第23話
憂鬱そうに顔を曇らせながら歩く生徒に交じって、華奈は廊下を歩いていた。
月曜日。それは華奈にとって新しい一週間の始まりであり、これでまたしばらくの間、父と昼も夜も顔を合わせることなく過ごせる、安寧の始まりであった。しかし同級生や、その他生徒にとってはそうでもないらしい。皆それぞれ眠たげな顔を浮かべ、鬱陶しそうに教師や家庭の、他愛もない愚痴を語る姿を背に、華奈はつまらなそうな顔を浮かべる。
母と喧嘩した。あの数学の教師が出す問題が難しすぎる。お小遣いが少ない。今度の期末試験、どうしよう。
そんな悩みを浮かべる生徒の話を浴びながら、図書室へ向かう彼女にしてみれば、それは何とも贅沢な悩みであった。それこそ、普段であればそんな贅沢ともいえる苦悩を抱える彼ら彼女らに対して、下らないと内心で一蹴するのが常であったが、今はそれ以上に、気持ちが高揚している。
今朝からずっと、授業の時以外は身に着けているもの。それが今の彼女にとって、心の支えになっていた。
昨日、父がくれた、黒のトレンチコート。
それを渡したとき、父は自分用に買ったはいいけれど、サイズを間違えたと言っていたが、それはどう見ても彼女のサイズに丁度合っていた。羽織ってみれば、メンズのものとはいえ、腕の長さも、背中の生地もぴったりと華奈の身体を覆ってくれている。そのお陰で今朝から寒い思いもしていない。華奈は内心、父が自分の為に買っておいてくれていたのだと、信じて疑わなかった。
普段は、華奈にとっての父など、恐怖以外の感情を抱く方が難しいと思えるほど、暴虐の限りを尽くしている存在だった。しかし、華奈が父の為を思って行動をして、父もそれに対して、今は優しくなりつつある。その好転が、彼女の足取りを軽くさせた。
これまでされていたことを、決して忘れた訳ではない。しかし、母やアックスといった比較対象に嫉妬していたからだろうか。父に初めて貰ったコートというプレゼントが、華奈のこれまでしてきた努力が形となったように思えるのだった。
静かな図書館に入り、華奈はいつものように自分の席へ座る。引き出しを開け、金曜日の続きを読もうと本を手に取る。流石に室内は暖房が利いているので、少し暑苦しさを感じる。渋々、コートから腕を抜いて、背もたれに丁寧な手つきで掛けた。そして、背もたれに身を預ける。
空腹を感じていない訳ではないが、もっと頑張っていたら、いずれ。お父さんがわたしにお昼ご飯も持たせてくれたらいいな。そう思い、活字へ視線を落とす。
集中していく内、扉越しに聞こえる喧騒も、ゆっくりと遠くの世界の事のように感じられる。文章の世界に入り込んでいき、その情景が華奈の意識を、ゆっくりと本の中へ引きずり込む。
だがそれは、間もなく図書室の扉を開けた音で中断される。
「……こんにちは」
華奈が声をかけると、そこに立っていた轟は眠たげな目を華奈の方へ向け、少しだけ笑みを浮かべた。それはある種轟らしいともいえる、不器用なものであったが、華奈はそれでも自分が彼女に心を許されていると思えて、嬉しいものだった。
彼女は近くまで歩み寄ってくると、手に提げていたレジ袋を掲げる。それを華奈の前に着き出した。
「いつもお昼食べてないでしょ。食べる?」
そう言って、華奈が受け取るのを待つように轟は、じっと華奈を見つめる。
しかし華奈は、それを受け取れずにいた。内心では、喜びと困惑が交差している。
轟が、自分の為に買ってきてくれたらしいそれ。袋から透けた中身を見るに、購買でパンでも買って来たのだろう。そして、普段から昼を食べていないことを心配しての発言。受け取らないのは、失礼に値すると考える。
しかし一方、華奈にはそれを受け取ったとして、返す所持金が無い。買い物用に、父からある程度の金は渡されているが、それはあくまで買い出し用。それを使って自らの空腹を満たしたとあれば、これまでの努力は水泡に帰すだろう。
悩んだ末、華奈は遠慮して眉を顰める。
「いえ、お気遣いだけで十分ですから」
だが轟は肩を竦め、自嘲的に目を逸らして頬を吊り上げた。
「この間の、家庭訪問のこともあるから。謝りたい。と、思って」
慣れないながら必死に言葉を紡ぐ。緊張で嫌な汗がブラウスに滲むのを感じながら、それでも言わなければと覚悟を決めてきたことを思い返す。
「ごめん。色々勝手して」
その言葉に、華奈はとても困り果てた。一昨日、コンビニで遭った時も言っていた。そしてその前に父も言及していた、家庭訪問。やはり、二人が何かしらの用事で家に来たのだろう。恐らく、わたしが学校を休んだことで。それは憶えている。父に抱かれながら、明日は学校を休もうと決めたことは、しっかり記憶として残っている。しかし、問題はその後だ。
どうやら、先生が二人して家に来て、父と話し、そしてどうやらわたしとも話しているらしい。華奈はまるで他人事のように状況を憶測し、やはり何も覚えていない、思い出せないことを再認識する。
まるで、全員が口裏を合わせて揶揄われているような気持ちにすらなる中、何も言えなくなる。すると轟は、そんな華奈の沈黙を、許し難いと受け取ったらしい。顔を悲愴に歪ませ、苦痛を耐え忍ぶように歯噛みした。
「やっぱり、怒ってるよね。ごめん。どうしても、華奈のこと。放っておけなくて」
流石に黙ったままでいられず、華奈は口を開く。しかし、何も覚えていないんです先生。と言う訳にもいかない。
「そんな、先生は悪くないです。心配してくれたんですよね。……ありがとうございます。すみません、急に学校を休んでしまって」
そういって、華奈も頭を下げる。すると轟は、そんな姿を見て、悩みながらもゆっくりと腕を伸ばし、カウンターの前に袋を置いた。
「とにかく。わたしの事は気にしないで大丈夫だから。食べて。そしたら、元気出る……かも」
とても気不味い空気が辺りを満たす。華奈は、何を言うべきか悩み、しかしこれといって現状を打破できる言葉が見つからない。轟もまた、華奈の怪我について触れたいが、また以前のように拒絶されることに怯えていた。
情けない。轟はそうして自分を卑下した。目の前に、苦しんでいる生徒が居て、原因も明らかで。そんな中、救ってあげられない自分は、果たして何の為の教師か。
隣に座ったはいいものの、それから二人の間に、何か会話が生まれる雰囲気はもうどこにもない。お互い、辛そうに顔を歪め、それぞれの抱える悩みと直面していた。
先程まで身を沈めることが出来た本の世界は、今や規則正しく並んだインクの染みにしか見えなくなっていた。どれほどそれを目でなぞっても、ただ活字がそこに横たわっているだけである。
やがて、華奈は本を閉じ、目の前に置いてある袋の傍へ置く。その動作を、視界の端で動いた轟が顔を上げて見てきたのを感じ、重苦しい空気を打ち破るように口を開く。
「その、これ、食べていいんですか?」
そう聞かれて、轟は顔が明るくなる。彼女もまた、持っていただけの本を置き、嬉しそうに華奈の方へ向き直った。
まるで華奈が手を付けてくれることが、自分を許してくれていることの証左に感じられる。
「うん、食べて。何が好きか分からなかったから、適当に買ったんだけど」
そう言われて、華奈は袋を手に取り、中を覗き込む。
「甘いの好きかな。って思って」
嬉しそうにこちらを見つめる轟を、しかし華奈は驚いた様子で見つめ返した。
「……全部、フルーツのサンドイッチなんですね」
思わずそう言ってしまった後で、失礼な言い方だったかと自省する。しかし轟は、恥ずかしそうに肩を竦めて笑った。
「うん。ちょっと欲張りすぎたかも」
その表情は、明るさを取り戻しているようだった。華奈は持ってみた重さから、これを全て食べるのは不可能だと思ったが、しかしここで拒むことで、彼女の表情が再び暗くなってしまう様に感じた。気を遣って、笑みを浮かべる。
「いえ、凄く嬉しいです。甘いの、好きなので」
取り敢えず、食べられるところまで食べよう。そう思って、中から一つ取り出す。ふと、数年はこんな美味しそうなもの、食べていないことに気付いた。普段華奈が食べている物と言えば、父の食事を作った余り物。それすら無いときは、父の残飯を漁る日すら少なくない。それを思い出して胸が僅かに痛んだが、それもまた、自分がやることをやっていないからだと思い、納得させる。
少なくとも今は、誰かが自分の為に用意してくれたものを食べられるのだ。そう思うと、胸が暖かくなる。
「良かった」
轟は安心した様に胸へ手を当てた。
「それじゃあ、遠慮せず全部食べてね。少しでも元気になってくれたら、嬉しいから」
轟の柔らかな言葉に、華奈はゆっくりと頷く。包装を剥がし、飲食不可な室内で食べてもいい物かと逡巡したが、フィルムにべったりと付いても尚、大量にあるクリームと、みずみずしいフルーツを目の当たりにした瞬間、そんなことを考える暇もなかった。
大きく口を開けると、盛大に齧り付く。
その瞬間、久しぶりの糖分に脳が喜んでいると思う程の感覚に襲われる。力が全身に漲る様で、口の中をフルーツの酸味と、クリームの甘さで埋め尽くされる。
気が付くと、自然と綻んだ顔で、そのまま二口目を頬張っていた。
そしてしばらく咀嚼していたが、ふと自分が味の感想も何も言わずに食べ進めていることに気付く。慌てて轟の方を見るが、彼女はとても嬉しそうに目を細め、ただ彼女を見つめていた。
「……おいしいです」
慌てて嚥下し、遅ればせながら味を伝える。といっても、華奈は何か劇的な味のレポートが出来る訳ではない。それでも轟は一層嬉しそうに微笑んだ。
まるで、華奈が幼い頃、無我夢中で食事をしている様を見つめている父と母の表情にも似た、そんな記憶が蘇る。あの頃は、二人とも仲が良かった。
「それなら良かった。甘い物って……元気になれるもんね。最近、しんどそうだったから、安心した」
しかし華奈は、そんな風に微笑みかけられた事に対して、複雑な心情を抱えていた。心配してくれる人がいる。それに対して、どう返答したらいいのか、自分でも分からない。普段、こんな風に心配されることなど、考えてみれば無かった。
父は、果たして自分の事を心配してくれているだろうか。
華奈はふと、轟が自分にくれたサンドイッチと、父が自分にくれたコート。それに込められた意味が、愛情が、同じものか。そんなことを、比べるべきではないと思いながらも、比べてしまっていた。
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