第20話

 そのまま無我夢中で、永遠に思われる道を歩いていた華奈は、気が付けば蛍光灯の明かりが自分を照らしていることに気付いた。目的地のコンビニの傍を通り過ぎようとしていたことに気付き、慌てて引き返すと、敷地へ入る。

 色々と嫌な妄想が頭の中を巡り、それに背筋を震わせていた間に、どうやら意外とあっさり、到着していたらしい。

 人気の少ない店内をガラス越しに見つめ、自動ドアの前に立つ。それは軽いモーター音を立てて開き、店内放送で賑やかな空間へ、華奈を誘い込む。暖かい空気に身体が包まれるが、それすらも居心地が悪い。寄り道せず、一直線にレジの前へ向かうと、棚の煙草に目を走らせる。図書室の本棚よろしく、カラフルな箱が並ぶ棚のなかで、父のいつも吸っている煙草が目に入る。店内に客は少ない。店員と目が合うと、胸が緊張で苦しくなる。

「すみません」

 意を決してレジの前に立つ。カウンターは華奈にとっては少し高く、店員はその向こう側から、何か困っている中学生かと、心配そうに華奈を見つめる。しかし、次の言葉を聞いて、心配が一気に警戒へと変わった。

「72番、ひとつ下さい」

 あまり初対面の人間と話すことに慣れていない彼女は、絞り出すように声を出した。一方、店員は眉間に皺を寄せ、一瞬、厳しい表情になった。年は20代。大学生くらいの彼は、すぐにもう一度、彼女の姿を見つめ直す。

 夜のコンビニで、どうみても制服姿の中学生が煙草を買おうとする姿は、何度見ても変わらない。年齢確認でもしてみようか。と思うが、すぐに、そんなことをする必要すらない様に思える程、誰がどう見ても、未成年である。こんな時間に外を出歩いている事自体、そもそも問題だ。

 華奈は怪訝そうにこちらを見つめる店員の視線を感じ、やはりそうか。と冷静に納得しつつも、売ってもらえないと分かっていながら頼むことしかできない自分に歯がゆさを感じる。

 それはやがて、羞恥心へと変わった。緊張で耳まで赤くなるのを感じ、冷えた身体が今度は熱を持つ。緊張で汗が背中へ滲む。

 やがて、店員は少しの間を置いて、華奈との視線を合わすようにして膝を曲げた。

「ごめんね。君、中学生でしょ? 煙草は売っちゃいけないって言われてるんだ」

 平静を装い、華奈は店員と一瞬、目を合わせる。しかしすぐに気まずさから視線を外し、小さく頷いた。どうして自分はこんな無謀としか思えないことをしているのだろうか。きっと変わった客だと思われているだろう。そう考えると、もう恥ずかしさで一刻も早くここから逃げ出したくなる。そして同時に、父の顔がちらつく。またあの期待を裏切ってしまった時の、落胆した目で見られ、罵られることを考えると、気持ちがどんどん濁っていく。もしかしたら、また殴られるかもしれない。結局、父がどれだけ華奈に対して一時の愛情を注ごうと、それが気の迷いのようなものだと、どこかで理解していた。

 一瞬、父の事を伝え、同情でも買おうか。と思考が巡ったが、それもすぐに諦める。もしそんなことをして、警察に通報でもされてしまえば、華奈は一時的にはこんな目に遭わなくてよくなるかもしれない。しかし、華奈は父と一緒に居たいとすら思い始めていた。見捨てられない様に気を付けて、庇護下に置いてもらわなければ。そんな損得勘定が、またしても助けを求めようとする華奈の思考を中断させた。

 どうしようか。いよいよ途方に暮れた時、ふと店内の明かりが遮られる気配がした。カウンターに影が差し込み、反射的に顔を上げる。振り返った先に居たのは——轟だった。

 彼女は不意に現れ、華奈の様子を後ろから覗き込むようにして、黙って見つめている。店員を含めた三人の間に、長い沈黙が訪れた後、轟は無表情で店員に顔を向けた。

「あの、わたしが保護者です。煙草、いくらですか」

 店員は轟と華奈の顔を交互に見つめる。片や、無表情と不規則にパーマがかった、自分より少し年上くらいの女性。そして、制服の中学生。一体どういう保護者なのか、続柄が計り知れなかったが、しかし成人が煙草を買おうとしているのを止める程の正義感は、彼にはなかった。

 面倒事を避ける為、彼は後ろを向いて棚に手を伸ばす。それと同時に、華奈は改めて後ろに立つ轟を見る。

「あの、轟せ」

「華奈。後でね」

 先生。と続けようとしたところで、華奈は轟に言葉を遮られる。そのまま前に歩み出た轟は、店員に千円札を差し出した。

「これで、お願いします」

 女性でありながら、自分より身長の大きい彼女に圧倒されながら、店員はそれを受け取る。レジのボタンを数回押し、釣銭を渡した。

「ありがとうございます」

 店員がそう言って煙草を差し出す。轟はそれを受け取ると、ぎこちなく会釈をした後、出口に向かって進む。華奈もまた、その後を追った。

 外に出ると、寒さが一層華奈の身に染みた。肩を竦めながら、轟に従って歩く。しかし、胸中穏やかではなかった。どうして轟は自分を助けるようなことを下のだろう。その理由が気になる気持ちと、轟の真意を測りかねる気持ち。そして、父が言っていた、自分には存在しない記憶についても気がかりである。

「寒い、ね」

 轟がぽつりと、振り向きながら呟いた。その表情は、何か言いたそうにしていた。しかし彼女は口を閉ざした。ポケットの中に手を入れると、近くの車が電子音を立て、ロックが解除される。

「取り敢えず、乗ったら?」

 華奈はそんな轟を見つめ、首を横に振った。

「いえ、早く帰らないといけないので。すみません」

 それよりも、流れで轟が購入した煙草こそ、彼女が求めているものだった。それをどのようにして伝えようか思案していると、轟は困ったように顔を僅かに顰めた。

「深夜徘徊している生徒を、このまま見過ごす訳にもいかないから。乗って。……くれると、助かるかな」

 慣れないながらも、精一杯おどけて、轟は車へ歩き出した。その内心では、華奈がこの程度の説得に応じる程、単純で利口な性格ではないと、夕方の訪問で理解してはいた。そのため、轟もどうするべきか、とても悩んでいたが、しかし後ろから自分を追いかける足音を聞き、少し安心する。

「どうぞ」

 助手席の扉を開け、華奈を中に招待する。そして乗り込んだのを確認して扉を閉め、自らも運転席へ座る。

 沈黙が車内を埋める中、轟はすぐにボタンを押してエンジンをかける。とても軽く車内に始動音が響き、メーターやコンソールが光り出す。ファンから吹き抜ける暖かい空気が華奈の全身に当たり、悴んだ手をゆっくりと温めていく。

「とりあえず、これ」

 轟はそう言って、隣に座る華奈へ煙草を差し出す。華奈は驚き、そして安心した。これで、目的の物は手に入った。

 それを受け取り、華奈も財布から慌ててお金を取り出して轟に返す。轟は一瞬、それを遠慮しようとしたが、華奈が必死に渡してくる様を見て、渋々受け取った。金額が合わなければ、それこそ父に華奈が疑われかねない。

「まさか、華奈が吸う訳じゃないよね」

 轟は軽い口調で言い、少し微笑んだ。

「お父さんのお使い?」

 華奈は軽口に少しリラックスしたように笑みを浮かべた。首を縦に振る。

 轟は、その様子を見て少し考え込む。まず、この寒空の中、制服で娘がコンビニへこんな時間に行くことへの異常さ。それを注意しない父の考え。それらを考えたが、ひとまずは目の前の問題から片付けていくことにした。

 夕方の訪問時、華奈が投げかけた言葉が思い出される。彼女は悲しそうな目をして、轟と鯖江に、迷惑だから帰ってくれと、そう言っていた。しかしあれが彼女の本心だとは、到底思えない。顔の傷も、今は華奈の頬から消えているが、しかし学校に大層なガーゼを付けて登校するというのは、無意識の内に助けを求めているのではないか。轟はそう考えて、口を開く。

「その……。夕方の事なんだけど。ごめんね。急に家まで押しかけて」

 轟はそう言って、目を伏せる。轟自身も気付いていないが、華奈に冷たく接されたことが、多少なりとも心の傷として残っているらしかった。それを謝罪した時、ちくりと刺すような痛みを感じた。

 しかし華奈は、その言葉を受け、何かを考える様に視線をフロントガラスへ走らせる。恐らく、これもお父さんが言っていた、先生たちが家に来た時の話だ。華奈はそう思い、内心でとても焦る。慌てて脳内の記憶を辿ろうとするが、何も全く覚えていない。それらしき記憶すら、何もない。ただ寝て起きたら父が怒っていて——。

「いえ、大丈夫です」

 華奈は逡巡した後、話を合わせるようにした。元より、あまり口数が多い方ではない。

 轟は肩を落としたまま、続ける。

「やっぱり、迷惑だった、かな。でも、どうしても放っておけない、と思って。華奈、何だか、助けて欲しそうだったから」

 轟は目線を落としたまま、続ける。

「顔のガーゼも、足の傷跡も……助けて欲しそうに見えた、から」

 その言葉に、華奈は動揺を何とか隠す。顔の方は、傷が見えるよりは、という苦肉の策だった。しかし、足の傷。まさかそれも見透かされていたとは、思いもしなかった。まさかそこまで肉薄されていたとは。

 華奈は、そのまま全てを暴いて、助けて欲しいという気持ちと、何事も無いように振舞って、この先も父との暮らしを続けて居たい気持ちが交錯する。

「だから、この先も、助けて欲しいって思ったら、遠慮なく言って欲しい」

 そう告げた轟は、顔を上げて華奈を見る。その目は悲壮感を湛えており、華奈は何も言えなくなる。

「わたしと、鯖江先生は、華奈の味方だから。だから、自分を大切にして欲しいって、思う」

 華奈はその言葉を受け、膝に目を落とす。手には汗が握られており、今ここで全てを離せば、この地獄から解放される。そう思って、思わず全てを轟に打ち明けそうになる。しかし後一歩の所で、喉に何かがつかえる。

 結局、華奈は黙って首を縦に振り、轟もその様子を見て、シフトレバーに手を掛けた。彼女の心に広がる葛藤を感じながら、轟もどうするべきか、同じように悩んでいた。このまま強引に彼女を助けることは、容易い。しかし、それでは華奈自身が望む様な助かり方とは、恐らくかけ離れた道を辿る事となる。華奈の胸中は分からないが、闇雲に救ってしまうことが、却って彼女を苦しめる結果になるなら。

「華奈、家まで送るよ」

 轟は悩んだ末、車を動かす準備を始めた。

「え、でも」

 華奈は驚きの表情を浮かべる。しかし轟の真剣な眼差しに気圧されて、何も言えなくなる。彼女の心の中には、まだ葛藤が重く圧し掛かっていたが、轟の優し気な声音がそれを少しだけ和らげる。

 ブレーキが離されると、車は滑り出す様にゆっくりと走り出す。歩いてきた街の景色が流れ、彼女は色々と考えながら、ハンドルを握る。そしてちらりと、華奈の方へ目を向けた。

「大丈夫。ちゃんと家まで送るから」

 轟は静かにそう告げる。華奈は微かに頷き、車窓の外を見つめた。

 行きはあれ程苦労したが、帰りはあっという間だった。轟は車を家の前へ着け、ハザードランプを付ける。華奈はドアを開け、降りようとする。

「ありがとうございます。轟先生」

 華奈は感謝の気持ちを込めて言った。轟はその表情に隠れる、華奈の真意を探ろうとしたが、相変わらず読み取れない。

 そうしてこちらへ背を向け、門扉に歩いていく華奈を見ていた轟は、思わず反射的に華奈を呼び留めてしまった。

「待って」

 その声は静かな通りへ、嫌に響いた。華奈は驚いて振り返る。その顔を見た轟は、しかし何を言うべきか悩んだ末、言葉を飲み込んでしまう。

「……また月曜日。図書室で、待ってるから」

 華奈は一瞬驚いたが、轟の言葉を受け、胸が暖かくなるのを感じた。月曜日、図書室で。自分の事を待ってくれている人がいる。そう思うと、胸のつかえが一つ、取れたような気持ちになる。

「はい、わかりました」

 華奈は無邪気に笑うと、轟も一先ずの安心を得た様に息を吐く。そして、再び門扉を通り、家の中へ消えていく華奈を、見えなくなるまでそこで見つめていた。

 華奈がやがて、玄関を開けて完全に見えなくなってしまうと、轟はハンドルを強く握った。その心の中には、あのまま帰らせて良かったのかという気持ちが強く犇めいていたが、やはり力任せに彼女を救い出していいものか。という悩みもすぐに顔を出した。

 どうにかしたい。

 彼女は一人になった車の中で、呟く。彼女がさっきのように、年相応の無邪気さを持って過ごせるために、どんな手段でも使いたいと願った。その為なら、手を汚すことさえ、いざとなれば自分は躊躇わないだろう。そう思い、彼女の父親に対して、胸の中で小さな炎が灯るのを感じる。

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