第15話
二人は背後に父の苛立ちを湛えた歩みを感じながら、それぞれ無念とやるせなさで顔を顰める。
すぐそばに解決しなければならない、救わなければならない存在がいるというのに、それに対してどうすることも出来ない自分への呵責。轟は、無意識の内に拳を握る。
やがて門扉の前まで来た二人は、腕組みをして仁王立ちをする華奈の父親を視界に入れる。その表情は、初めて会った時と同じく、眉間に深く皺を寄せ、口を堅く結んでいるが、何かを隠そうとしている様な雰囲気はない。代わりに、これでもう探りを入れられずに済む。というような、どこか勝ち誇った雰囲気を感じた。
鯖江は一瞬、父の視線に不快感を憶えて目を伏せようとしたが、自分の立場を思い出し、気を持ち直す。
「本日は、貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
丁寧な口調でそういうと、頭を下げる。
「こちらこそ、お忙しいでしょうに。うちの華奈を、揃いも揃って見に来てもらって、光栄ですね」
対する父は、敵対心を最早、隠そうともしない。まるで早く帰ってくれ、と言わんばかりに門扉の取っ手をちらりと見つめると、小さく咳払いをした。
「では、そちらのプリント、華奈さんと目を通しておいて下さい。失礼します」
まるで涙を堪える様に震えた声でそういうと、目配せをする。轟は小さく頷き、後を追って敷地の外へ出た。その瞬間、まるでもう二度とこの空間へ立ち入ることは叶わないのだろう。という直感が胸を刺す。
背中で父が門扉を乱暴に閉め、見せつけるように錠を落とす音を響かせたのを感じる。それにますます精神が摩耗して、轟はとても暗い表情を浮かべていた。
前を歩く鯖江もまた、弱々しく背中を丸め、繰り返し鼻を啜っている。
「鯖江先生……」
轟は、こういう時どうするべきか、考えても分からず、ただその後ろをゆっくりと、彼女の歩調に合わせて着いて行くことしかできなかった。
華奈は、轟と鯖江が自宅のインターホンを鳴らしたすぐ後、その姿を確認した父によって、部屋で待機しているように言われていた。そして、二人が帰るからと一緒にその場を離れた父を待ち、今もまだ部屋の中で、なにやら落ち着かない様子で歩き回っていた。
一体、どうなったのだろうか。父はやはり、なにか疑いを掛けられているのだろうか。自分の反応に、ミスはなかっただろうか。そんな思いが次から次へと湧き上がり、答え合わせの出来ない不安だけが募っていく。
自分は一体、これからどうなるのだろうか。そんな心配が頭を擡げ始めた時。
「華奈」
低く、唸るような父の声が扉越しに聞こえてくる。華奈は一瞬、心臓を下から鷲掴みにされたかのような不快感を憶え、全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。暖房も蛍光灯も、父に怒られてしまうので点けていない部屋はとても寒く、10月の冷気が充満していたが、それでも今着ている服が途端に暑苦しく感じる。
二人が、戻ってきた?
華奈はまた先程のように、扉を開けた先に父以外の誰かがいるのでは。そんな予感が頭を過る。
先程はあんな風に、我が身可愛さ、保身の為に二人を突き放した華奈だったが、何も本心が全て、父に傾いている訳ではない。華奈とて、この地獄から救い出して欲しいという気持ちが、全く無いでもなかった。それに、あんな態度を取ってしまったことに対して、華奈はとても申し訳なさを感じていた。
だが、そんな希望はいとも容易く打ち砕かれる。彼女らがこの家に戻ってくるわけがない。落ち着いた様子で華奈を呼んだ父の声音が、それを確信させた。
華奈は観念した様子で、扉へ近付く。そして、恐怖に震える手を緩慢に伸ばした。
ドアを父の方へ開けると、廊下の明かりが筋になってこちら側へ漏れる。暗くなった部屋に切れ込みを入れ、華奈はそこに立っているであろう父の影を見た。
彼女ののんびりとした動きに気付いた父は、苛立ちと呆れを含んで大きな溜息を吐く。そして次の瞬間、無理矢理その隙間に手を差し込み、力任せに扉を開け放った。
鈍い音を立て、壁にぶつかった扉は、ぐわんぐわんと小刻みに揺れている。
「何をしてるんだ」
驚いて後ずさりをした華奈を追う様に父は部屋へ入ると、壁のスイッチへ触れた。部屋がゆっくりと明るさを上げていき、華奈は眩しそうに目を細めた。
「質問に答えろ」
父は再び華奈を見据え、強く言い放つ。
「お前、俺に隠れて何を企んでるんだ?」
その言葉に、華奈は言葉を詰まらせた。何を企んでいる? 何も企んでいない華奈にしてみれば、どう返答するべきかこれ以上困る質問もなかった。それに加えて、明らかに怒気を滲み出している父の態度にも、思わず身体が萎縮する。
思わず、華奈は本能的に一歩後ろへ下がり、逃げ道を探すように目線を一瞬、泳がせた。
その動きを、しかし父も見逃さない。彼は再び、呆れた様に目をよそへやり、大きく溜息を吐く。そして、ゆっくりとした足取りで華奈の方へ歩み寄っていく。
華奈もその動きに恐怖し、足を後ろへ出した。靴下が剥き出しのフローリングを滑り、小さな音が響く。しかしその音すら聞き取れてしまう程、他に何の音も感じられない部屋の中、華奈は一歩、また一歩と壁の方へ追い詰められる。
父は、自分から目線を反らし続ける華奈に苛立ちを覚え、華奈を部屋の隅へと追いやりながら、勉強机の上にあるペン立てが目に留まる。それを無造作に掴むと、近くの壁へ投げつけた。まるで威圧感を見せつける様に投げられたそれは、壁に強くぶつかると軽い音を何度か立て、中身諸共床へ転がる。古くなっていたペン立て自体も割れてしまっていた。
「答えろ!」
とうとう父は声を荒げ、華奈はそれを合図に踵を返すと、背後の空間に向かって縋りつくように逃げようとする。だがその時にはもうすでに、逃げ道などなかった。背後には部屋の角が待ち構えており、慌てた華奈は再び父の方を振り返る。
目の前に立ちはだかる父は、怒りを露にした表情で、冷たく華奈を見下ろしていた。彼女の目が怯えた様に見開かれ、足が竦むのを感じる。
「ごめんなさい」
凍り付いた表情で、華奈は声を震わせた。そして喉から、謝罪の言葉を絞り出す。しかしそんな言葉一つでは、父の怒りを鎮められない。
「お前、いつもそれだな。何か聞かれても、それだけ言ってたら済むと思ってるのか?」
父は鋭く叱責して、更に華奈へ詰め寄る。
華奈は今や、部屋の角に背中を擦り付け、だらしなく開いた口で短く息をしながら、じっと父の様子を怯えながら見つめることしか出来ずにいた。
父は、じっと眼下で小さくなった華奈を睨みつけた。彼の中で、昨日の記憶が鮮明に蘇っていた。華奈が彼に対して忠誠を誓い、自分の為に何でもする。といったあの瞬間。その後、まるで契りのように華奈を抱いたこと。あの一時は、彼にとって心地の良いものだった。ようやく求めていた物が手に入ったような充足感に満ち溢れていて、父自身、それから先程に至るまで、彼女の待遇を見直したかのように自由を許して過ごさせていた。ようやく、何かがこの家で変わりそうな予感を感じていた。
しかし、今目の前にいる華奈。その態度は、そんな自分の厚意を仇で返すように感じられた。こちらの質問に対しても答えず、ただ決まりきった文句を口にするその姿に、怒りが立ち込めた。
「いい加減にしろよ。俺に隠れて、何を企んでるか知らないが、気付かないとでも思ったのか? 馬鹿にしやがって」
父は華奈へ苛立ちをぶつける。その内心では、華奈が自分をまるで軽視している様な気持ちに、苛立ちを覚えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
華奈は譫言のように父を真っ直ぐ見据え、思考が鈍る頭で必死に怒りを収めようとする。しかしその言葉が、余計に父の苛立ちを助長させた。
「黙れ、お前の謝罪なんて聞き飽きたんだ」
怒号が響き、華奈は反射的に後ろへ歩を進めた。すでに進めないことが分かっていながら、身体は無意識に壁へ背中を擦り付けさせる。
父の心の中で、何かがもう少しで千切れてしまいそうだった。昨日、華奈が自分に対して誓った言葉。そして、今の何かを華奈が隠しているだろうという確信。彼の理性は危ういバランスで保たれていたが、今、それが音を立てて崩れそうになっている。
再び、華奈は途切れ途切れの声で何かを呟く。父はそれを聞き、またしても謝罪の言葉を、ありふれた言葉を吐いたと気付いた瞬間、それはぶちぶちと千切れてしまった。
「お前も俺を裏切るのか!」
彼は顔から血の気が引くのを感じ、無意識に振り上げたてに気付いた。それは一瞬、その動きを止めたが、次の瞬間には父自身の意思で、強く振り下ろされてた。
せめて握りしめていた拳を開く位の理性は、父にもまだ残っていたらしい。華奈は左耳で強い破裂音を耳にしたかと思うと、次の瞬間、耳に異物でも入ったのかと思うようなとてつもない痛みが、頭を突き抜ける。頬を張られたのだと気付く暇もなく、そのまま壁に頭をぶつけ、その場へ崩れ落ちる。
耳の奥が抉られたような痛みと、今再び振るわれた暴力による恐怖。身体が自分の物ではないかのように動かせず、ただ涙が頬を滑り落ちる。
しかし、呻き声すら漏らすことは許されなかった。ただ部屋の中には父の荒々しい呼吸だけが響き、重苦しい沈黙が流れている。
父はただ無言で涙を流し、上目にこちらを怯え切った目で見つめてくる華奈に、一瞬だけとてつもない悔恨の念を抱いたが、それはすぐに怒りで書き換えられる。
「お前が俺に、ふざけた態度を取るからだ」
父はまるで誰かに言い訳をするかのように呟くと、眼下で蹲る華奈を見つめる。その目はとても冷ややかで、華奈は心臓が今にも止まってしまいそうな恐怖に晒される。
「お前の事だ。どうせ裏であいつらを家に呼んだんだろう? 俺を出し抜こうなんて、生意気な真似しやがって」
華奈はそこで、否定をしなければ。そう思って口を開こうとする。しかしその瞬間、再び左耳に鋭い痛みが走る。それと同時に視界がぐらぐらと揺れ始め、耳からなにか生温い物が垂れていることに気付いた。
庇うように手を当て、ずるりと滑った手の平を視界に入れる。その手は、真っ赤に汚れていた。
「泣きついたのか? 家に来てくれ、助けてくれとでも言ったのか!」
父は我を忘れて華奈へ怒鳴り散らす。華奈はその言葉が、しかし右耳からしか上手く聞き取れずにいた。まるで左耳だけ、何か耳の中に水でも入ったようにくぐもって、上手に聞き取れない。
背中を冷たいものが走った。もしかして、鼓膜が破れたのだろうか。
「お前を愛してると言っただろう。それなのに、どうして俺から離れようとするんだ!」
狂気染みた声で叫んだかと思うと、父は華奈の髪へ指を絡め、無理矢理に顔を近付ける。華奈は痛みと恐怖で何も考えられなくなり、必死で藻掻く。
「やめて、お父さん! お願い、やめて!」
震える唇を何とか動かして、華奈は助けを求める様に父の肩や顔を手で押し退けようとする。その時、父は空いている手を不意に突き出してきたかと思うと、そのまま自分の喉へ絡みつく。
「どうすれば俺の気持ちが伝わるんだ!」
細い首に、父の浅黒い手が僅かに沈む。華奈は顔に血液が昇る感覚を味わい、いよいよ本気で両腕を暴れさせ、必死で父の殺意から離れようと試みる。しかし体格差は歴然である。華奈はすぐに手足から力が抜けていくのを感じ、視界が端から暗く蝕まれ始めていくのを感じる。耳の痛みも感じなくなり、唇だけが酸素を求めて、何度も開閉を繰り返す。
「死んだら、またお前は元に戻る。元通りになるんだ」
意識を完全に手放す数秒前、華奈はその言葉を耳にしながら、まるで深海に沈んでいくような気持ちになる。身体は冷たくなり、意識も朦朧として、思考も纏まらない。痛みも恐怖も感じられなくなり、ただ瞼が重くなっていった。
がくん。華奈は意識を失ったのか、首が力なく後ろへ傾く。父は意識を完全に消失した華奈を見つめながら、しかし首から手を離そうとはしない。そのまま力を入れ続け、やがて握っている手にも温度を失って、死体になりつつある華奈の感触が伝わり始めると、歯を食い縛った。
そして、とどめを刺すかのように再び力を込めた時。肉に包まれた枯れ枝が折れるような、とても嫌な感触を手に感じ、父は嫌悪感に顔を歪めながら、ゆっくりと手を離していく。
華奈の首は、まるで自分の意思を失ったかのように不自然な曲がり方をして、骨が折られたことを示すかのように、青白い肌の下に鋭い角度が浮き上がる。恐らく、折れた骨が浮き出ているのだろう。父が渾身の力を込めて握っていたところは、手の形に痕が残っていた。
顔は充血して膨れており、手を離したことで血がすでに手遅れながら巡り出したのだろう。ゆっくりと血の気が引き始めた。まつ毛は涙で濡れ、頬とこめかみに涙の痕が残っている。僅かに開かれた目は、どろんと濁っていた。
父はその様子を、しばらく呆然と見つめていた。しかし、やがて興味を失ったように突然立ち上がる。
扉がゆっくりと閉められ、父の足音だけが部屋から離れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます