第22話

「ごめんなさい」

 華奈は何も言い返せず、ただ静かに自分の行いを反省した。確かに、水道を出しっぱなしにするのは当然良くないことだ。それは華奈も理解出来る。ただ、あのような言い方をされると、仕方ないと理解してはいても、胸が締め付けられる思いにはなった。

 そして、一度反射的に止めた水道も、やはり洗い物をするためには出さなければいけない。彼女はまた何か言われるのではと怯えながら、父の顔色を窺うようにして見つめつつ、ゆっくりと水を流し始めた。

 ゆっくりと流れ始めた水で、泡の付いた皿を流しながら、華奈は考える。やはり、自分はアックスと比べて、父の役に立てない存在なのだと、改めて思い知る。彼は自分の様に家事も炊事もせず、ただ父の傍に立って、尻尾を振っているだけだ。しかしそれでも父に好かれている。片や自分は、精一杯父の為になればと思って動いても、それが少しでも失敗すれば、父に怒られてしまう。

 やがて華奈は、アックスに足りていて、自分に足りていないのは。等と、考えるだけ無駄としか思えないことに思いを馳せていた。

 その結果、華奈はこれまでにない感情に突き動かされるようにして、父に向かって媚びるような動作を試みることにした。ほんの些細なこと。例えば、父にすり寄って会話してみたり、目線を合わせるようにしたり。まるで自分がアックスと同じように振舞えば、父に愛されると思ったかのような。それは正しく、彼への対抗心にも似た、幼い感情の表れだった。

 それを実践するべく、洗い物を終えた華奈は、服の皺を伸ばしながら、ゆっくりと父へ近づく。しかし足元ではアックスが落ち着いた様子で丸まっていたため、テレビと父の間を横切って、父の右手側から回り込む。

 父は、近付いてきた華奈を目で追いながら、しかし何かを言うでもない。ただ、黙ってスマートフォンに表示された新聞を読む動作に戻る。華奈はその様子を見ながら、そのまま近づいて、その足元にそっと座り込んだ。

「あの、お父さん」

 視界の端で、正座をして座る華奈が見え、父は少しぎょっとした様子で彼女を見る。華奈は、しかし構わず父を上目遣いで見つめる。

「今、お邪魔してもいいですか……」

 内心、これまで父にこのようにして自分から近づくという経験が浅い彼女は、とても恐怖を感じていた。足元に座って見上げた父は予想以上に大きく映り、その威圧感とこれまでの仕打ちから、息も詰まる思いだった。しかしなんとか言葉を振り絞った甲斐はあったと、すぐに思う事となる。

「なんだ」

 ぶっきらぼうに応えた父は、しかし自身を相手にするときにしては珍しく、手に持っていたスマートフォンを机の上へそっと置くと、姿勢こそそのままだが、華奈を見つめた。その見下すような視線に背筋を冷たいものが通り抜けていくのを感じながら、華奈は必死で父の目を見つめ返す。

 これを千載一遇の機会だと思い、華奈は言うべきか悩んでいたことについて、伝えてみることにした。

「えっと、最近、寒いですね」

 言われて、父は外を見る。庭に植えてある錦木は、すでに緑の葉に赤いものがちらちらと見え始めており、実際に仕事へ向かう際も、厚手の上着を着ていかなければ肌寒い日も増えてきたことを思い返す。

 だが、華奈がいきなり、そんな社会人の会話に困った時のような話を振ってくるのが不自然だと思わない訳がない。何を言おうとしているのか、父は探るようにその目を見つめる。

「あの。もし、捨てる予定のコートとかが、あればでいいんですけど」

 華奈は心の内まで全て父に見透かされるような気持ちを抱きながら、震え始める声を押さえて言う。

「貰えないかなって、思いまして」

 父はそんな華奈の言葉に、薄く唇を歪めた。

「なんだ。何を言い出すかと思えば、そんな事か」

 父は、まるで嗜虐心を満たすかのように、華奈へ顔を近付けた。彼女はそれだけで身が凍り付くように動けなくなる。

 父はそのまま、氷のように冷えた言葉を投げる。

「お前も随分と、わがままを言うようになったな。対して俺の役に立ってもないのに」

 父の言葉に、自分が今朝から父の機嫌を取れていたと思い込んでいただけで、父にしてみればまだまだその閾値を超えられていないのだと悟った。全てを父に認められた、とは思っていなかったまでも、多少は父の評価を得られたと思っていただけに、この返答は心を強く傷つけた。

「なんだ、やることもやっていないのに、寒いから服が欲しいと宣うか」

 てっきり、華奈は父の所有物、それも捨てるものを欲しいと言えば、それが父にとって忠誠心の表れになるのでは、それを感じ取ってくれるのではと期待していたが、却って裏目に出たと知る。勿論、防寒目的もあるが、それ以上に、わたしはあなたに取って不要になった物でも欲しいです。という気持ちは、伝わらなかったらしい。

 華奈はすっかり言葉を失って、ただ怯えた目で機嫌を損ねたらしい父の目を見つめるしかなかった。目線を外そうと思っても、身体は恐怖で硬直し、視線を外せばまた何を言われるか分かったものではない以上、安易に余所見も出来なかった。

「お父さん、わたしは……」

 何とか絞り出した言葉すら、尻すぼみになる。言わない方がいいだろうか。という気持ちが、ブレーキを掛けた。

 だが父はそんな、漏れかかった華奈の本音を見逃さない。

「なんだ、言ってみろ」

 意地の悪い笑みを浮かべ、父は華奈に詰め寄る。彼女の感情とは裏腹に、言葉は勝手に口をついて出てしまう。父に命令されると、それだけで自分の意思より、それを優先してしまう悪癖が、彼女には染みついていた。

「あの、ただ、寒い思いをしたくなくて」

 言葉は震えながらも、華奈はせめて真摯に父へ気持ちを伝えようとした。言ってしまった以上、もう後戻りはできない。これから後少しでも父の機嫌を損ねれば、どうなるかは目に見えている。まるで王手のかかった駒を動かすが如く、心の中は警鐘が響いていた。

「寒い日も増えてきたし……去年も、そんなに暖かく過ごせなかったから……」

 言い終わると、余所を向いていた父の目線が再び華奈に向けられる。華奈は父の表情に何かしらの変化があることを期待したが、その目は依然として冷たい。

 父は嘲るように鼻で笑った。

「ふん、それはお前の自業自得だろうが。快適に過ごしたいなら、やることをやれ。いつも言ってるだろ」

 確かに華奈はいつも父に言われていた。風呂の湯を使うなと言われた時も、食事を減らされた時も、私服を全て捨てられた時も。何かしら華奈が失敗をしたり、父の期待に沿えなかった罰として、父は華奈にそれをした。そして冷たく言い放ってきた。

 やることをやってから言え。

「それに、あんな草臥れたコートじゃ、お前が暖かくなるとも思えないがな」

 そう付け加えた父の言葉に、一瞬、華奈は心の中で小さな希望を見出した。父の発言ひとつひとつに、自分の気持ちが良くも悪くも揺さぶられるのは良い気持ちがしないけれど、その僅かな希望にすら、縋りたい気分だった。父が頭の中で、捨てる予定のものを探してくれたと感じた。

 その希望すら打ち砕くように父が立ち上がるまで、華奈はとても喜びを感じていたのだ。

「お、お父さんっ」

 無言で上体を起こし、どこかへ立ち去ろうとする父に反応して、華奈は引き留める様に腕を伸ばす。しかしそれは空ばかり掴み、父は振り返りもしない。そのまま華奈の傍を通り抜けると、階段の方へ向かって歩いていく。

 その背中を見つめながら、華奈は今にも泣き出してしまいそうだった。結局、自分が良かれと思って父にした行動は、殆どこの様に父の機嫌を損ねるきっかけとなる。きっと、父にこんなことを言っていなければ、ただ黙って機嫌を取り続けていれば貰えたかもしれない上着も、自分がすることをせずに父へねだったから。

 自分自身を責める様に、華奈は手首を力強く握りしめ、必死に涙を堪えた。父の姿は、もう階段の奥へ進んでしまい、視界から消え去ろうとしていた。

 やがて、アックスも後を追って行ってしまった後、華奈は一人で父が座っていた痕の残るソファの傍で、絶望を噛み締めていた。先ほどまでは行かないで欲しいと願っていた気持ちも、一度父が2階へ、恐らく自室へ行ってしまった後では、むしろ降りてこないで欲しい。もう一度、自分に何か嫌なことをするために戻ってこないで欲しい。そう必死に祈ってしまっていた。

 今朝から積み立てていた期待も水泡に帰し、何もかも失った自分に、これ以上の仕打ちを何もしないで欲しい。そう願い、ただ涙が滲むのを必死で呼吸を整え、我慢しようとしている。

 しかし、物事はまるで自分の願わない方へばかり転がるのだと、階段から聞こえてくる足音を聞いて、華奈はますます絶望を顔に浮かべた。

 次に、わがままを言った自分を憎んだ。心の中で、何度も自分の軽率な行いと発言を悔い、苛烈に責め立てた。

「おい」

 視線を下げ、先ほど父が離れた時から一歩も動いていない華奈を見て、父は短く呼ぶ。華奈は肩をびくりと跳ねさせたが、すでに父の方を見ようとはしない。ただ、今にも泣き出しそうな暗い表情で、自分の太ももを見つめ、怯える自分を諫める様に、手首を掴んで震えている。その姿が、父の心を強く満たした。

 自分が少し、華奈を驚かせてやろうとして取った行動、無言で立ち上がって上に上がっただけで、こいつはこうもショックを受けている。その姿を見た父は、頬が吊り上がるのを抑えられなかった。すっかり精神も自分の支配下にあり、こちらの言動に対して感情を揺さぶられるその姿は、華奈の狙っていないところで、父にとてつもない満足と愛着を生み出していたのだ。

「おい、華奈」

 再び呼ばれた時、華奈は震えながら、背後に立つ父の気配を感じ取っていた。息が詰まりような緊張に、手が足が震える。自らの手首に爪を立てて握りしめているためか、皮膚の内側でじんわりと血が滲んでいた。

 華奈は、このまま後ろから何かされるくらいなら。そう覚悟を決めて、ゆっくりと膝を立て、床に手を着いて後ろを振り返った。

 父は、そんな緩慢に動く華奈と目が合うや否や、手に握っていた物を投げて渡した。

「捨てるつもりだったからな。やるよ」

 瞬間、視界が闇に包まれた華奈は、後ろに倒れそうになりながら必死で腕を藻掻かせて、何とか顔を外に出す。そして見てみると、それは一枚の、黒いトレンチコートだった。

 コートの生地は重厚で、生地に毛羽立ちなどは見られない。冷えた2階のクローゼットから持ってきたからか、それはとてもひんやりと冷たさを感じたが、足にかかっている部分はほんのりと暖かくなってきていた。見ると、襟の部分にタグが付いている。

「買ったはいいけど、サイズが小さかったんだ。まあ、それでもお前には大きいだろうがな」

 冷たい声ではあるが、まるで意地悪く見せかけているかのように、父は自分の態度を誇示するように言った。その言葉に華奈は少しだけ心も温かくなる。

 それを手で持ちながら、華奈はしかし、どういう表情を浮かべるべきか戸惑う。先程まで、父に対してわがままを言った自分を卑下していた筈が、予想外に欲していた物が貰えたことで、華奈は言葉を失っていた。

「……何だ、文句でもあるのか」

 むっとした様子で言う父に、慌てて首を横に振る。そして、大事そうに胸の前で抱えた。

「いえ、違います。……その、もっと頑張りますね」

 上手く言葉を紡げないまま、華奈は思わず顔を綻ばせる。父の物を欲するという打算や、寒い思いをしたくないという願望はすでに二の次になってしまい、ただ、父から貰えたという喜びが、華奈を満たしていた。

 そんな彼女を横目に、父は再び傍を通ってソファに戻る。そして何かを誤魔化す様に腰を深くかける。

「やった物以上の働きは当然だからな」

 華奈はコートをしっかりと抱き締めながら、父の言葉にうなずく。その心には喜びとともに、これからの行いに対するプレッシャーも芽生えていた。父の期待に、より一層応えなければならない。華奈は緊張で、小さく生唾を呑んだ。

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