お父さん、です」

 擦れた喉から絞り出された声で、華奈は言う。恐怖に固く瞑られた目からは涙がとめどなく溢れ、こめかみを伝って垂れていく。

 だがその返答を聞いても、父は怒りがまだ収まらない。華奈を殺してしまったときはあれほど後悔し、もう二度とこんなことはしないと願っておきながら、怒りに我を忘れた今は、華奈が自分へ二度と生意気な口を利けないよう、とにかく徹底的に怖がらせる必要があると考えていた。

「じゃあさっきの態度は何なんだ?」

 リビングで自分がこんな子供に頭を下げたこと。それなのに華奈がそれを無下にした事。思い出しただけで腸が煮えくり返って、両手をしっかりと掴んでいないと、とっくに殴りつけている程の苛立ちを抱え、父は詰問した。

「誰に向かって口を利いたか分かってるのか? 殴らないと分からないなら殴ってやろうか!」

 耳が痛くなるほどの怒号を浴びせられ、華奈は恐怖に全身が支配される。思考すらできず、ただ繰り返し繰り返し、父に対して泣き叫び、首を必死で左右に振り乱す。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 謝りますから、もうしませんから!」

 2年半余り、華奈は父による暴力で、とっくに心を折られていた。だからこうして父が怒鳴り、その影をちらつかせるだけで、これまでのされてきたことが走馬灯のようにフラッシュバックする。

 もう殴られたくない。もう蹴られたくない。そんな考えで頭が支配され、身体も言うことを利かなくなる。

 そうして華奈は、父がそれから何度か怒鳴る度、喉を枯らしながら謝り続けた。そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。窓の外は、すっかり朝日が照らしていた。

 ただひたすら自分の行いを責め立てられ、侮辱され、飽きる程謝り続けた華奈は、ようやく父に握りしめられていた手を解放される。

「お前は結局、変わろうとしない能無しなんだよ。生きてるだけで俺に迷惑ばかり掛ける無駄飯食らいが。二度と俺に対してあんな口利くんじゃねえぞ」

 静かにそう凄んだ父は、華奈の腰から立ち上がる。すると華奈は、すぐに父の傍から身を引き、そのまま怯え切った小動物のように、這いつくばってベッドを転げ降りる。そうして父から一番遠い部屋の角にいき、そこで膝を抱えて頭を伏せた。

 可能な限り身を屈ませ、小さくなって、肩を震わせる。その耳には、先ほどの父の言葉は届いていないだろう。頭の中はすっかり父の罵声によって受けた傷で、もう自尊心も何もかも、粉々に打ち砕かれていた。

 迷惑。生きている価値がない。存在が迷惑。邪魔。不潔。金食い虫。穀潰し。

 父に吐きかけられた様々な言葉が彼女の頭の中をぐるぐると巡り、華奈の心を絞め殺す。無限の自己嫌悪に飲み込まれ、華奈は父にとっての嫌なことや、腹が立つこと、その全てが自分のせいであると信じ込む。

 罵詈雑言がカビのように彼女の弱い心を蝕んでいく中で、自己の存在を自身で否定するような思考に溺れていく。

 存在意義すら、最早感じられなくなっていた。

「う、うう、うぅうううう」

 目を見開き、頭を滅茶苦茶に掻き毟りながら歯をがちがちと震わせる姿は、あまりにも痛々しく、彼女の中で何かが決定的に壊れた様子を表していた。

 そんな様子を見て、父はベッドから降りる。その小さな足音にも彼女は顔を上げ、見開いた目を音の方向へじろりと向ける。そして父の姿が視界に移った瞬間、より激しく唸りながら、自分の髪の毛を掴み、力を込めて引っ張った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 すぐに父を視界から追い出し、自分の足元を見つめる。枯れた喉から抑揚のない声を絞り出し、足をがたがたと震わせる。

「生きててごめんなさい、生きててごめんなさい」

 見つめている景色すら、華奈は頭が理解を拒んだ。何もかも考えられなくなり、ただ自己の存在があってはならないものだという事だけ、理解を許されていた。生きている事が申し訳ない。今すぐ誰にも迷惑を掛けられずに消えることが出来るならすぐにでもそうしたい。自分の存在が父にとって、足枷でしかないと、心の底から信じ込んでいた。

 父の歩みを進める音がやがて耳に入ると、華奈は声を大きくして、それを聞こえない様にした。ただひたすら自分が生きている事への懺悔。

 だが耳を塞ぎ、声を出すことで足音は聞こえなくとも、その振動は床を通じて伝わってくる。華奈は搔き乱した髪をまた手で掴んで引っ張りながら、せめて痛みで何も感じられない様に、そう願った。

「自分がどれほど俺に迷惑をかけている存在か、ようやく理解出来たか?」

 冷ややかな言葉が、彼女の懺悔を遮る。視界に移る父の足が、華奈の抱える膝のすぐ近くで立ち止まっていた。

「お前なんて生きてる価値すらないのに、俺がそれでも情けをかけてやってるのが、ようやく分かったか」

 嘲笑する父に、華奈は全身の毛が逆立った。以前なら、こんなことを父に言われれば、悲しみを感じていたかもしれない。だが彼女が今感じているのは、申し訳なさだった。申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。

「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」

 顔を見上げることも出来ず、華奈はひたすら視界に移る父の足に向かって言葉を投げかけた。

 父はそんな華奈の胸中を知ってか知らずか、髪の毛を上から掴むと、無理矢理に上を向かせた。

 力任せに首を傾けられた華奈は、しかしもう痛みすら感じない。ただ、視界に移る父の姿に、何かを感じた。

「あ、あ、う、ううう」

 虫嫌いが虫を見たような。高所恐怖症が高所に登ったような。そんな、生理的な恐怖にも似た感情で、華奈は意識を手放しそうになる。身体が本能的にそれを見てはいけないと認識し、逃走反応を呼び起こす。

 床に倒れ込むようにして、華奈は手を着いた。そしてそのまま、呻き声を上げながらでたらめに手足を動かし、慌てて父の傍をまた離れる。父はそんな様子を見て、嘲るように鼻を鳴らすと、部屋の扉を開けた。

 そうして華奈の部屋を後にしようとする。が、去り際に振り返ると、何かを思い出したように華奈の方へ視線をやる。

 華奈は父が一度退室しようとしたことすら気付いていない様子で、未だ床を見つめ、がちがちと歯を鳴らしながら謝罪の言葉を譫言のように並べていた。

「おい」

 そんな父の低い声が響いた瞬間、華奈は過剰な程身体を跳ねさせ、焦点の定まらない目で、父の方を見つめた。だが決して目を合わせようとはせず、あくまで足元を見つめている。

 父は構わず続けた。

「生きる価値もないようなお前に、そういえばこの後、一つ頼みたいことがあったんだった」

 この期に及んで、更に華奈のプライドを念入りに踏みにじる父の言葉。しかし華奈はその言葉を聞いた瞬間、濁り切った心の奥深くで何か明るいものが浮かんでくるのを感じた。こんなわたしでも、何か役に立てることがあるかもしれない。それは今の華奈にとって、無上の喜びだった。それが彼女の自己評価を、更に下げていく。

「な、なんですか? わたし、なんでもします。お役に立ちたいです、お願いします、どんなことでもしますから言ってください」

 心の高鳴りを感じ、彼女は父の傍へ駆け寄ると、縋りつくようにして父の返事を待った。その胸はずっとストレスで締め付けられ、呼吸の度に凍てつくような痛みが襲っていたが、父に求められていると感じた今だけは、それを忘れてることが出来ていた。

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