第21話
日曜日。
華奈は一週間の中で、この日が一番嫌いだった。父は隔週で、土曜日も出勤する。その分帰りはいつもより早いのだが、それでも華奈は家で一人の時間を持てる。それが日曜日となると、一日中父の顔色を窺わなければならない。華奈にはそれが耐え難かった。
しかし、同時にこれはチャンスだとも考えている。父に評価してもらう、絶好のチャンスだと。華奈は内心、父にどれくらい見限られているのか、想像は付かないまでも、きっとあまり信頼されていない、役にも立てていないと考えていた。それをひっくり返すための機会だと、今朝から張り切っていた。
リビングに降り、手際よく食パンをトースターに入れる。それが動いている間に皿を出し、続いて冷蔵庫からベーコンと卵、ソーセージを用意する。それらをフライパンで調理して、最後に飲み物をコップに注いだ。
あっという間に朝食が出来上がり、時刻は朝の9時。いつもなら父はもう少し早起きをするが、仕事が休みの日は、その起床が2時間程遅れる。華奈は腕まくりをしていたシャツを下ろしながら、階段を駆け上がる。その顔はやる気と、父に対して褒められたいという気持ちで満ちていた。
「失礼します」
ノックをして、扉を開ける。父は丁度、少し前に目を醒まして、眠そうにカーテンを開けているところだった。
「お父さん、おはようございます」
普段ならそんな風に、自分から朝の挨拶に来ることなどない華奈——父もそこまで望んでいない——に、父は寝ぼけ眼を少し見開いて、彼女の方を見つめる。しかし鬱陶しそうに眉間へ皺を寄せると、顔を反らした。
彼女は臆さず、続ける。
「あ、あの、朝ごはん出来てます。良かったら……」
眠たそうにあくびを漏らした父は、腕をゆっくりと上にあげて伸ばし終えると、口を開いた。
「珍しいな。わざわざ自分からそんなことを言いに来たのか」
父にしてみれば、それは何気ない一言だった。どちらかと言えば、皮肉というよりも、素直に関心していた。しかし華奈は、そんなつまらないことを言いに来たのか。と言われたと捉えてしまう。明るかった顔が僅かに曇る。
「すみません」
勢いを殺され、少し項垂れる華奈を感じた父は、振り返ると机に置いてある煙草を手に取り、歩き出す。進路上に立っていた華奈は咄嗟に横へ避け、道を譲る。父はそんな華奈を一瞥し、少しだけ柔らかい表情を浮かべた。
「いい心がけだな」
そうぽつりと言って、部屋を後にする。華奈は一瞬、父が言っていた言葉の意味を理解出来ずにいたが、それが自分の行いを称賛するものであったと理解した瞬間、暗くなっていた表情が、一瞬で明るくなった。華奈の顔に笑みが広がる。父からこうやって褒められることはこれまで殆ど無かったし、自分が父の役に立てたと実感するのも久しかった。
上から目線だとか、もっと別の言葉があるのではとか、そんな事は華奈にとっては些細な問題であった。
駆け足で父の後を追い、大きな背中が階段を降りていくのを見つめる。胸の中では、この調子で父に好まれることをしよう。もっと役に立って褒めて貰おう。そんな考えを抱く。
ソファに腰を下ろし、灰皿を引き寄せて煙草を吸い始めた父を見ながら、華奈は台所でまとめて置いていた朝食を持ち、ゆっくりと父の方へ歩み寄る。それを目の前に並べると、父は無言でそれらを見つめ、少しだけ眉を顰めた。華奈は緊張しながら、どうか父の口に合う様に。と、いつも通りに作った朝食に対して、一抹の不安を憶える。
父はやがて、パンを手に取ると2つに裂き、ナイフとフォークを持つと、ベーコンを上に乗せてから齧り付いた。
こんがりと焼かれて、上にバターを塗られたパンが、小気味のいい音を立てて父の口の中へ入っていく。強火で火を通した、父の好みに焼かれているベーコンも塩気が利いていて、寝起きの身体に力が漲るようだった。
上品な動作で、それらを行った後、父は目玉焼きに目をやる。もう片方のパンにそれを乗せ、こちらも齧り付く。丁寧に両面を焼かれたそれも、父の好みの通りに火が入れられている。
ちらりと父は華奈を見上げる。その瞬間、隣で立っていた華奈は、心臓が高鳴るのを感じる。父のその視線が、まるで自分を評価するようなものに感じられて、生唾を飲み込んだ。
「……まあ。悪くないな」
その言葉に、華奈は思わず父の視線も忘れ、安堵の溜息を漏らす。自分がまた少し父に認められたと感じると、それまで張り詰めていた緊張の糸が一瞬にして緩み、肩から力が抜けていく。
父にとってはほんの些細な一言。それが彼女にとっては心の支えになっていた。
父もまた、そんな華奈を横目で見やり、小さく口の端を持ち上げる。従順な姿勢で、自分の所作ひとつひとつに一喜一憂している華奈の態度が、どこか心地良いものに感じられた。自分の一言で華奈が思う通りに動き、決して逆らおうとしないその態度に、満足感すら覚える。しかし父はそれを決して表には出さない。再び静かに食事へ戻った。
やがて、食べ終わった父は煙草に火を付け、休日の朝を満喫していた。ここ数日、華奈を殺めてしまったり、家に教師が来たりと、父にとっては決して気の休まるものではなかった為、今日こそは家でゆっくり過ごそうと、そう決めていた。
台所で洗い物をする華奈もまた、数日間、父に怒鳴られない日は無かった——無論、これまでも怒鳴られて、あるいは殴られている日の方が多かったが、今日こそは。と思っていた。何せ、学校が休みである、という事は、その分だけ二人きりで過ごす時間がいつもより多くなるのだ。その分だけ、華奈の何かが気に障ることもあるだろう。それを少しでも減らして、この後も父に褒めてもらいたい。そう思いながら皿を洗っていた。
その時、上階からカチカチと爪を鳴らす音が聞こえ、華奈は小さく怯えながら、音の主へ目をやった。それはアックスが階段を降りてくる際に爪が床を叩く音であり、急いで水を止める。そして、きょろきょろと辺りを見渡すアックスから目を離さない様にしながら、手元にあるタオルを手繰り寄せる。
「あ、アックス」
か細い声が名前を呼ぶ。アックスはその声に振り返ると、ゆっくり尻尾を振り、耳を立てて、キッチンの方へ歩いていく。
華奈は急いでその場へしゃがみ込む。下の戸に手をかけ、中にあるドッグフードの袋を開ける。奥にしまってある餌皿を手に取り、そこへ朝食分のフードを入れる。
カラカラと、プラスチックにそれが注がれる音を聞きつけ、アックスは急いで華奈の元へ走り寄る。彼にしてみれば、単に食事へ早くあり付きたいという一心。しかし華奈は、勢いよく近づいてきたアックスを見て、小さく悲鳴を上げる。肩が強張り、心の中では繰り返し、噛まないで、噛まないでと唱え始める。
震える手で、何とか分量を量り終え、戸棚を閉めるのも後にして、すぐさま足元へ皿を置く。そしてその場から飛ぶようにして後ろへ下がる。アックスは、そんな華奈の様子には最早目もくれず、まるで飢えたかのように皿へ顔を突っ込んだ。
強靭な顎は、ひと噛みで歯に当たったフードを嚙み砕く。そして飲める大きさにした傍から、喉へ流し込む。剥き出しになった白い歯が唇から覗き、皿の中はあっという間に減っていく。その様子を、華奈は洗い物を中断して、ただ冷蔵庫の辺りまで下がって見ているしかなかった。
そこでふと、父がキッチンの方へ顔を向ける。そして、いつもはリビングの方で食事を取っているアックスが、何故か随分と窮屈そうな場所で食べていることに疑問を抱いた。
その実、華奈が昨日ブラッシングをしたお陰で、アックスも少し気を許し、食事を用意している華奈の方へ近づく、という関係性の進歩があったため、華奈が急いでキッチンの狭い場所で食べさせていたのだが、父はそれに気付かない。ただ、アックスが狭苦しい場所で食べさせられていると思ったのだろう。怪訝そうに眉を顰め、煙草の灰を灰皿へ落とした。
「おい、華奈」
低く、良く通る声がリビングから聞こえ、華奈は慌ててダイニングキッチンの、カウンターから父を見る。
「はい」
「お前、なんでそんなところで食べさせてんだ?」
怒っているというより、疑問に思ってそう質問を投げる。しかしそんな父の思いとは裏腹に、華奈は怒られると直感的に判断した。
「ごめんなさい……」
そう呟いて、顔を曇らせる。その態度に父は、気持ちが穏やかだから、というのもあるが、訂正の言葉を返す。
「違う。別に怒ってない。ただ、どうしてそんな狭い所で食べさせてるのか聞いてるんだ。お前だって、アックスが怖いんじゃないのか」
強いて言うなら、質問に答えない華奈が少しだけ父の怒りを買ったが、それはすぐに治まりを見せる。
「その……はい。怖いです。ごめんなさい」
華奈はどう応えるべきか悩んだ末、正直に自分がアックスに対して思っている気持ちを伝えた。父の可愛がっている彼を、怖いと表現することは、失礼に当たらないか、と思わないでもなかったが、嘘を吐いてもどうせ露呈する。そんなことを考えていたからだろうか。またしても、どうしてという問いには答えを返せなかった。
父はそんな、会話がスムーズに行えない華奈に対して何か言ってやろうか、と心の中の苛立ちが刺激されたが、すぐにそれをしまい込む。呆れた様子で静かに溜息を吐く。
「……まあいい。おい、アックス」
父が声を張って呼んだ頃、彼は丁度フードを食べ終え、空になった皿を舐めているところだった。その声に反応して耳が父の方を向き、次いで顔が父の方を向く。尻尾を激しく振り回しながらその場で身体を捻ると、小走りで父の方へと走り去った。
そこでようやく、金縛りが解けた様に動けるようになった華奈は、安心感で肩を落としながら流しの前へ戻った。床に置いてある皿を手に取り、涎でぬるぬるとしているそれを、流しの中へ入れる。
ちらりと父の方を見ると、大きなアックスがソファの足元に丸まって座り、それ以上に身体の大きな父が、ソファへ腰を深く沈め、煙草を吹かしていた。
その姿をふと見つめている内、華奈は考えてしまう。アックスは父に気に入られている。それは当然、彼が犬だから、愛玩動物だから、というのが大きいだろうが、しかし父の性格を鑑みるに、従順だから好いているのでは、と。
事実、アックスは常に父の声に反応して嬉しそうに駆け寄ったり、邪魔にならないように立ち振る舞ったり。犬としては当然と思われるその動きに、自分が気に入られるヒントが隠れているのでは。そう思いながら、足元で寝息を立てるアックスを見る。
わたしも、あんな風に気に入られたい。
「おい、華奈」
ふと、思慮に耽っていた華奈は、父の声で現実に引き戻される。
慌てて顔を上げると、眉間に皺を寄せ、ソファにふんぞり返りながらこちらを見つめている父と目が合う。
「水」
機嫌の悪そうな表情で、父は冷たく吐き捨てる。華奈は一瞬、父が飲み水でも欲しているのかと思ったが、違った。
洗い物を始めようと出した水が、華奈が手を止めている間も絶え間なく流れ続けているのに気づいてから、慌てて彼女は蛇口をひねった。
「ったく、水道代も払えない癖に」
小さく呟いた父の言葉は、華奈にアックスと自身を比較させ、彼よりも明らかに劣っていると決定づけさせるのには十分過ぎるものだった。
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