第13話
自分のデスクに戻った轟は、華奈のことを気に掛ける一方、心の奥では未だ無関心で興味を持ち切れていない自分を感じていた。何も生徒が学校を休むというのは、珍しいことではあっても異常とまでは言えない。それを取り立てて心配するのもおかしな話だ。
では一体、何が引っかかっているのか。それは正に、あの傷だった。
頭を再び、痛々しい頬のガーゼと、ストッキングで隠された傷跡が過る。轟は気付かれないよう、目線を再び鯖江へ向けた。彼女はまた元のグループでの会話に戻っており、人懐こそうに笑っている。
足の傷を発見したのは自分だけかもしれないが、きっと頬のガーゼについては、他の教師も、生徒も気付いている筈だ。だが誰かがそれに気付いて、何か行動を起こしているような雰囲気は感じられない。心配性な誰かが声を上げたり、然るべき機関に通報でもしていれば、今頃職員室は、上を下への大騒ぎになっている筈。しかし、見渡しても特にこれといって何かがあるわけでもない。至って平常運転だ。
周囲を見渡し、轟は迷った末、静観することに決める。
次の授業で使う教材を引き出しから用意して、ずっと手遊び代わりに持っていたボールペンを、胸ポケットにしまう。
授業を進めながら、轟はそれでもふと、華奈のことが脳裏を過る。彼女と交わした、図書室での数少ない会話。ページをめくる音だけが響く静かな時間が思い出され、ふと、気にかけてしまっている自分に気付く。どうしたことだろうか。普段の轟なら、こんな風に誰かの事を、ましてや他の学年の生徒をこれほど考えることなど、そう無かっただろうに。
一度心配の棘が刺さってしまった心は、それを気にしない様に努めていても、じくじくと響くような痛みが続いている。
明日も、もし来ていなかったらどうしよう。そんなことを考え、チョークをふと手から落としてしまう。生徒たちの板書をする手がぴたりと止まり、轟はゆっくりとした動きで、それを拾い上げる。
「失礼。それで続きだけど、トロッコを押して昇る良平は、どうして——」
真剣な眼差しで授業を受ける生徒たちに轟は授業を行いながら、自分が一番、それに集中できていないことに気付いた。
もし明日も来なかったら、どうしようか。
そんな思いが、心の中を埋め尽くす。轟自身、理解している。これはただ、教師が生徒を思う程度の気持ちだと。しかし、それが何に由来しているのか、自分でもいまいち分からない。そもそも、轟はあまり人へ興味関心を向けるような人間ではない。そんなことよりも自分の生活に重きを置くというのが、ある種ポリシーのようなものだった。
授業が終わり、椅子を引く音や文房具を片付ける音、生徒たちの声で教室が騒がしさを取り戻す中、轟はすぐに教室を出て、迷った末、左手の階段へ向かう。恐らく、鯖江は上階で授業をしている筈だ。だから階段を通って、一度降りてくるかも。そう思って、左右ある階段の内、左に向かった。
果たして、丁度彼女が階段を降りて来ていた。轟とは違い、しっかりとスーツに身を包んだ鯖江が、パンプスが階段を叩く音をさせながら降りてくる。その隣には女子生徒が並んでおり、楽しそうに談笑をしていた。
いつも一人で、生徒からも半ば敬遠されている轟とは違い、彼女はいつも明るく朗らかで、男女問わず人気が高い。事実、轟が話しかけ難いと思ったその表情を見た女子生徒二人は、やや驚いたように眉を上げ、目を逸らす。それから遅れて鯖江が気付き、轟の顔を見て微笑む。
「先程ぶりですね、轟先生」
轟は黙して、軽く会釈をする。一瞬、そのまま何も言わずに立ち去ろうか。と、いつもの人付き合いを避ける悪癖が出そうになったが、堪えて口を開く。
「あの、鯖江先生。少しお話が」
階段を降りた轟は、身長差から鯖江を見下ろすようにして言う。それをきっかけに、両隣の女子生徒は蜘蛛の子を散らすようにその場を去った。
「美紀ちゃんまたねー」
長髪の生徒がそう言って、鯖江はおどけて怒る。
「こら、先生って呼びなさい!」
その微笑ましいやり取りを、所在なさげに見ていた轟は、鯖江が改めてこちらを振り返るのを待って、確認した。
「あの、須々木さんに届けるプリントとか、あったりしますか」
緊張で顔が強張り、相対した鯖江の目を見て話すことに抵抗を感じた轟は、目線を泳がせながら、口を開いた。
「宿題とか、連絡事項とか」
授業をしながら考えたプランとしては、彼女に何か届けに行くという名目で、住所を聞き、様子を見に行く。という、至ってシンプルなものだった。自分が担任ではない、というとても不自然に思われる点に目を瞑れば。
妙なことを聞いてきた轟に、鯖江は口へ手を当て、少し思案する。そして、そういえば進路相談のアンケートがあったことに気付いた。
それを伝えると、轟の眠たそうな目が、途端に見開かれた。
「本当ですか」
ぐらりと身を乗り出し、問い詰めてくる様子の轟に、鯖江は上体を反らして、首を無理な角度に曲げた。鯖江が低身長、というのもあるが、轟も170余りある。そして痩せているためか、動きがぎこちない。そんなこと、面と向かって言える訳もない位失礼なことだが、鯖江はまるでマリオネットが動いているようだな、と思った。
「それ、鯖江先生が持っていくんですか」
どうしても人と話すことに慣れていない為、詰問調になりながら、轟は確認する。鯖江は小さな身体を引き続き反らていた。
「そ、そうですね、わたしが持っていきますけど……」
「ご一緒させて頂いて、いいですか。何時ぐらいになりますか」
鯖江は担当している部活動もないので、18時位に持って行って、そのまま直帰する旨を伝えると、轟は更に身を乗り出した。
「ではその時間に、ご一緒させてもらいます」
リンボーダンスでもするのか、という程身を反らせながら、鯖江はどうして須々木華奈にそこまで執着するのか、轟の性格を鑑みて少し不審に思ったが、しかしその真っ直ぐな眼差しは、教育者としての光に溢れているように感じられた。
轟と鯖江が、華奈の家に着いた頃、空はすっかり薄暗くなっていた。初め、何度も住所が間違っているのでは、と思って名簿に書いてある住所を見返したが、何度確認してもこの大豪邸で間違いないらしい。しかし表札に書いてある苗字が、須々木ではない。そのことが余計に二人を困らせた。
未だ不思議そうに名簿の住所と表札を見比べては髪の毛に手を突っ込んで掻き回している轟の隣を、不意に鯖江が横切る。彼女はそのまま手を伸ばし、インターホンに指で触れた。
「さ、鯖江先生」
果たして本当にこの家かも分からず、また、心の準備も出来ていない轟は、驚きに満ちた表情でその小さい背中を見た。しかし振り返った彼女は、半ば叱責するように呼び止められたことに対して、不思議そうな顔をしている。
「どうしました?」
きょとんとした様子の彼女に、轟は何か言おうとしたが、しかし諦めて目を逸らす。
「いえ、大丈夫です」
確かに、このまま悩んでいるよりも押してしまった方が手っ取り早い。
ただ、目の前に立つこの鯖江は、鉄の心臓でも持っているのだろうか。轟は、高鳴る胸を抑えるように手を当てた。
少しあって、高い電子音が鳴る。インターホン越しに、低い男の声が聞こえてくる。
「……どちら様でしょうか」
警戒心を隠そうともせず、声の主は不審そうに尋ねる。鯖江がカメラに丁度映る位置に立ち直し、明るい声を出した。
「お忙しいところ申し訳ありません。私、須々木華奈さんの担任をしている、鯖江と申します。こちらは轟先生です」
はきはきと自己紹介をする鯖江の後ろで、轟は顔が強張るのを感じた。なんとか警戒されない様に、口角を上げる。
鯖江が続けた。
「本日、華奈さんにお渡ししておきたい書類がありまして……華奈さんのお父様で、お間違えありませんか?」
ややあって、男の声が返す。
「そうですけど?」
インターフォン越しに聞こえる声は、まるで迷惑だと言いたげな声音をして、鯖江の言葉を突き放す。轟はその気不味い空気を感じ取った。再び沈黙が訪れ、無遠慮な視線をカメラ越しに向けられている事が伝わる。
まるで臆さない様子で、笑顔を浮かべながら目線を反らさない鯖江と違い、轟は手に嫌な汗が滲むのを感じた。なんとか明るい表情を浮かべ、静かに深呼吸をする。
何かがおかしい。
体調が優れない娘に書類を届けに来たことに対して、ここまで警戒することがあるか? 轟は、またしても華奈の身体に出来ていた傷を思い返していた。
それは考えたくない可能性だった。
「書類。……郵送じゃ駄目だったんですか」
足元が竦む様な緊張を湛え、父は言葉を返してきた。だがその響きは依然、拒絶が色濃く出ている。鯖江だけが明るく、返事をした。
「はい、郵送も可能ではあります。ただ、進路相談についてのアンケートですので、出来るだけ早くご確認頂きたいと思いまして」
言って、少しの沈黙を挟んだ鯖江は、声を落として慎重に続けた。
「それに、華奈さんの怪我について、気になっておりまして」
そう言った鯖江は、先ほどまでの明るく無邪気な様子ではなかった。轟はその発言を聞いて、思わず目だけで彼女の方を見る。
てっきり、気にしているのは自分一人だけだと思ってた。増して、彼女がそれを気にしているとは思っておらず、それが自分も着いて行く、という行動に繋がっていた。
過小評価していたらしい。その小さい背中を見つめ、轟は自省した。
その言葉が発された瞬間、スピーカーの向こう側で何かが動く気配を感じた。鯖江、そして轟もそれを感じ取り、緊張の糸が張り詰める。
父は苛立ちすら感じさせる声で、突き返す。
「怪我だと? あれは大したことじゃない。華奈が言ったのか?」
先ほどまでの丁寧な語調すら崩れ、何かをひた隠しにしようとする父の言葉に、轟は喉が締め付けられる。鯖江は、再び元の明るい声になって、応答した。
「いえ、華奈さんから何かお聞きした訳ではありません。ただ、学校で頬にガーゼを当てていらっしゃったので、念の為、ご確認をと思いまして」
その言葉を最後に、スピーカーが切断されたような音を立てて、沈黙する。轟と鯖江は、無言で互いを一瞥した。鯖江の明るい表情はもうどこにもなく、ただ何か、轟同様に不審なものを感じ取っていた。
数秒後、遠くの方で扉が開く音がして、轟はその方向に目をやる。見ると、ドアの影から男が一人、ゆっくりと姿を現していた。その背筋は僅かに張り詰め、警戒心が姿勢に現れている。轟と鯖江の立つ門扉の前まで、距離を測るかのように慎重な足取りで、近づいてくる。
父のスリッパが石畳を擦る度、緊張尾がますます募る。薄暗さ故、その表情までは図れなかったが、何か家の中の事を探られまいとするような感情が見て取れる。そして門扉を開けたところで、轟は体格の良さに気付かされた。肩幅が広く、がっしりとした体躯は、圧倒的な威圧感に満ち溢れている。
その顔立ちは厳しく、眉間に深い皺が寄せられている。眼光は鋭く、視線が轟と鯖江の間を交互に行き来する。特に鯖江に対しては、身長が小さいためか、見下すような視線を向ける。
「で、何の確認ですか」
低く、抑えたような声で言った。鯖江は自分の足が竦むのを感じながら、一歩前に出て応える。
「お忙しいところ、申し訳ありません。先ほどもお伝えさせていただきましたが、改めて華奈さんの担任をしている鯖江です。そしてこちらは轟先生。お父様に直接お会いしたくて参りました」
そういって、鯖江は肩にかけていたカバンから進路アンケートの書類を取り出すと、両手で丁寧に差し出す。しかし父はそれにちらりと目を向けると、再び睨みつけるように鯖江を睨んだ。
「それはさっき聞きましたよ。わざわざ届けて下さるなんて、おかしなことをする先生ですね」
轟は、その瞬間、鯖江の小さく丸められた背中を横目で見ながら、彼女の言葉を待った。しかし鯖江自身、何を言うべきか悩む。
何かを隠そうとしているこの父親に対して、轟は次に打つ手を必死で考えた。
しかし鯖江は相当父の態度に当てられて、消耗していることは明白だった。父の方も、何か手掛かりになりそうなものを表そうとは決してせず、ただこちらへの敵意を剝き出しにしていくばかりである。
「ええ、華奈さんの怪我についても、少し気になっていまして」
鯖江は小さく声を震わせながら、気丈に振舞った。
父の顔が曇る。再び苛立ちを孕んだ声になった。
「怪我? そんなことですか。少し家で転んだだけですよ」
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