第19話 殴られる手間
「お前、達者なのは腕っぷしだけじゃなかったのか?」
「伯父さんこそ、僕は覚悟を決めてたのに」
愉快そうにお父さんは笑った。
「お前、婚約相手の親に楯突いておいて殴られそうになってるのに、目をカッと開いてるヤツがいるか?」
「面を打たれる時にいちいち目を閉じたら避けられませんよ」
ふわっといい空気が部屋中に溢れて、皆の顔に微笑みが浮かんだ。
確かにずっと剣道をやってた⋯⋯婚約者? ちょっと待て。そうかなぁとは思ってたけど、対外的にそういうことになっちゃってもいいの?
「やっぱりゆらをやれるのは航太しかおらんな。肝が座ってる」
「伯父さんほどでは」
「ほんでお前、ゆらに捨てられたらどうする?」
え? ええっ? こっちに話を振られたって。
航太は何故かいつも以上に真剣な顔をしてわたしを見てるし、お父さんもお母さんも何故か微笑んでる。ヤバい! ここは外せない!
「わたしは今ここがすきじゃないし、できたら他県の人と結婚して他県に住もうと思ってたけど⋯⋯でも⋯⋯」
「僕は長野県民だよ。ここを出ても」
「意地悪言わないでよ。お父さん、ゆらは航太とここを出ます。でもいつかちゃんと、ここに戻ってきます。10年後か、20年後かわからないけど、航太と⋯⋯その、一緒に」
「母さんほら、酒を持って来い」
「お父さんたら、航ちゃんには飲ませないでよ! 法律で決まってるんだから」
お母さんは席を立つと、わたしの肩をぽんと叩いて「良かったわね」と小さな声で言った。
◇
「これで本当に良かったの?」
「それは僕のセリフ」
運転席に座ると3倍カッコよく見えるのは狡い。だけどそう、ここを出る前から航太はしっかりしてたけど、大学生になって、すっかり大人になった気がする。顔つきが、以前と違う。
「まぁ、良かったと思うんだ。後々、『ゆらをください』ってヤツをやらなくて済むことになったんだし。殴られる手間も省かれたしね」
「あの時、怖くなかったの?」
くすくす、おかしいと言うように航太は笑って、そして本当のことを白状した。
「そりゃ、怖かったよ。子供の頃から剣道を教わってた師匠なわけだしさ。師匠に楯突くなら歯の1本や2本、覚悟の上でしょう」
ひぇー、とわたしは思った。まさか、そんなことになっていたら、と思うと血の気が下がった。流血沙汰だ。
「でももう了承を得たわけだし、ゆらは僕のものだ。ゆらはよそ見厳禁だし、僕も練習はいらなくなる。すっきりしていいね」
「練習、練習ってなんなのよ」
「その間、ゆらは本気の恋愛をふたつもしたんだから文句言うなよ」
「航太は? 航太は練習なんて言って女の子を傷付けたの?」
「⋯⋯上手く言えないな。ゆらにたどり着いたってとこだけ」
なんだかすごく微妙なところで誤魔化された気がしたけど、それ以上、細かいことは本当は聞きたくなかった。
高校の時だって噂に疎いわたしの耳にも、なん組のなんとかちゃんが航太に本気なんだって、なんて噂が回ってたくらいだもの、モテたんだろう、きっと。
わたしは――本気の恋愛かはわからないけど、確かにそれこそ練習させてもらった。いろんな意味で。
ひとがひとをすきになる理由は無いなんて、誰が言ったんだ、バカ! 財産目当ての男、多過ぎ!
痛い目にあうのが練習だというなら、本番では痛い目を見ることもないんだろう、きっと。
航太の目は真っ直ぐ前だけを見ている。
その眼差しは、昨日の、お父さんに殴られそうになった時のことを思い出させた。
逸れることを知らないその眼差しに、一体わたしは着いていけるだろうか?
『井の中の蛙』だったわたしに。
広いところに放してもらっても、遠くに旅立つことを考えられずグズグズなわたしに。
「大丈夫だよ」
今日は黒のポロシャツを着ている彼の左手が、わたしの膝をぽんと叩いた。「うん」とわたしは答えた。
でもなんで悩んでるのがわかってしまうんだろう――? 多分、一生の不思議だ。
◇
大空に散りばめた宝石、というのはまさにそれのことだった。
「うわー」
「喜ぶと思ったんだ。ゆらって意外と視野が狭いから、天の川なんて意識して見たことないんじゃないかなって」
車はどんどん自然の多いところに向かって行って、着いたのはそこだった。日本一星空が綺麗な村。
「よく来るの?」
「いや、全然。今日だって三脚も持ってないでしょう?」
そこは1,400mのロープウェイで上にのぼり、街の灯りがまったく見えなくなる山頂ですべての灯りが消えるという仕組みになっていた。
「写真、撮らないの?」
「撮らないよ、デートだからね」
「デート!?」
「プラネタリウムよりは豪華でしょう。ちょこちょこバイトしてるからお金の心配はいらないよ」
ああ、例のアルバイト。
「ゆらにもさ、知ってほしかったんだ。うちの周りだけじゃない長野。昨日見た諏訪湖、ニッコウキスゲがキレイな8月の美ヶ原、行ったことある? 今度は高原に花や紅葉を見に行こう。それからどこにも負けない星空――。説明しなくても天の川がどれかわかるでしょう?」
「わかる」
わたしたちはしばらく話さなかった。
この、空の天井を見ていられる時間も限られていたし、わたしは自分というちっぽけな存在に目を向けなければならなかったから。
怖い。世界はこんなに広いのに、こんなにちっぽけでこの先――。
そっと、温かいものが触れた。それは慣れ親しんだ航太の指先だった。指先から更に手が伸び、互いの指が離れないように絡んだ。
怖くない。
無限大の宇宙に例え放り出されても、航太がきっとわたしを捕まえに来てくれるから。
「星空に吸い込まれそうになってたでしょう? 大丈夫、捕まえてるから。――でも、その代わり二度と離さないよ」
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