第25話
偶然が、重なった。
たまたま、父が華奈の頭を抑え付けて罵倒をしていて、たまたま、華奈がそれに抵抗するため、手をシンクについていて、そしてたまたま、シンクに包丁が転がっていた。
魚を容易に切れるほどの、業物。それを無我夢中で掴んだ華奈は、朦朧とする意識の中、ただ自分に襲い来る恐怖と苦痛から逃れるため、それをでたらめに振るった。
普段であれば、そんなことをする前に、華奈の理性がそれを抑圧しただろう。しかし、頭を二度も強く打ち付けられ、吐き気すら覚える脳震盪を経て、抑え付けるものが何もなくなっていた。というのも、全くの偶然だった。
そして、振るった切っ先が、勢いよく父の首筋を掠めたのも、それがたまたま、靭帯で殆ど唯一、表層に位置する動脈を傷つけたのも。
全て、偶然が重なっただけだった。
決して、華奈が計画的に父を害そうと思って動いたわけではない。本当に、不運としか言いようのない事故。
しかし、魚の身よりもぬるりと父の頸動脈を切り裂いた凶刃は、華奈の手を離れてコンロの方に吹き飛ぶ。元より、鼻血でぬめりを帯びている手のひらである。それもまた、当然の帰結だった。
「ってえな」
事の重大さを理解していない父は、首筋に走る鋭い痛みに顔を顰め、華奈を睨む。華奈もまた、依然として思考が覚束無い中で、必死に振り回したものが包丁だともまだ認識できていない。ただ、自分の鼻からぼたぼたと垂れ落ちる血を恐ろしそうに手で受け止めながら見つめ、口に鉄の味が広がるのを感じて、ふと父の方を見た。
父は、片膝を付いて、シンクに手を着きながら立つ華奈を鬱陶しそうに睨みつけていた。
「おい、誰に向かってやってくれてんだ」
低く唸る父の声に、しかし覇気はない。華奈は呆然自失と見つめ返す。視界がぼやけ、何が起こったのか理解できない。ただ、痛みと恐怖だけが彼女の心を支配していた。
父は、自分に傷をつけた華奈に対して、今再び殺意を抱いた。どうせ生き返るんだから、殺してやる。そう心に決め、倦怠感が襲う身体に鞭打って、コンロに手を伸ばす。
そのつもりだったが、何故か自分が片膝を付いていて、立ち上がろうにも、身体に力が入らない。苛立ちだけが募り、やがて拳を握ると、自分の膝を殴った。
「ふだけんな、立て!」
呂律すら回らないことにも気付かない程、怒りで思考が支配されている中、父は諦めて辺りに手を着こうと腕を伸ばす。しかしその時、初めて自分の服が、血で濡れていることに。濡れ進んでいることに気付いた。
シャツが、赤く染まっているのではない。赤く染まり、続けていた。自分の首から勢いよく溢れた血が、まるで水を浴び続けているかのように、襟から胸ポケットを通って、左の下腹部まで、血が這い進んでいる。
途端、身体を芯から襲う寒気に、身震いした。目に驚愕の色が浮かび、手足が急激に冷えていく。まるで冷たい水に沈んでいくかのような錯覚を覚え、息も絶え絶えになる。
父は何がどうなっているのか分からないまま、ぼやける視界で華奈を見た。
「おまえ、なにを」
言葉が続かない。華奈は父の反応、そしてどくどくと溢れ続ける鮮血に戸惑いながらも、少しずつ事の重大さが理解出来てきた。恐怖の中で父が苦しむ姿が、彼女の心に深い恐れを植え付けた。
「お父さん……大丈夫……?」
思わず口から出た言葉に、華奈自身も驚いた。心のどこかで父を助けたいという思いが沸き上がってきていたが、父の視線が徐々に自分を捉え切れていないのを感じる。
「……馬鹿な……ことを」
喘鳴を漏らしながら、父はやがてその場へ身体を倒す。華奈は慌てて駆け寄ると、自らも鼻血を垂れ流していることなど気にも留めず、縋りつく。
「お父さん、お父さん!」
必死で父の名前を呼び、その大きな身体に縋りつく。父はすでに意識を手放し、だらしなく開けられた口と目は、光を失いつつあった。
呼吸や心拍こそ、依然として動いてはいるが、それもやがて尽きるだろう。これほど多量の血を失い、止血すら難しい場所である。華奈はそう言ったことは理解出来ないまでも、急激に父の身体を何か、抗いがたいものが蝕んでいることは本能的に理解出来ていた。
「お父さん!」
肩を揺するが、もう反応はない。華奈の鼻血が父の顔に垂れてしまうが、もとより床へじんわりと血だまりを広げたそれは、今や華奈の靴下やスカートにまで、浸食し始めていた。
「どうしよう……」
口から思わず出た言葉が、静かなキッチンに響き渡る。
華奈は、じぶんがしてしまった事の重大さを抱え切れず、目の前の現実から目を背けたい一心だった。
噎せ返る様な血の匂いに耐え兼ねて、華奈はその場を離れた。しかしどこにも行く当てはない。じっとしていられず、リビングをしばらく歩き回っていたが、父の血で汚れた靴下は、華奈の軌跡を足跡として描き続けるだけだった。
心臓だけが忙しなく、鼓動しているのを感じていた。頭の中が真っ白になり、何をしてしまったのか、受け止めきれない。不気味なほどの静けさと、嫌に明るく感じられる広いリビングが、華奈の不安を一層搔き立てた。視界に映る家具や壁の色が、嫌に明るく見える。まるで夢の中にいるようだった。
「どうしよう……どうしよう……」
譫言の様に呟いて歩き回るが、しかし行き先が分からない。呼吸が早くなり、ようやく脳震盪の吐き気が収まってきた頃、華奈は息を切らして2階へ続く階段に座り込んだ。しかし父の苦しむ顔が、今際の際が頭から離れない。許さない、というような表情が、今も瞼の裏で自分を睨みつけているような気持ちになる。
彼女はそのまま立ち上がると、何かに執り憑かれたように自室へ向かった。扉を開けて中へ入ると、少しだけ安心感が広がった。
汚れることも厭わず、ベッドへ向かって腰を掛ける。そして再び、同じように呟いた——どうしよう、どうしよう。
どうしてこんなことに。
いっそ、そうしようとして父を殺害したのなら、華奈はここまで悩むことはなかっただろう。ただ、これが華奈も覚悟を決めていない、ただたまたまの出来事であった。偶然の生み出した事故であった。
しかし、それでも犯した罪に変わりはないと、彼女は自分自身を責め立てる。自分のしたことの重大さを考えると、恐怖と後悔が押し寄せてきた。息苦しくなり、僅かな自分の物音にまで怯えてしまう。
彼女は手のひらで顔を覆い、思考が混乱するのを防ごうとした。しかしすぐに自分の鼻からまだ鼻血が垂れていることや、さっきの出来事を思い出し、数分前まで落ち着けると思っていたこの部屋も、自分が追い詰められている様な思考に至る。
支離滅裂なその頭の中は、父を殺してしまったという罪の意識によるものだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰にでもなく懺悔を繰り返す。様々な感情が渦巻いてパニックになるが、華奈は涙すら出てこない。ただ鼻血がぽたぽたと垂れ続け、やがて自分も父と同じように失血死してしまうのでは。という恐怖に次は苛まれる。
いや、いっそそうなって欲しい。もう死にたい。そんな事を思い、華奈は涙の出ない目を擦った。
頭の中に浮かぶ選択肢、その全てが恐ろしいものに思えて、決断できない。彼女はベッドに座ったまま、ただ悩むしかなかった。
やがて、自己弁護に思考は映る。
父が自分にあんなことをするから。父が自分に酷いことを言うから。父が自分に、父が自分に。
その時、アックスも異常を察知したのだろう。動物は、血の匂いを危険なものだと認識しているのだろうか。父が横たわっているからだろうか。
階下で、激しく彼が吠える声が聞こえ、華奈は頭を抱えた。耳を塞ぎ、もうやめてと叫ぶ。これ以上、追い詰めないでと願う。
静かな家に、アックスの激しく吠える声だけが、飼い主の危険を知らせるが如く、激しく吠える声が響いた。
「う、うううううううううううううううううう」
華奈は頭を抱えて唸り続ける。声を出し、頭の中で何も考えられない様に。
そしてそのまま、もう何も考えられなくなって、部屋を飛び出した。アックスは尚も、リビングで吠え続けていたが、華奈はそれすら考えられない。ただ父をどうするべきか、分からなかった。ならばいっそ、警察に自首しよう。そんなことを考えて、父の部屋へ向かう。父の部屋にしか、電話が置いていない。彼女は自分のスマートフォンなどという、便利なものは持たせてもらえていなかった。
「……失礼します」
ノックをしたあと、いつもの癖で挨拶をしてしまった華奈は、自嘲的な気持ちになた。もうすでに父は1階で死んでいるというのに。
部屋に入り、電気を点ける。そしてベッドに目を向けると、そこには起床したばかりの父が、上体を起こしてこちらを鬱陶しそうに見つめていた。
「おい、何勝手に電気付けてんだよ。眩しいだろ」
そう言って眩しそうに目を細める姿に、華奈は驚愕で言葉を失う。そこにいたのは、紛れもなく父だった。
「ど、どうして」
華奈は震える唇で、なんとかそう問いかけた。しかし父は眉を顰めると、枕元にあるスマートフォンを手に取った。時刻を確認し、不思議そうに顔を顰める。
華奈はそんな父に、なんとか絞り出した声で質問を投げた。それは、奇しくも初めて父が華奈を殺めてしまった時と同じものだった。
「お父さん、覚えていないんですか?」
震える唇でそう言った華奈を、しかし父は眠たそうに目を擦りながら見る。その顔は、本当に何も覚えていないと言った様子である。
冬の夜風が外を通り、窓をただ静かに揺すり続けていた。
溺れるクラゲ なすみ @nasumi
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