第16話
ふと、ベッドの上で目を醒ました華奈は、違和感を憶える。
見慣れた天井を、仰向けのまま見つめ、不思議そうに眉を顰める。おかしい。わたしは確か、お父さんの部屋で寝ていた筈。
華奈は眠りにつく前、明け方頃、確かに父と強く愛し合ったのを思い出す。脳が痺れるような多幸感と、覆いかぶさる父の温もり。太く、ごつごつとした四肢。それに強く抱きしめられた時に感じた、得も言われぬ感情。
思い出すように目を瞑り、華奈は深呼吸をする。今や彼女にとっての父は、恐怖の対象では無く、自分の全てを捧げて尽くすべき対象へと変わっていた。それが世間一般の愛とはかけ離れていることに気付く術を、彼女は持たない。ただ、父にああやって愛される日々が続けば、自分という存在はその庇護下に置かれる。それだけを理解していた。
だが、微睡から覚醒するにつれ、彼女はやはり、就寝した場所と今の場所。それが違うことに違和感を抱く。いや、違和感がそれだけなら、彼女も恐らく父が連れて来てくれたと思うかもしれない。しかし、違和感は他にもあった。
部屋はすでに夜の静けさが広がり、開けられたままのカーテンからは、薄い星空が広がる。冷え切った風が窓を微かに揺すって、部屋の中へ流れ込む。
華奈は心の中へ広がった、得体のしれない物悲しさを感じ、途端に不安が襲い来るのを感じた。父の愛を一心に受けた後に感じた一人の部屋は、まるでまた、関係性を含む何もかもが元の通りに戻ってしまったかのような焦燥感を彼女に味わわせた。
「お父さん……」
彼女は丁寧に掛けられた布団と一緒に上体を起こし、小さく口にしてみる。それから部屋をぐるりと見渡すが、そのどこにも父の姿はない。胸が孤独感で締め付けられ、今にも寂しさで泣き出してしまいそうな気分になる。
この間まで、そんなことなかったのに。華奈は心の中でそう呟き、急ぐようにベッドから降りた。そして冷え切ったフローリングを足の裏で感じながら、足早に部屋を後にした。
廊下に出ると、電気の眩しさが目の奥を刺激し、思わず目を細める。普段なら当たり前のようにあるその明かりも、今はまるで家全体の静けさを強調させるかのようだった。華奈は思わず早くなる呼吸を感じながら、ゆっくりと廊下を進む。
「お父さん?」
華奈は小さく、父を呼んでみる。その声は無機質な明るさを抱えた廊下に吸い込まれ、消えていく。そしてふと、自分が制服を着ていることに気付く。
それもまた、普段であれば当然であり、彼女も意識することすらしない。しかし、記憶を遡った彼女は、またしても強烈な違和感を憶えた。
確かに父の傍で目を閉じた時、華奈は一糸纏わぬ姿だった。心地良い疲れが全身を支配する中、汗ばんだ身体を父に抱きしめられながら眠ったのを憶えている。しかし今、まるで時間が遡ったように、皺のついていない制服を身に纏い、身体にべたつきも感じない。
もしかして、お父さんが拭いてくれて、寝かせてくれた?
華奈はその可能性を考え、信じられないながらも、それ以上に現実的な他の可能性が思い浮かばなかった。
程なくして華奈は、父の部屋の前に立つ。一つ呼吸を整えてから、意を決して扉を叩いた。そして、いつも通り返事のないことを確認して、華奈はゆっくりとドアノブに手を掛けた。
まるでなにか怖いものでもその先に待ち構えているかのように、華奈は無意識の内に息を殺し、恐る恐る扉を引いていく。
ゆっくりとその陰から父の部屋が見えてきて、やがて机に向かう父の横顔が見えた時、華奈は思わず安堵で肩を落とした。
「失礼します」
そう一言告げて、華奈は部屋へ足を踏み入れる。その瞬間、父の様子が思い浮かべていたものと違うという直感で、足が竦む。
パソコンに向かって何やら作業をしている父は、肩に力が入って、眉間に皺が寄っている。まるで、今朝の事が嘘のように、これまでの暴力的で、すぐに怒鳴るような、怖い父親がそこに座っていた。
「お父さん……?」
華奈は頭が混乱する。どうして、父はまた元に戻ってしまっているのだろう。もしかして、あの穏やかに愛してくれた父は、一時の気まぐれから来るようなものだったのだろうか。また、いつもの父に戻ってしまっているのだろうか。
華奈は胸がきつく締めあげられるような感覚を憶え、それを振り切るように父の元へ近付く。すると、足音に顔を華奈の方へ向けた父と、目が合った。
「起きたのか」
父は短くそう言うと、再び興味無さげに視線を元に戻した。だがその口元は、先程までよりも強く怒りを感じさせた。
華奈は、父が何に怒っているのか。それが理解出来ないまま、何か嫌な予感を胸に答える。
「はい。すみません、こんな時間まで……」
そう言われて、父は画面の右下にある時刻表示に目をやった。華奈を殺した後、自室に戻ってすることもなかったので仕事を始めたのが、つい10分前。それほど長い時間とも思わなかったが、しかし華奈が反省の色を見せている以上、それを否定する程の優しさは持ち合わせていない。
「本当だな。どうせすぐ動き出すんだから、次からはもっと早く起きてこい」
苛立ちを隠そうともせず、父は視界の端で立つ華奈に言った。
「それと、あの教師二人。もう二度とこの家に来ない様にしろよ。お前がもう二度と学校に行きたくないなら、別だがな」
そういって、疲れた首をぐるりと回す。
再び、重苦しい沈黙が満たされた部屋に、タイピングの音が不規則に鳴り出した。
用事はそれだけか。済んだらさっさと自分のやることをしろ。父はそう言おうと、再び華奈の方へ、次は身体ごと向き直ろうと、区切りの良い所まで資料作成を進めようとした、その時。先に口を開いたのは華奈の方だった。
「あ、あの。何のことですか?」
華奈は心の底から、父の発言が理解出来ない。といった顔で問いかける。画面から目を離さないまま、父は一瞬、驚きに目を見開いて、それから眉を大きく歪めた。
机を拳で叩いた衝撃で、置いてある金属製の灰皿が、軽い音を立てて揺れる。
「おい、もう一度言ってみろ」
液晶を見つめたまま、父は低く凄む。華奈はそんな反応を見て、何かが父の機嫌を大きく損ねたと気付いたが、しかし本当にどれだけ思考を巡らせても、それらしい心当たりがない。
そもそも、教師二人がこの家に来る、というのが理解出来ない。誰と、誰の事だろう。
もしかして、自分が寝ていた時に誰か来ていたのだろうか。ふとそんな考えが過り、そのまま確認してみる。
「あの、わたしが休んでいた間に、誰か来たんですか?」
その発言を受け、父は灰皿に置いていた煙草を咥え、大きく吹かす。
そして手を止めると、机の上へ置いてあったクリアファイルを手に持ち、椅子から立ち上がる。
華奈はそんな父の行動を受け、反射的に後ずさりする。なにか良からぬことが起きようとしていることを察知し、いち早くその場から逃げ出そうとする。しかしそれより早く近づいてきた父は、そのまま華奈の目の前まで近づく。そして、手に持っていたクリアファイルを乱暴に華奈の身体へ押し付ける。
「これを渡しに来たとか言って、勝手に家へ上がり込んでお前に会いに来たあいつらの事だ! まさかもう忘れたのか!」
それを押し付けられた華奈は、反射的にそれを受け取ろうと腕を前に回す。しかし父は尚も、華奈の胸にそれを押し付け、何度も突き飛ばす。
「忘れたとは言わせないぞ! 嘘を吐くにしてももう少しましな嘘を吐け! 俺を馬鹿にしてるのか!」
やがて華奈は後ろ向きによろめいて、その場に座り込む。父はそんな華奈の足元まで近寄ると、怒りに満ちた顔で見下した。
その視線に当てられ、華奈は恐怖を感じる。しかし一方で、本当に記憶のどこを探っても心当たりのないことで怒られているという不満も、感じていた。
「でも、わたしそんなの知らないです」
不服そうに目を逸らし、華奈はぽつりと呟く。普段なら絶対に不平不満を漏らさない華奈であったが、しかしつい眠る前まで父と愛し合ったという記憶が、彼女に若干ではあるが、気の緩みを齎した。
父は一瞬、身体の動きが停止する。そして次の瞬間、右足を後ろに引いたかと思うと、横に薙ぐようにして華奈の肩を蹴った。
「お前、誰に向かって口を利いてるんだ!」
勢い良く蹴られた方向に倒れた華奈は、骨まで響くような鈍痛に顔を顰め、そのまま小さく悲鳴を上げると、身を守るように横たわって蹲る。父はそんな姿を眼下に収めながら、荒い息を漏らしていた。
「す、すみません。お父さん」
痛みで呼吸も絶え絶えになりながら、華奈はそのまま蹲っていたいという欲に駆られたが、そんな状態では次に何をされるか分かったものではない。慌てて床に手を着いて上体を起こすと、その場に立ち上がりながら、父に謝った。
しかし、知らないことを責められたとて、華奈はどうすることも出来ない。迷った末、正直に父へ聞いてみることにした。
「あの、教えてください。わたしが寝ているときに、誰か来たんですか」
擦れる声を絞り出して、華奈は恐々と父に問う。一方、父はそんな華奈の反応に、何か引っかかるものを感じていた。
華奈は別に記憶力が悪いわけではない。むしろ、うっかり何かを忘れるという事で自分を怒らせるようなことはしたことがない。
父は、本当に何を言っているのか分からない。という様子の華奈を見つめ、どうも嘘をついているとか、誤魔化そうとしているような雰囲気は感じられなかった。
「お前も起きて、話してただろ。あの背が低いスーツの女と、長身の女だ。お前が学校を休んだから、心配して家に来たとか言ってたあいつらだよ。まさかもう忘れたのか?」
父は何かを確かめる様に、そう説明する。
華奈は、その説明を聞いて、恐らく担任の鯖江と、いつも図書室で一緒に過ごしている轟の事だと思った。だが、その二人が家に来た? それも、自分が対応していた?
「あの、わたしも話してた、んですよね」
「だから何度も言わせるな。そうだと言ってるだろ」
華奈が確認する。父は苛立ちを浮かべながら、それを肯定した。
わたしが話していた。その二人と?
華奈は頭の中で混乱が広がった。担任の鯖江と、親しい轟が自分の家に来ていたという事実。そして、その二人と直接話していたという父の発言が、どうしても信じられない。自分が何を話していたのか、その記憶も全く思い当たらない。華奈はまるで記憶喪失にでもなったかのような恐れを抱いていた。
「お前が顔にガーゼを貼って登校してたから、心配だとも言ってたな。そんな目立つことをしたら、何事かと不審がられることくらい分かるだろ」
父は手にしていた煙草を一口吸い、灰を落とすために一度机に戻る。華奈はそんな父からの暴力に依然として怯える一方、ガーゼを貼って登校して、確かに事情を訊かれそうになったのは思い出せていた。しかし、相変わらず記憶がない。まるで、自分が眠っている間に、自分の意思とは関係なく身体が動き、父の言う通りにその二人と会話でもしたとしか、考えられなかった。
「すみません……」
華奈は迷った末、自分がそのことをすっかり忘れてしまっているのだと結論付けた。きっと二人と会話もしたのだろうし、自分が起きている間に二人が来ていたのだろう。
押し付けられたクリアファイルにふと目を落とすと、その中には進路相談のアンケートが入っていた。きっと、それを届けに来ていたのだろう。
煙草を揉み消して戻ってきた父は、華奈を見つめて呆れた様に溜息を吐いた。
「お前、逆にどこまでなら覚えてるんだ?」
その言葉は、物覚えの悪い華奈を嘲る様な調子であった。華奈はそれに胸が締め付けられながら、何とか思い出そうとする。
「……お父さんと、一緒に寝たところです」
「お前——まだ朝方じゃないか。それから起きるまで、全部忘れてたのか?」
父は一瞬、思案するような顔を浮かべた後、すぐに元の語調に戻って嗤う。まるで、出来の悪いものを馬鹿にするような態度だった。華奈はそんな扱いを受けていることに対してとても不満を感じたが、しかし何も覚えていないのも、また確かである。結局口を噤んで、押し黙るしかなかった。
「じゃあ何か? お前は朝寝て、今起きてくるまでの丸々、全て忘れてるのか?」
含み笑いを浮かべ、父は問い詰める。華奈は恥ずかしさで耳が赤くなるのを感じ、口を堅く結んだまま、小さく頷いた。
「はっ、傑作だな。お前、どんだけ頭弱いんだよ。まだ嘘でも吐いてたって方が良かったんじゃないか?」
その言葉は、華奈の自尊心を強く傷つけた。これまで受けた暴力の方が、まだましと思える程度には。
そうして屈辱を味わい、言葉を失ったままそこに立ち尽くす華奈を見つめながら、父は内心では、この奇妙な現象に思案を巡らせていた。
父の推測では、華奈が死んで、こうして生き返った時、身体の傷はまるで巻き戻しを行う様に治癒する。そして記憶もまた、その巻き戻される時点の状態に戻ってしまうらしい。これが、華奈の記憶と自分の記憶に齟齬が生じている原因だと父は結論付けた。
そして、巻き戻される地点とは恐らく、華奈が最後に睡眠を取った時。
父は、ふと我に返る。そして何事も気付いていないように振る舞い始めた。この事実は、勿論華奈に隠しておく必要がある。少なくとも二度、父は華奈をこれまで殺害しているが、しかし華奈自身にその記憶がないのであれば、それは父にとってメリットだった。例えば、華奈が外部に助けを求めようと画策したところで、一度殺して記憶のリセットを行ってしまえば、それを防ぐことが出来るし、一日二日で治らないような怪我をさせてしまっても、一度殺してしまうことで、元の状態に戻すことが出来る。
さながら、ゲームのリセットボタンを押すが如く、便利に活用できると父は考えた。
「とにかく」
そんな父の声に、華奈は顔を上げる。父は新しい煙草に火を点けながら、こちらをじっと見据えていた。
「お前がどれだけの馬鹿かなんて俺には知ったことじゃないが、俺の言う事だけはしっかり聞いておけ。もうあんな連中を、勝手に俺の家に入れさせるな」
そう言われて、華奈は静かに首を縦に振る。すっかり自分の無力さ、そして記憶すら満足に保持できないと思わされている華奈は、無能さを嚙み締めた。
「もし今後、同じことがあったら俺がどうするか。分かるだろうな」
低く唸る父に、華奈は背筋が震えあがった。全身から嫌な汗が吹き出し、返事すら紡げない程の緊張が走る。
ゆっくりと近づいてきた父は、吸い込んだ煙草の煙を、まるで華奈との力関係を示すかのように、彼女の顔へ吹き付けた。
煙が目に沁み、そして屈辱を感じて顔を顰める。そして小さく咳き込んだ。心臓が高鳴り、屈辱に奥歯を噛み締める。
その様子を見下しながら、父は突然に声を和らげた。
「安心しろ。お前が俺の言うとおりにしてる内は、俺もお前を捨てたりしない」
その言葉が華奈の心に響く。依存の感情が次第に強くなる一方、彼女はその言葉に潜む恐怖も感じていた。しかし、父の信頼感もまた、同じくらい強く感じる。
父の言うとおりにしていたら、捨てられない。それは彼女にとって、この上なく安心出来ることだった。
「わ、わたし……頑張ります。頑張って、お父さんの役に立ちます」
様々な感情が入り乱れ、彼女は泣き出しそうな顔で父へ縋るように見上げる。その痛々しい姿勢に父は、口角を歪めた。目の奥には、冷淡な支配が爛々と光る。
「そうだ、お前は賢いな。俺は馬鹿じゃない。役に立つお前を捨てたりしないから、安心しろ。俺の望むことだけを考えていればいいんだ」
その言葉は、彼女の思考に刻まれる。父に従属すれば、愛してくれる。そう心から信じることで、彼女は自分の居場所を父の中に見出していた。
しかしその居場所は、明らかに健全なものではなかった。華奈に父が求めているのは、自分の意思や感情を無視したものであり、彼女が本当に欲している愛情とは似て非なるものだった。しかし彼女はそれに気付いていながら目を逸らし、ただ与えられた自分の役割に縋り付こうとしている。
次第に、彼女の心から、自分が何を感じているのか。自分が何を望んでいるのか。それが父という存在に希釈されていく。その存在が彼女にとって唯一安心できる場所となり、そこに足を捕られて逃げ出せなくなっていく。
次第に、華奈の目からは中学生らしい純粋さが消えていき、どんよりとした濁りを、そこに湛えていた。
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