第18話

 華奈は手渡されたブラシに目をやる。いつも父がアックスにしてあげているのだろう。掃除し切れていない毛が数本、根元の方に絡みついていた。

「アックス、行くぞ」

 父が腕を振りかぶると、アックスは顔を床に伏せ、尻を突き出して待ち構える。そして、父が放り投げた餌に向かって飛びついたかと思うと、そのまま空中で口の中へ捉え、大きな音を立てて床に着地する。そして味わうこともせず、殆ど丸呑みしてしまう様を父は優しそうな目で見つめていた。

 その面持ちは、普段華奈が向けられている様な鋭い目ではない。まるで、我が子を愛おしそうに見つめる父の顔。そのものだった。

 華奈は胸が苦しくなる。自分は母の代用品が如く扱われるのが精一杯。それでも父が可愛がってくれるなら。と自分を納得させて、身体を許したものの、こうして本来なら自分にも向けられている筈の目を、こうも見せつけられる。これまでは、そんな父の穏やかに微笑む姿に、何の感情も抱かなかった華奈だったが、父に対して愛されたいと願い、自分で自分の存在価値が分からなくなってきた今。まるで身を切られたかのように、心が痛んだ。

 嫉妬していたのだ。

「アックス、お前は本当に利口だな」

 そう言った父は、華奈の方を見ようともしない。それはいつものように、華奈へ劣等感を抱かせるための発言ではなく、純粋に愛犬であるアックスを讃えるようなものだった。しかし、それに目敏く気付いてしまった華奈は、余計に胸が締め付けられる。

 これならまだ、比較されて罵られた方が良かったかもしれない。そう思って、ブラシを握りしめた。

「あ、アックス」

 もう一粒おやつを貰って、嬉しそうに尻尾を振りながら父の方を見つめるアックスに、華奈はその場から動かず一言声をかける。すると、アックスは態度を瞬く間に変え、華奈の方に顔を向けた。

 犬は尻尾の動きが、感情を表しているという。その尻尾は今や、先ほどまでのように嬉しそうな振り方から、右へ左へ振り回すようなものへ変わっていた。手足を伸ばし、唸りはしないまでも、歯を僅かに口の隙間から剥き出して、じっと華奈の動きに目をやる。その様はどれほど華奈を警戒して、そして敵視しているのか、言わずもがなである。

「おい」

 横から父の声がする。華奈はその方向を向くと、椅子に座った父が煙草の煙を燻らせながら、こちらを不愉快そうに見ていた。

「アックスが怯えてるだろ。お前がそうやって怖がると、こいつにもそれが伝わるんだから、気を付けろ」

 自分の大切にしている存在にストレスを与えるな。と言いたげな様子の父に、華奈は小さく謝罪の言葉を口にする。内心では、普段からアックスを自分に嗾けているというのに、怯えない方が不自然だと思ってしまうが、すぐにその反抗的な考えを振り払う。

 そうして、未だ収まらぬ恐怖心を抱えながら、華奈はゆっくりとアックスに向かって、一歩を踏み出した。普段、生活していても、華奈の方からこの様にアックスへ近付くことはない。彼自身も利口で、父の命令がなければ華奈へ噛みつくことは決してないように調教されてはいるのだが、華奈にとってはそんな躾など、普段からされていることや、鎖に繋がれていないという事実と比べてみれば、毛程の安心感にも繋がらなかった。

 だからこうしてブラッシングをするのは、この家で数少ない、華奈が出来ない仕事のひとつだった。

 事実。

「ゥウウ——」

 アックスは近づこうとした華奈に、それ以上近づくなと言わんばかりに唸り声を上げ始める。まるで見えない境界線がそこにあるかのように、華奈は慌てて踏み出した一歩を下げる。するとアックスもまた、その唸り声を止めた。

 代わりに父が口を開く。その目元は笑みを浮かべていたが、それは先程までとは毛色の違うものだった。まるで、華奈が怯えていることを愉しむように、軽く肩を竦める。

「何をしてるんだ、お前は。さっさとやれ」

 そうして、味わう様にゆっくりと煙を吐き出す。塊のそれは空気と混じり合い、ゆっくりと霧消していく。父は自らの嗜虐心が満たされているのを感じ、口元を微かに歪めた。

 彼女は返事をする余裕すらなくなり、歯を固く食いしばる。父がアックスに怯える自分を見て悦んでいることに気付きながら、しかしそれを口に出すことなど、到底出来ない。覚悟を決めた様にひとつ息を吸い込むと、そのまま再び一歩を踏み出した。その振る舞いは、先程までよりも堂々としたものだったが、しかしアックスは華奈の恐怖心に共鳴して、唸っているばかりではない。

 父が華奈にそうしているように、アックスもまた、華奈に対して敵対的な感情を持っていた。それは飼い主である、つまり自分よりも上の立場であると認めた父が敵視しているから、という動物ならではの本能に基づくものであった。

 背筋を凍らせるような唸り声が、再び口元から発される。今にもこちらへ飛び掛かってきそうなその姿に、彼女は本能的な忌避感を憶えたが、いつまでもこうしていられない。折角、父が与えてくれた仕事なのだ。これを出来なければ、華奈はまた父にひとつ見限られ、役立たずの烙印まで歩を進めることになる。

 それだけは避けたい。そう心の中で叫び、半ば投げやりな気持ちで、歩みを進めた。

 そうして気が付くと、華奈は背中にびっしょりと汗をかきながら、しかしアックスのすぐ近くまで来ることが出来ていた。

 唸り声はすでに上げられていないが、その顔は正確に華奈の顔を見つめている。華奈もまた、こちらを睨んでくるアックスを見下ろすようにその場へ立ち、手に握りしめていたブラシを、ゆっくりと突き出す。

 これなら、上手く出来るかもしれない。華奈はそこで初めて、アックスに対してどこか、僅かではあるが心が開けたような気持ちになる。これまでずっと近づくことすら許されなかった彼女にとって、伸ばせば手が届く位置にアックスがいる、というのは、なけなしの勇気を齎した。

 それが命取りだった。

「ワンッ!」

 突然。

 アックスが鋭く吠えた。

 その瞬間、華奈の心臓は自分自身で感じられるほどの強烈な鼓動を打ち始め、一瞬にして全身が硬直した。結果的に、自分に向かって噛みついてきてはいなかったものの、その吠え声だけで、これ以上何もするなという明確な警告が伝わってきた。

 父に向けられるものとは違う、より強く命の危険を感じさせる恐怖。華奈はそうして身体が凍り付いたまま、何も出来なくなってしまう。もう一度、ブラシをアックスの方へ向けようと思考するが、それすら気取られてしまうのだろう。アックスはぴくりと、鋭い犬歯を剥き出しにした。このままでは、手を伸ばした瞬間、良くて手や足。最悪の場合、喉笛に噛みつかれてしまうのでは。そんな恐怖で頭が支配される。

 父が椅子を引く音がして、彼女は目だけでそちらを見た。父はひと吸いしてから煙草を揉み消し、呆れた顔でこちらを見つめていた。

「お前には、これすら無理なんだな」

 期待の色が込められていないその言葉は、華奈の胸を深く抉った。

 咄嗟に、彼女は父に向かって叫んだ。

「出来ます……出来ますから……!」

 父に見捨てられそうになると、華奈は全身が炙られたような焦燥感に駆られる。震える手を何とか持ち上げ、狙いを定めて、アックスの背中にブラシを当てた。しかし、その一瞬でアックスがより威嚇を込めてこちらを睨みつけてきたのを感じ、またしても動きが鈍る。だが、それを押し隠し、無理矢理に手を動かそうとした。

 その時、アックスがほんの一瞬。父に向かって助けを求める様に視線を送ったのを、彼女は視界の端に感じた。父はそれに気付くと、華奈に気付かれないよう、僅かに頷いて目配せをする。

 許可が下りたのだ。

 アックスは迷うことなく、華奈の右手に歯を立てた。

「——っ」

 しかし、アックスは狂犬ではない。警察犬として採用される程、頭の良い犬種である。力加減は心得ており、今回は華奈の手に歯こそ立てたが、しかしそれが肉を食い破らない程度の力ではあった。精密な力加減は、アックスにしてみればお手の物である。しかし計算が及ばなかったのは、華奈がその瞬間、力強くアックスの口から手を引くことであった。

 犬や猫、爬虫類や魚に至るまで、動物の牙というのは殆ど、引っ張られた時に傷がつきやすい構造をしている。それは今回の様に、逃れようと暴れたものを咬み続けておく必要があったための進化と考えられているが、正に華奈は自ら傷をつけてしまったのだ。

 一度皮膚に裂け目を生じさせた歯は、そのままであれば線を引くように裂傷を引き起こしていただろう。アックスは咄嗟に口を開け、華奈の手に意図しない傷が出来るのを防いだが、しかしそれでも。

 手を見た華奈は、アックスの歯形が残り、そこから球のように血が滲み出してくるのを見ていた。

 息を呑む華奈の横で、父はその様子を冷たく見降ろしていた。そして、彼女の傷などは些細なことであると言わんばかりの無関心な目を向ける。

「自業自得だな」

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