第19話
小指球の辺りから、依然として血が滲んでいた。華奈は父に投げて渡されたティッシュ箱を手繰り寄せ、まずは血がアックスに付かない様にする。そして、左手で傷口を押さえながら、再びブラシを握り直した。その間、アックスは不満げな表情を崩さず、華奈の方を静かに睨んでいた。
しかし、ふと父の方を見つめると、彼は口を結んで、腕組みをしている。その静観するような態度に、アックスも落ち着きを取り戻すと、我慢するように顔を床へ伏せた。
華奈は、脈の度に疼く痛みを感じ、顔を顰める。握りしめたブラシに視線を向け、また噛まれるのでは。次はもっと強く傷をつけられるのでは。という不安が募る。しかし、父に見捨てられることも避けたい。小さく息を整える。
「すみません。次は、もう、大丈夫です」
言い聞かすように呟き、恐怖と痛みで震える手を無理矢理に動かして、慎重にアックスの背中を狙った。
固い毛に、ブラシがそっと乗る。アックスは、やはり華奈の恐怖心に共鳴するかのように身体をびくつかせたが、父がまだ耐えろと言わんばかりに黙っているのを見ると、すぐに上げた顔を伏せる。華奈もまた、その様子を見て安堵の溜息を吐くと、震えながら、何とか動作を続けた。
少しずつ、少しずつ。ブラシが毛の流れに沿って動かされる度、換毛期の身体からは大量の抜け毛が絡め取られる。
その大きな背中を整える内、ようやく華奈にも少しの安心が動きとして現れる。
華奈は、やがて手の痛みを忘れる程、それに集中していた。抜け毛と新しい毛が混在して、少し清潔感を失っていたアックスの身体は、ブラシをかけていったところから段々と毛並みが整い始め、徐々に元の凛々しい姿を取り戻していく。
時々、ちらりと父の方へ目を向けると、彼もまた、そんなアックスの姿を喜ばしく見つめながら、パソコンに向かい合っていた。華奈はそれを見て、自分が少なからず、役に立てていると知る。
ブラシに絡みついた毛を取っては丸め、傍に置いておく。ごっそりとした毛が、手の中へ次々と積み重なっていく。
アックスはその間も、華奈の動きに対して警戒心を隠そうとはせず、少しでもブラシが皮膚に当たると、その度に毛を逆立てた。それはアックス自身の怯えから来る反応であったが、彼女もそれに怯みつつ、少しでも安心させようと心の中で呟く。慎重に、毛の流れに逆らわない様に、そして絡んで毛玉になった部分を無理に引っ張らない様に細心の注意を払いながら、ブラシを滑らせる。
これまで、父に見せつけられたアックスの気象を思い出しながら、少しずつ、少しずつ、ブラッシングを進めていく。その内、アックスの背中が落ち着きを取り戻し、心地良さそうに目を細めるのを認めると、ようやく華奈も冷や汗を手で拭い、心を落ち着かせることが出来た。
やがて、長い時間をかけて、背中の毛が綺麗に整えられたのを見て、華奈は胸を撫で下ろした。アックスも不満そうに華奈を見つめていたが、不快感だけを感じていたわけではないらしい。少しだけ気を緩めたのか、それとも役に立つと思われただけなのか。伏せたまま、視線を反らしていた。
その時、父が低く溜息を漏らして、口を開いた。
「まあ、お前にしては良くやったんじゃないか」
何気なくそう言うと、肩こりを解す様に首を回す。
だが華奈は、父の反応とは対照的に、とても喜ばしさを感じていた。普段、華奈が成績で優秀な順位を示そうと、父の好物を作ろうと、一切何の興味も示さない。その彼が、今、華奈の事を明確に褒めた。普段どれほどの仕打ちを受けていようと、こうして一度父に褒められてしまえば、心臓が高鳴るのを感じる。顔が耳まで熱くなり、妙な照れ臭さと、素直な喜びが交じり合う。
「あ、ありがとうございます……」
気恥ずかしさを感じ、華奈はアックスの傍へ屈みこんだまま、顔を伏せる。その様子を見た父は、しかし次の瞬間にはまたいつもの語調へ戻っていた。
「ただ、時間がかかりすぎだな。まだ腹や手はやってないだろ」
その言葉に、華奈はどきりとする。その部位を忘れていたわけではない。むしろ、全身にブラシを掛けなければならないと、分かってはいた。
しかし、背中と違い、腹や手足を触られて嫌がる犬は多い。アックスもその例に漏れないことは、華奈も知っていた。だから、あえて知らぬふりをしたのだ。
父はアックスに視線を向けた。
「まあ、後は俺がやるから置いておけ」
その言葉に、華奈は胸を撫で下ろした。自分の怠慢だと思われてしまえば、また何をされるか分からなかった。それを父自ら買って出ようとしてくれている。華奈は自分の中で父に対する忠義のようなものが膨らむのを感じた。
元はと言えば、警戒されている彼女に、無理を言う形で当てがった仕事である。それを免除されたくらいで揺らいでしまう程、華奈は父に陶酔していた。
そうせざるを得ない程、華奈はこの家で追い込まれ、蝕まれていた。
「ありがとうございます」
華奈は小さく礼を告げる。しかし父は、そんな様子を見て、言葉を付け足した。
「勘違いするな。お前がこれ以上アックスの嫌がる部分に触れたら、こいつが可哀想だろ」
そうしてアックスを見る視線は、またしても家族に向ける暖かいものだった。華奈は、それが自分には向けられたことがないことを思い、再び心が重く沈んでいく。
「あの、後は何かわたしに……」
そう呟いた華奈の言葉に対し、父は鬱陶しそうに顔を顰める。そして、苛立ちの込められた声で遮った。
「あのな、俺も暇じゃないんだ。お前がどうすればいいか、自分で考えて動け。いちいち人に聞きやがって。お前みたいに時間を持て余してるんじゃないんだ。それくらい分かるだろ」
つい先程までの父はどこへやら。またいつものように腹を立てている、恐ろしい表情となって、そう言った。華奈はそれを受け、踏み込みすぎたと思った。ただその場に立ち、父から発される矢の如し言葉を受け、黙っている。
「……すみません」
折角お父さんの役に立とうとしたのに。どうしてわたしはまた、怒られてしまっているのだろう。華奈は自分が父に対して、何か役に立ちたい、助けになりたいという気持ちを抱いても、こうして裏目に出てしまう悔しさに、涙を浮かべた。
もっと父に求められたい。もっと愛されたい。そう思って行動しても、結局全部無駄になってしまう。
ブラシを胸の前で抱えるようにして、華奈は小さく鼻を啜ると、袖で涙を拭った。そうして喉をしゃくり上げながら、部屋を後に——。
「そうだ」
父は華奈を呼び留める。背中越しにでも分かるほど、傷心している華奈に対し、しかし父は毛程も興味を示さない。まるで、華奈が喜んでいようと傷ついていようと、お構いなしだと言った様子である。
「一つだけあった。お前、煙草買ってこい」
それ故、華奈では当然それを遂行できないことなども、父は意に介さない様子だった。
靴を履いて玄関から外へ出る。軽く雨でも降ったのだろうか。濡れた芝生と石畳を見ながら、どうして今日は特に冷え込んでいるのか、すぐに合点がいく。10月の初めだというのに、今年は嫌に気温が低い。とても今の華奈がしている様な服装——冬服のブレザーとスカート、黒のストッキングだけでは、乗り切れない寒さであった。
しかし、華奈に防寒着は無い。私服すら数える位しかなく、普段はいっその事と、制服やジャージで過ごしている位である。当然、上から羽織るコートなどなく、そのまま諦めて一歩を踏み出した。
氷でも触っているかのように冷たくなった門扉をゆっくりと閉め、手に着いた水滴を地面へ払う。それだけでまた一段と指先が凍え、じんじんとした痛みを感じた。夜の通りはとても冷え、時々ヘッドライトを明るく灯した車が、静かな通りを走っていく。それを追う様に周りを見渡せば、家々の明かりも殆どが消え、町はもうすっかり夜の静寂に包まれていた。
ふと、思い出したように心へ不安が募る。こんな寒い中、人通りも少なくなった夜道を一人で、中学生の少女が制服を着て歩く。それがどれほど危険で、心細いか。足取りが無意識の内に速くなった。ブレザーとシャツの隙間を縫うようにして夜風が入り込み、後ろで二つにくくった髪の毛も、ふわりと持ち上げる。肩を抱いて、恐怖心で押しつぶされそうな身体を抱き寄せる。
早く買って帰らないと。
焦燥感に駆られ、コンビニへと急ぐ。途中、街灯の傍でバスでも待っているのだろうか。背の高い男性とすれ違う時、得体の知れない恐怖を感じて、距離を取るようにして過ぎ去る。その男性も、こんな時間に制服を着た少女が一人で歩いている事への異様さに、腕時計で時刻を確かめる。足早に自分の方を歩き去る彼女は、どう見てもこの夜更けに不釣り合いだった。
華奈は、身体が小刻みに震えだす。身体の表面ではなく、芯から冷えているように、逃れられない寒さに身が凍えている。思わず一度、家に戻って防寒着を借りることを考えたが、その行為自体が父の怒りを買うだろうし、それに時間も無駄になる。父に頼られたい、役に立ちたいという思いが強く、父の期待をこれ以上裏切るのは避けたかった。
ふと前を見つめ、信号を超えて右に曲がった先に見える、コンビニの明かり。それを想像し、震える息を何とか吐く。濡れて冷えたアスファルトから冷気が広がり、それがスカートの中にまで入り込む。ぽつぽつと灯る街灯の下を通り過ぎる度、もしも今、自分の事を攫おうとする人がいたら。すぐ後ろまで、危害を加えようと誰かが近づいていたら。そんな妄想が勝手に広がり、背筋がぞくりとする。
どこまでも冷え込む夜道。また一台の車が華奈の傍を、後ろから追い越すようにして走り去る。濡れたアスファルトをタイヤが転がる音は、ゆっくりと遠くなっていった。
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