第17話

 父が食事と風呂を済ませ、2階に上がるのを眺めながら、華奈は部屋の隅に置かれた、月曜日に廃棄予定の椅子に目をやる。

 昨日、申し訳なさそうに頭を下げてきた父に対して、まるで煽る様な事を言ってしまった後、父が怒りで壊してしまったらしい椅子。それを眺めていると、父の思い通りに動けなくなったら、自分も同じように捨てられるのかな。そんな考えをしてしまう。華奈は度重なる父からの暴力、暴言、そして記憶の巻き戻しがあったため、父との記憶に齟齬を生じているという事実から、自分自身への信頼も何も、感じられなくなっていた。

「嫌だな……」

 ぽつりと呟き、流し終えた皿を乾燥棚へ立てかける。その心には、捨てられたくないという、強い孤独への不安と、どうすれば父が、自分を有用だと認めてくれるかという渇望が渦巻いている。

 普段であれば、この後華奈も食事と入浴を済ませ、そのまま自室に籠って勉強に励むのが日課になっていた。それが華奈にとって、唯一心休まる時間だった。尤も、華奈にとっての娯楽と、それをしても怒られない普通の環境があれば、それほど勉強にのめり込むこともなかっただろうが。生憎、この家にはそのどちらも無い。

 だからペンを握って、無我夢中で知識を付けている間だけは、嫌なことから目を背けることが出来たのだが、こうなってしまえばそれすら、父に媚びていない時間に感じられた。

 もっと父に可愛がられなければ。

 もっと父に使ってもらわなければ。

 こんなわたしは、すぐに家から追い出される。そう思って、震え始めた手をなんとか動かして、最後の皿を棚へ突っ込んで、タオルで手を拭く。

 それから少し追い詰めた顔をして、華奈は小さく息を吸い込む。それから、決心して父の部屋へ向かうことにした。自室で気楽に勉強をするより、父に怒られるかもしれないが、自分の存在価値を示すため、階段を重い足取りで進んでいく。

「失礼します」

 ノックをした後、少しの間を開けて華奈は扉を開く。部屋の中では、父が相変わらず難しそうな顔を浮かべ、パソコンの画面を睨んでいた。その目は一瞬だけ華奈の方を向いたが、また元の向きへ戻っていく。

 音を立てないよう、丁寧に、ぎこちない動きで扉を閉め、再び父の方へ向く。これではまるで、自ら熊の巣穴に入ったが如き、自殺行為である。先ほどまでの決心は瞬く間に揺らぎ、まるで何か気の間違いだったかと思えるほど、恐怖で息が詰まる。

 すでに華奈は、これまでの仕打ちを経て、父の姿を見るだけで胸がストレスに詰まって、呼吸が上手く出来なくなっていた。まるで部屋の酸素が薄くなったかのように、どれだけ肩で息をしても、頭に靄がかかったようになる。

「あの、お父さん」

 華奈は無意識の内に視線を下へ向けてしまっていたが、それを無理矢理に父の方へ向ける。身体は恐怖を感じ、スカートの生地をきつく握りしめていたが、華奈は何とかそれを顔には出さず、柔らかな笑みを心掛ける。

 そうして絞り出した声は、しかし父の耳に届くことはない。いや、聞こえてはいるのだろう。しかし父は華奈の方を見ようとせず、ただ黙って液晶を見つめ続ける。まるで、話しかけるなと無言の圧力をかけているように。

 それが華奈にとっては苦痛だった。自分という存在は必要ないのだと、言外に示されている様な気持ちになる。すぐにまた俯き、その目にじんわりと涙が浮かぼうとしていた。

「あの……お父さ、ん」

 喉が震えるのを感じながら、もう一度父を呼ぶ。今度こそ父は大きく溜息を吐き、上体を椅子に預けた。そして目だけで華奈の方を向いた。

 その視線を感じた時、華奈は思わず心が温まるような気持ちを憶えた。父が反応を示してくれた。わたしの方を向いてくれた。そう思うと、先ほどまでとは違う涙が溢れそうになる。華奈はその父が再び液晶に向き直らない内にと、急いで言葉を紡いだ。

「あの、あのっ。わたし、何かお手伝いを……させて欲しいです」

 言葉が続くにつれ、弱々しくなりながらも、華奈は必死に自分の考えを伝えた。

「お父さんの、役に……立ちたい、です」

 言い終わった時、ぼやけていた視界が急に晴れ、目から一粒の涙が床へ垂れる。父はそんな様子の華奈をつまらなさそうに見つめていたが、やがて卓上の酒を手に取ると、それを一口飲んでから応える。

「例えば?」

 その言葉には、何の感情も含まれていなかった。ただ冷ややかに、期待も何も込められていない単調さで、父は尋ねる。

 華奈は、お前が役に立つなんて無理だ。などと父に一蹴されるかも、と気がかりであったため、喜んで顔を綻ばせる。しかし、嬉しそうに開いた口からは、何も次の言葉が出てこなかった。

 やがて視線を泳がせたかと思うと、少し何かを考える様に下をまた向き、沈黙が続く。その様子を見ていた父は、大きく溜息を吐いて、呆れた様に言った。

「お前な。そういう、その場凌ぎのご機嫌取りなんかしてる場合か?」

 酔って顔が赤らんだ父は、そういうと華奈の方へ椅子ごと向き直る。華奈はその声に肩を跳ねさせ、歯痒そうに顔を顰めた。

「そういうことを聞くんなら、せめて何か自分に出来ることの一つや二つ、考えてから来るもんだろ。それとも、俺が丁度助けを求めてそうだと思ったか?」

 父は苛立ちを感じ始める。この娘は、どこまで行っても受動的で、積極性が感じられない。ただ何も考えず、媚びを売りに来たとしか思えなかった。その態度が、父にとっては腹立たしい。

 小さく舌打ちをして、父は机の上にある煙草を手に取ると、その内の一本を口に咥える。そしてライターを探すように、机の上へ視線を走らせた。しかし、先ほどまでそこに置いてあったはずのそれが、どこにも見当たらない。

 そうして父は、ズボンのポケットを手で押さえたり、辺りを見渡すが、どこにもそれが見当たらない。

「……アックス」

 そう小さく呟くと、机の足元に置いてある犬用のベッドで寝ていたアックスが耳を立て、尻尾を小さく振る。やがて、父と目が合うとその場で立ち上がり、傍へ近寄ってきた。その大きな身体が動くたび、華奈は反射的に身構え、恐怖を隠しきれない様子で一挙手一投足を見つめる。

 父はアックスが離れたベッドを見て、やはりそこにもないことを確認した。

「無いな。すまんアックス。戻っていいぞ」

 その言葉が理解出来ているかのように、アックスは軽く身体を震わせると、再びもといた場所へ戻る。それから、ようやく父が口を開いた。

「おい、華奈」

 ずっとアックスの方ばかりを警戒して見つめていた彼女は、突然名前を呼ばれたことで心臓がひやりと冷たくなる。そして、慌てて父を見つめた。

「ライターがどこかにいった」

 煙草を唇から離した父は、腹立たしそうにそう告げる。しかし華奈は、その言葉を受け、伺う様に父の次に発される言葉を待っている。

 それから、華奈も同じようにその場から動かず、父の辺りを見渡し始めた。

 数秒の沈黙の後、父は思わず、火を着ける前の煙草を握りしめた。手の中で微かな抵抗を感じて、それが二つに折れる。

「取ってこいって言ってるんだ。お前は馬鹿なのか?」

 アックスを驚かせない様に、父は怒りに満ちた声を喉から絞り出す。華奈はその言葉を受け、ようやく気付いた様子で足を動かすと、慌ててドアノブに手を掛ける。そして開け放つと、転がるようにして部屋を出た。

 そのまま、階段を駆け下りる騒々しい音を感じながら、父は一つ溜息を吐いて、手を開く。もう吸えなくなってしまった煙草を不愉快そうに見つめ、それをごみ箱へ捨てる。

 程無くして、息を切らしながら戻ってきた華奈は、泣きそうな顔で父の元へ近づくと、手に持ったそれを差し出した。

「すみません、お待たせ、しました」

 しかし父は手を伸ばそうとせず、その代わりに冷酷さが宿る目で、華奈を睨みつける。

「遅いんだよ」

 その言葉は棘のように、華奈の心に鋭く刺さった。咄嗟に視線を足元へ移し、緊張が走る。また何かされるのでは。という予想が、再び呼吸を妨げた。

「すみません……本当にすみません」

 消え入るような声で謝罪を繰り返し、華奈はその場に立ち尽くた。父はそんな彼女から乱暴に引っ手繰ったライターで煙草に火を着け、煙を深く吸い込む。静まり返った部屋に、火が燃え進む僅かな音が立つ。煙が筋になって揺らぎながら立ち上る中、華奈は相変わらず、眉を顰めて、自分が未だ父の役に立てていないことを痛感していた。

 こんな、物を一つ取ってくることすら、父の怒りを買わずに済ませられない自分が、とても情けなく感じられる。これでは父の役に立とうと動く傍から、父にとって必要のない存在であることが露呈していくような気がして、焦燥に駆られる。

「泣きそうな顔するな。鬱陶しい。同情を買うことが目的か」

 煙草の灰を灰皿に落とし、父は苛立たしげに吐き捨てた。その言葉に父を見た華奈は、しかしまたすぐに床へ向き直る。一瞬だけであっても、華奈は父と視線を合わせることにとてつもない抵抗を感じていた。きっと、今は父に何か言っても無駄だと感じられる。しかし、それでも自分がまた無視されたり、役立たずだと思われて見捨てられることの可能性が、強く華奈の恐怖心を煽る。何とか口を開き、必死で父の目を引こうと努力する。

「あの、お父さん」

「なんだ」

「何か、他にお手伝いできることは……」

 口籠るようにそう言いながら、華奈は必死に鼓動を落ち着かせようとする。役に立たないと。役に立たないと。繰り返し、頭の中で自分の声が叫ぶ。

「他に?」

 父はしかし、嘲る様に口の端を吊り上げ、鼻で笑った。

「お前なんかに、他に何が出来るんだ? 教えてくれよ」

 その冷たい発言には、華奈への期待が微塵も存在していないことを告げていた。

「わたし……は」

 必死に続きを紡ごうとするが、しかし何も言葉が出てこない。自分はもしかして、もう父にとって用済みだろうか。役立たずだろうか。一度抱いた疑念は、次の瞬間には惨めさとなって膨れ上がっていた。

 もしかして、わたしは何も出来ないのでは。

「何か、何でも……」

 華奈はまた、劣等感に苛まれ、涙を溢す。次から次へと、止めどなく溢れる涙を頬から床へ落としながら、必死に父の目を見つめた。

「お父さんの、お役に立ちたいです」

 その顔を見た父は、胸の奥でより強く、この娘を自分の物にしたいという支配欲が沸き上がった。

「そうか。お前はそうまでして、俺に必要とされたいのか」

 椅子から腰を浮かせた父は、そのまま華奈の前へ立つ。そして、また怯えた様に立ち尽くし、微かに声を漏らしながらしゃくり上げて泣き続ける華奈の頭に手を置いた。

 そして顔を耳に近付ける。

「役立たずって思われて、棄てられるのが怖いもんな」

 挑発するかのようにそう言って、父は華奈の頭を抑える。まるで上下関係を今再び示すようにそうされて、華奈は首を上げられない。しかし力を込めて抵抗することは、父に対して逆らうことと同義だと考え、無抵抗のまま、父にされるがままになる。

 父はそのまま、乱暴に華奈の頭を撫でる様に動かす。

「俺に棄てられたら、お前はもう行き場を失うもんな。誰も、お前みたいに何もできない、物覚えすら悪い奴を食わせるなんて、したくないもんな」

 それとも。父はそう言って続ける。

「誰かお前を必要としてるやつがいる。なんて勘違いしてないか?」

 心臓を握られたような寒気が、華奈を襲う。父はそのまま、言葉で華奈をなじる。

「いいか。お前は誰にも必要とされてないんだ。だからこの家で、俺が匿ってやってるんだろ? 今日来てた教師も、本当にお前の事が大切で、お前を救いたいなら、有無を言わさず連れて行けば良かったのに、それをしなかった。どうしてか分かるか?」

 華奈に言葉を返す間を与えず、父は責め立てる。

「お前なんかより、自分の人生の方が大事だからだよ。分かるか。お前がどうなろうと、誰も気にも留めないんだ。だからお前は、教師からも、誰からも救われないんだ。俺がこうして家に置いてやってるのも、お前が役に立つと思ってたからだ。だがどうだ? 最近のお前は、俺に迷惑をかけてばっかりで、役に立ったことなんて、一つもないだろ?」

 とうとう華奈はしゃくり上げ始め、更に大粒の涙を流す。父の一言が発される度、丁寧に存在価値を否定され続ける。

「こうなったら、俺がお前を家から追い出すのも、時間の問題かもな」

 その言葉がとどめになった。父が頭から手を離すと、華奈はすぐ背中まで迫ってきている本能的な恐怖から逃れるかのように、父へ縋りついた。

「お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、役に立ちますから、頑張りますから、捨てないでください! わたし、お父さんに見捨てられたら、どうしたらいいか……」

 父の言葉に当てられ、華奈は轟と鯖江に対する不信を募らせた。そして、ますます目の前にいる悪魔のような父が、華奈にとっては唯一の救いに映っていた。父は、彼女の目に、暗く依存の光が宿るのを満足そうに見つめた。

 そして小さな体躯が自分を求めて縋りついているのを感じ、支配欲が満たされていく。勝利を確信したかのような満足感が、心を潤わせていた。

「他の奴らは、お前を見捨てるだけだ。じゃあ、誰の事を一番に考えたらいいか、お前の足りない頭でも考えたら分かるよな?」

 華奈は喉の渇きに苦しむ人が水を欲するように、本能を剥き出しにした表情で父に訴える。

「お父さんです、お父さんだけ、わたしを助けてくれるから、お父さんのことだけ考えます」

 口を開け、苦しそうに喘ぐ。父はそんな華奈を、細めた目でしばらく見つめていたが、やがて口を開く。

「じゃあ、俺の役に立つ機会を与えてやるよ」

 そういって、父は離れようとしない華奈の温い体温を感じながら、横目にアックスを見た。

「あいつ、最近毛が絡まっててな。可哀想だろ?」

 華奈はそう言われ、父の目線の先を見る。落ち着いた様子で身体を丸め、しかしこちらを伺う様に見つめているアックスは、じっと華奈の目を見据えていた。その目は鋭く、近付くだけで噛みつかれそうな威圧感を感じる。

 嫌な予感を感じる華奈に、父は言い放った。

「あいつのブラッシングをしてやれ。分かったな?」

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