久我太郎の結婚

舞夢

第1話 女子大生 島倉結

「おや、太郎さん、今日は食欲あるのかい?」

東京西荻の古めかしい純喫茶「アラビカ」店主、夏目欣二(60歳)は、相好を崩した。


普段は珈琲しか飲まない久我太郎が、「モーニングセットB」をオーダーしたことが、よほどうれしかったようだ。


カウンター席には、その太郎さん(久我太郎:28歳)が白いセーター、ブルージーンズ、スニーカーというシンプルにしてラフな姿で、スクランブルを食べ終え、厚切りトーストにかぶりついている。


「美味しい、二日ぶりの食事だよ」

太郎は、トーストを珈琲で胃におさめて、ようやく言葉を返した。


夏目欣二は、今度は、苦虫を嚙み潰したような顔。

「原稿の締め切りかい?」


太郎が素直に頷くと、夏目欣二は、温めたミルクを太郎の前に置いた(追加した)

「胃をやられても困るだろ」


太郎はミルクを半分ほど飲み、愚痴をこぼした。

「鬼のような催促だよ、まるで借金取りだ」

「いや、金は借りてないから、文章の債務か」

「エッセイ限定にしているけど、つい、遅れた」

「ようやく校正まで済んだ」


厨房から、若い女性が顔を見せた。

純喫茶「アラビカ」のウェイトレス、島倉結(19歳)である。

その豊かに張った胸を、タプンと揺らし、カウンター越しに、太郎の前に立った。

「だから、私が結婚してあげるって言ったのに」

(太郎は、ミルクで、ムセている)


童顔美少女島倉結は、抜け目なくカウンターから出て、太郎の背中をさする。

「私だって、J大学文学部、校正できますよ」

「そのうえ、太郎さんの食生活も含めた生活全般を管理しますから」

「お部屋の片隅にでも、おいてくださいな」


ようやく「ムセ」がおさまった太郎が、言葉を返した。

「大丈夫だよ、お気持ちだけありがたく」

「今は結婚なんて自信ないもの」

「そもそも、いつも締め切りギリギリの作家に、生活力なんてないよ」


店主夏目欣二が、太郎に助け船を出した。

「古本屋の仕事もあるよな」

「あれも、大変だろ?」

「どんな本を聞かれても、パッと探し出す」

「でも、太郎君しかできない」


島倉結は、それでも諦めない。

「それも、心を込めて手伝わせていただきます」

「とにかく、身も心も、私に任せて欲しいんです」

「今日から、今からでもかまいません」


太郎は、島倉結に付き合わなかった。

「編集者も来るから、それまでに風呂」

「古本屋は、今日は午後だけ」


店主夏目欣二は、頷いた。

「そうですよね、夜は経営会議」(口調が、丁寧なものに変わっている)

「私の所にも、資料が届いております」

「あの資料の原案も作って、エッセイの締め切りに間に合わせて、しかも古書店主」

「恐れ入ります」


太郎は、少しよろめきながら立ち上がった。

「そう言わないでよ」

「夜までには回復する」


心配そうに見ている島倉結には、目もやらない。

太郎は、純喫茶アラビカを後にした。

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