第14話

 冷たい風が吹き抜け、僅かに落ちていた落ち葉を巻き上げる。足元を、くしゃくしゃと音を立てて通り抜け、鯖江の後ろで一つにまとめた髪を揺らす。父はその音に気を取られるそぶりも見せず、ただ警戒を緩めなかった。

「華奈さんは」

 轟が口を開く。

「今、部屋ですか」

 鯖江のように丁寧な喋り方が出来ていないことも気付かず、問い詰めるような口調になってしまう。父は案の定、明確に顔を強張らせた。そして、重く響くような声で答える。

「ええ、部屋で勉強しています」

 その言葉に間を与えず、轟は更なる疑問を投げかけたい衝動に駆られた。だが、身を乗り出そうとしたところで鯖江が横から手を伸ばし、それを静止した。

「はは、先生、ここは我慢するタイミングだったみたいですよ」

 口の端を歪める父の言葉は、明らかに轟へ向けられたものだった。それから父は二人に視線を向ける。その目は改めて見下すような、そんな冷ややかさを帯びていた。

 轟は、胸の中に自己嫌悪が滲んだ。問い詰めてやろうという自分の行動が、結果的には父にますます壁を作らせ、情報を引き出すことにも失敗した。

 鯖江の伸ばした手も、轟を制止しようとしただけでなく、同時に轟自身を守ろうとしたものだという事も、すぐに気付かされた。彼女は自分の欠点までも見抜き、対話の場を壊すまいと最善を尽くした。それに対して、自分はただ短絡的に動き、踏み込むポイントを間違えた。

 自分は思慮が浅く、気が短いのだという事に、改めて気付かされた。

 華奈を守りたいという気持ちは確固たる信念へと変わっていたが、一方でこんな自分がこの場には不相応だという気持ちも感じていた。

「お父様。お時間も弁えず、失礼だとは存じます」

 鯖江は意を決した様に、口を開く。自分の行いを顧みて猛省する轟の気持ちとは裏腹に、身を乗り出して父へ立ち向かったその姿が、彼女自身にも勇気を与えていた。

 鯖江は続ける。

「しかし、わたし達は華奈さんが顔に傷を作って登校していることについて、見過ごすわけにはいきません。もし学校のトラブルであった場合、早急に手を打たなければいけないと考えています」

 あくまで家での何かを疑っているわけではなく、責任を感じての行動だと、父が受け入れやすい言い方で伝える彼女の言葉。しかし父は、それとは別の何かを考えているようだった。しばらく黙って視線を泳がせ、何かを思案する。それは恐らく、この家まで来ている教師二人を帰らせるための文言だったのだろうか。しかし、父は一度強く目を瞑って考え込んだ末、諦めた様に肩を落とした。

 ここで追い返した方が、後々面倒なことになりそうだ。

 そう考え、立ちふさがっていた門扉から半歩横にずれる。

「入ってください。ただし、長居はしないでくださいね」

 一方、驚いた表情を浮かべたのは鯖江だった。その後に続ける言葉も考えていた彼女にとっては、予想だにしないタイミングで許可が下りた。しかし、これでひとまずは家に入ることが出来る。鯖江は安堵の表情を浮かべた。轟もまた、その背後で鯖江の反応を見ながら、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。

「ありがとうございます」

 鯖江は丁重に頭を下げた。その様子を見て、轟も倣うようにお辞儀をした。

 着いてこい。と言わんばかりに父は無言で歩き出し、鯖江は頭を上げると、一言断ってから門扉の中へ入る。轟も中へ入って、門扉をなるべく丁寧に閉めてから、早歩きで後を追った。

「ここで少し待ってください」

 玄関前で、父は扉に手を掛けたまま、二人を制止した。

「犬を飼っているんですが、少々怖がりでして」

 そういってはにかんだ父は、先ほどまでの険しい面持ちはどこへやら、すっかり優しそうな表情を浮かべていた。父もそれにすぐ気付いたのか、ひとつ咳払いをすると、また眉間に皺を寄せ、警戒をあらわにする。

 そしてそれを聞かされた轟は、ここまでと比べても一層恐怖の色を滲ませる鯖江に目が行ってしまった。彼女は犬の存在を教えられた瞬間、肩がわずかに跳ねていた。

 父が扉を開けると、奥からガシャンと、柵を揺らす音が聞こえる。続けて、主人の帰りを待ち侘びていたかのような鳴き声が聞こえる。

 轟はその瞬間、無意識に鯖江の傍を通りすぎ、前に立った。それは恐らく犬を怖がっている彼女を気遣っての事もあるだろうが、それ以上に轟自身、その犬を見たい一心だった。

 自分にとって犬は親しみやすい存在であり、大きく高い柵越しに後ろ脚だけで立ち、薄い舌を出して喜んでいる様に、思わず笑みが零れる。

 対する鯖江は、足がその場に根を張ったように、その場から前へ進めなくなる。

「アックス」

 父が声をかけると、犬は名前を呼ばれたことで、更に激しく尻尾を振り始めた。轟はその愛らしい姿を見つめながら、背後で小さく息を呑む鯖江の声が耳に入った。

 父もまたアックスの方を見つめているのを確認してからちらりと後ろを振り返ると、目を見開いて、身体を守るように両手で肩を抱いている。

 轟は、慌ててアックスと父の方へ歩みを進めると、柵越しに手を伸ばし、アックスの首輪にリードを付けている父に話しかけた。

「ジャーマンシェパードですか?」

 父は驚いた様子で振り返ると、轟にその日初めて、好意的な表情を向けた。

「そうだ、よく知ってるな」

 轟は、しかし父の方よりもアックスに目を奪われていた。しばらくは、ここへ来た目的を思い出して我慢していたが、やがて口を開く。

「撫でてもいいですか」

 父は思わず嬉しそうな反応を見せた後、態度が軟化してしまっている自分に気付いたが、少し考え込んで、首を縦に振る。

「構わないが、急に近づくと驚くからな。ゆっくり行くんだぞ」

 轟はそう言われたことに対して素直に喜び、父が柵を開けるのを待つ。

 ロックを外し、父がアックスを呼ぼうとしたとき、思わぬ事が起こった。

 アックスはその大きな身体で柵を押し開けて、そのまま轟の方へ尻尾を振りながら突進してきた。

「アックス、待て!」

 父が叫ぶが、その言葉に耳を貸そうとしない。轟は少し驚いたが、片足を引いて構える。アックスは嬉しそうに飛びつくと、そのまま自分を撫でてくる轟の手を舐め始めた。

「あはは、かわいいな」

 轟は嬉しそうに言うと、ごわごわとした胴を触る。アックスは嬉しそうに身体を擦り付け、換毛期だからだろうか。轟の服を瞬く間に毛でいっぱいにしていく。

 父はリードを引っ張って何とか引き剥がそうとするが、やがて轟が嬉しそうに撫でているのを見て、諦めた様子で手を緩める。

「申し訳ない、うちのアックスが」

 肩を落とし、顔中毛だらけになった轟を見る。しかし、そんな父の心配とは裏腹に、轟は幸せそうに顔を綻ばせた。

「いえいえ、この子が喜んでくれたらそれが一番です」

 実際、服に毛がつくことすら喜んでいた。

 そして、思い出したように鯖江の方を見る。彼女はまだ微動だにせず、怯えた表情を浮かべていた。アックスが次は鯖江に撫でてもらおうと顔を向けたのを感じ、轟はまずい。と緊張が走った。

 鯖江は、アックスがこちらを向いていることに気付き、その場から逃げ出してしまいたい程の恐怖を覚える。目を見開いて、こっちに来ないことをただ祈った。

「大丈夫ですか、鯖江先生?」

 轟は、悩んだ末に口を開く。恐らく大の犬好きである父にとって、アックスを怖がっているというのはどう見たって印象が良くは映らない。しかし、彼女もまた、それを押し殺して部屋に入れそうもなかった。

「す、すみません。ちょっと怖くて」

 鯖江は泣き出しそうな顔で、アックスから目を離そうとしない。

 轟は悩んだ末、アックスを依然として撫で続けながら、父の方を見上げる。

「お父さん、すみません。鯖江先生、この子が怖いみたいでして。この子も怖がるといけないから、少し奥の方までアックスくん、離れさせて欲しいです」

 言葉遣いこそ、鯖江のように礼儀正しいものではないが、父は心から楽しそうにアックスを撫でていた轟の気持ちを汲んだ。

 頷いて返すと、リードを軽く引く。

「アックス、着いてこい」

 呼ばれたアックスは、少し名残惜しそうに轟の方へ顔を向けたが、一度手を舐めた後、尻尾を振って父の方へ駆け寄る。轟はその様子を見て、名残惜しさを感じたが、安堵で胸を撫で下ろす。

 父はそのまま廊下を進み、リビングのドアを開けてアックスとその中へ入る。そして一人で出てくると、こちらへ戻ってきた。ドアのすりガラス越しにアックスが扉を爪で何度か引っ搔いていたが、やがて諦めた様にその向こう側へ去っていく。

「鯖江先生」

 轟に呼ばれ、はっと我に返った鯖江は、少し驚いた表情で彼を見上げた。いつの間にか自分の前に立っていた轟は、不安そうな面持ちで彼女を覗き込んでいたが、鯖江はすぐに自分のやるべきことを思い出し、奮い立つ。

「大丈夫ですか。アックスは離れましたから、大丈夫ですよ」

 轟はそういって、再び玄関の中へ入る。鯖江も軽く息を吐くと、気を取り直して後を追った。彼女は心の中で、ここへ来た理由を思い出した。

 華奈に何があったのか。どうして今日学校を休んだのか。それを轟と確かめるため、ここに来たのだ。

 父は柵を開け、二人を中へ招き入れる。そして、轟の方を向く。

「華奈は2階だ。そこまで案内しよう」

 轟は頷き、歩みを進める。鯖江も後に続きながら、再び重苦しさが空間を満たしていくのを感じた。

 階段を上がり、静かな廊下を進む。外見から予想は着いていたが、この家は正に豪邸と言うに相応しい広さと造りを持っていた。一方で、どこか物悲しい印象を感じてしまう。

 壁は美しいクロスで仕上げられ、無駄のないデザインが細部に見て取れる。しかしどこか人の温もりが感じられない。生活感があまりなく、まるでこの家を内見でもしているかのような気持ちにすらなる。廊下の突き当りにあるキャビネットや、階段の途中に置いてある調度品なども整然と配置されてはいたが、どれも無機質な印象を与え、居心地の悪さすら感じさせる。冷ややかな雰囲気が漂い、やはりこの家では何か良くないことが起きていると直感させた。

「華奈、いるか」

 父は廊下を進んでいき、扉が並ぶ、そのうちの一つ。そこで足を止めると、声をかける。鯖江は改めて襟を正し、轟は固唾を呑む。

 程無くして、扉が開けられる。暗い部屋の中から華奈の嬉しそうな顔が飛び出してきた。しかし、華奈の目には轟と鯖江の姿も映る。彼女の表情は、一瞬で驚きと疑問に変わった。

「どうして……」

 ここに。そう言葉を漏らし、彼女は扉に手を掛けたまま、気不味そうに視線を床に向ける。心当たりは、あった。きっと今日学校を休んだからだ。華奈はそう思った。これまで何度も早退をすることや、遅刻をすることはあった。それをしてもこうして家に来ることはこれまでなかったから。しかし、欠席までしてしまったら。

 華奈は視線を感じ、どうするべきか困り果てた末、父に目をやる。

 父はその反応に苛立ちで眉を顰めたが、すぐに冷静さを取り繕う。

「お前の怪我について、話を聞きに来たらしい」

 轟と鯖江の手前、父は口が裂けても華奈にいつもの調子で接するわけにはいかない。お前のせいで。という怒りを押し殺し、淡々とそう伝えた。

 華奈はその言葉に動揺を隠し切れない。思わず頬に手を当てた。そこには、昨日のガーゼはなかったが、しかし新しくできた痣を隠すため、新しいガーゼが貼られたままだった。

 鼓動が早くなり、血の気が引いていくのを感じながら、華奈は轟と鯖江を交互に見る。彼らは不安そうな面持ちで彼女を見ており、その胸中を察しようとしているようだった。

 だが今の華奈にとって、それこそ迷惑という他なかった。

「華奈、その怪我はどうやって出来たんだ?」

 低く唸るような声が静寂を破る。

 華奈はそんな父の声に対して、反射的に肩がびくりと跳ねる。その怯えた様子を見逃す轟と鯖江ではなかったが、華奈の言葉を待つことにした。

 父もまた、華奈を無表情に見つめており、華奈は今まさに、喉元へナイフを当てられている様な気持ちになる。

「えっと」

 華奈は喉が震えるのを感じた。

「転んでしまって」

 そういって、父を見る。その表情に変化がないところを見ると、うまく父と口裏を合わせられたのだろう。華奈は少し安堵を感じた。

 一方、身を乗り出したのは轟だった。

「転んで? それだけでこんな大きな傷が出来たの?」

 先程の反応といい、明らかに声が震えている事といい、彼女は間違いなく嘘をついている。そう直感しての発言だった。それを言った後で、また一歩踏み込んでしまった。と思ったが、今度は鯖江も制止しなかったところを見るに、彼女もまた、同じように疑問を抱いたのだろう。

 轟の視線は、華奈の小さい顔。その左側を頬骨と顎まで覆いつくすようなガーゼに向けられている。彼女はその目に耐え兼ね、再び視線を落とした。

 これ以上の追及は、彼女にとって心臓が張り裂ける思いだった。

「はい、そうです。足元を見ていなくて」

 華奈は引き攣った笑みを浮かべようとして、痣が痛むのを感じる。そのせいで余計にぎこちない笑顔となってしまう。

 その時、鯖江がその場に膝を折ってしゃがみ込むと、華奈の顔を下から覗き込んだ。

「華奈さん。もし何かあったなら、私たちに話してくれてもいいんですよ。わたしたち、華奈さんの味方ですからね」

 その声は母性すら感じさせる程柔らかなものだった。華奈に届いていたならば。

 彼女はただ、父の目だけが気がかりで、これ以上何も聞いて欲しくなかった。

「いいんだ、お前は大丈夫なんだろ?」

 父は割って入ると、華奈を見下した。その声は隠しきれない苛立ちが滲み出しており、またしても華奈は肩を竦めると、慌てて首を縦に振る。

「はい、わたしは大丈夫です」

 その返答は、単に父から後で何をされるか分からない、という恐怖心から出ただけの言葉だった。彼女は自らを守るため、すぐ目の前まで垂れている蜘蛛の糸に縋ることが出来ずにいた。

 轟と鯖江は、打つ手がないことをもどかしく思った。どう考えても華奈は普通ではない。何かを隠している。その内容も、殆ど想像が付く。だが、これを掘り進めていけば、華奈自身が無事では済まないのも、理解していた。

 鯖江はせめて、自分から助けを求めてくれたら。そんな淡い期待を抱いて、再び華奈の目を見つめる。

「本当に大丈夫ですか? 言い難いことがあるんだったら、女性だけで話しましょうか」

 その発言に轟も、そうするべきだと頷く。しかし華奈の反応は芳しくない。

「もう、十分でしょう」

 父が怒気を孕んだ声で言う。

「華奈はもう大丈夫だと言っているんだ。これ以上何を言わせたいんです?」

 その言葉は、轟と鯖江を黙させるのに十分だった。当人の華奈が助けを求めようとせず、父も引き剥がそうとしてくる。轟は、こうして父と対立していくことが、彼女に更なる苦痛を齎すのではと思い、どうするべきか分からなくなっていった。

「轟先生、鯖江先生」

 ふと名前を呼ばれて、二人は華奈を見る。彼女は、何かを決心したような面持ちで、二人を見つめていた。父を含めた3人に、緊張が走る。

 ようやく解決の糸口が見えた。そう思って肩を落とし、安堵の表情を浮かべる二人に、華奈は口を開く。

「すみません。今日はもう帰って頂けますか?」

 彼女の声は冷たく、表情も何かを諦めた様に視線が外されていた。

 轟は驚き、鯖江は言葉を失う。

 華奈が自分の意思で自分たちを追い返そうとしている。そのことが信じられなかった。今や華奈は、完全に心を閉ざしていた。

「華奈さん」

 喉に言葉が詰まりながらも、何とか彼女の名前を絞り出した鯖江は、しかしすぐに口を閉ざすこととなる。

「わたしが大丈夫って言ってるんです。迷惑なので、帰ってください」

 その目にはもう、何の希望も映っていなかった。

 今度こそ完全に打つ手が無くなった鯖江は、何かを言おうとした口をゆっくりと閉じる。轟は、目の前が暗くなっていくのを感じ、悔しさに歯を食いしばった。

「わかりました。無理にお邪魔するつもりは、ありません」

 鯖江はやがて、悲しそうに目を細めると、華奈を見つめた。それから膝に手を着き、立ち上がる。父はそんな二人を一瞥すると、華奈を見た。

 華奈もまた、視線を感じて一度父を見つめたが、またすぐに視線を床へ落とした。

「玄関まで見送りましょう」

 冷ややかな声で父が告げ、二人はいよいよその場にも居られなくなった。諦めた様子で、来た道を戻っていく姿を、華奈は部屋の傍から、ずっと見送っていた。

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