第8話 アルバイト
学校に行くといつも通り圭一は先に来ていた。そういうところがやっぱり憎めない。基本、紳士的なんだ。
「ごめん⋯⋯ゆらを手放すことになるんじゃないかって怖かったよ」
顔を見たら吐き気を催すんじゃないかと心配したけれど、どうやら大丈夫だった。それより、不思議と懐かしさが込み上げて、ああ、自分はどうしてこの人と離れていたんだろうと思った。
「ゆら」
「⋯⋯二度目はないからね」
「ゆら! 許してくれるの?」
「これはお願い。あの変なサークルは辞めて。あの女とは挨拶もしないで。それで」
わたしはここで言い淀んだ。子供みたいな要求だったからだ。
「わたしの傍から離れないで」
ここで抱きついてきたらタックルしてやろうと思ったけど、彼はそうはしなかった。ただやさしく微笑んで「なにを食べようか」と言った。
その行動は今回の騒ぎがある前とまるで変わらなくて、わたしを安心させる。
そして、恐る恐る、彼の手を握った。彼の右手の小指を。
そのことさえ彼は微笑んで返した。なにも言わず。
わたしは実は間違ってなかったのかもしれない。
航太のことでやきもきするより、本家だの分家だのでうだうだ言う世界と距離をとるためにここに来た。
それなら、航太と離れることは必然なのかもしれない。――いや、必然に違いない。
愛だの恋だのは、正直に言えばまだ履修中だけども、独りでいるのは寂しい。
航太と離れた今こそ、彼以外の人たちとの関係を⋯⋯その狭い関係を大切にするべきなんだろう。
「そう言えばゆらの従兄弟に会ったよ」
「うん、聞いた(会いに行ったくせに)」
「ゆらはバイトするの?」
「あー、アルバイト、したことないの」
わたしは目を逸らした。世間では『バイト』で通じるらしいのに、堅い言葉を使ってしまった。
「ゆらの指先が荒れるのを見るのは嫌だよ」
「そう?」
「お金に困ってないならバイトする必要はないよ」
そうなんだ⋯⋯。航太はお金に余裕が無いのかな? カメラって高そうだし、なんだか大きなディスプレイのパソコンも部屋に置いてるし。
なんて考えてるとあの部屋が恋しくなる。二度と泊まれないあの部屋が。
「圭一は航太のアルバイト先、知ってるの?」
口からポロッとこぼれた言葉にハッとする! そんなことを知って、今更どうなるっていうんだろう?
『会いたい』ってまるで思ってるみたいじゃない。
「⋯⋯知らないの?」
「知らないよぉ。従兄弟のバイト先は範囲外だもん」
変な汗をかく。
いや、別に隠す必要は無いんじゃないかと思ったけど、それでも「知りたい」と思ってる自分がいることを隠したい。
そう、航太なんて会いたいと思えばいつでも会える、気安い従兄弟なんだもの。
「ご飯食べたら行ってみようか?」
「学校の近くなの?」
「うん、彼には借りがあるから、ゆらになにか買ってあげようね」
◇
航太のアルバイト先は駅と学校の真ん中辺り、緩やかな坂の途中にあった。
大変だったのはそこまですごい暑さと湿度に打ち勝たなくちゃいけないことで、圭一は途中でペットボトルのドリンクを買ってくれた。
「あ、これ美味しい」
「最近流行ってるフルーツティーの新しいヤツだよ」
味が薄くてごくごく飲める。
身体に水分が行き渡って、まだ歩けそうな気になった。
日傘を差してくれていた圭一が「そろそろ行こうか」と言ったので、わたしは結露で周りが濡れないようにミニタオルにドリンクを包んで、カバンにそっと入れた。圭一はその一部始終を満足気に見ていた。
航太のアルバイト先はコンビニで、わたしは角に差し掛かった時、つい足を止めてしまった。自分の知らない航太がここにいると思うと、とても一歩が出なかった。
圭一が不思議な顔をした。
「どうして止まるの?」
「なんとなく。なんでかしら?」
「さぁ、涼しいところまであと一歩だよ」
ちょっと待って、というより前に手首を引かれて店に入ってしまった。明るいチャイムが入店を告げる。
店の中をチラッと見る。
とりあえずレジは違う人だった。
なにかを買うふりをして、店内をぐるっと回る。いない。
「休憩かしら?」
「シフト入ってないのかもよ」
「シフト?」
「つまり『休み』ってこと」
わたしは自分の白いスマホを出して、航太にメッセージを送る。圭一は興味無さそうにアイスコーナーを覗きに行った。
わたしもドリンクコーナーの前で立ち止まる。その大きなガラスに映ったわたしは、化粧が崩れているかもしれない。Tゾーンの汗がすごいから。
「あのね、ちょっと御手洗」と告げて、拭き取り紙で気になるところの汗をとる。
と、スマホが震えた。
『家にいるよ』
あ、なんだ、お休みだったんだ。じゃあ次からは家にいない日は仕事で、いる日は休み、というのがシフトというものなんだろう。
貼られていたアルバイトの募集広告には『シフト制』と書かれていた。成程、こういうシステムなのね。
「わたし、急用ができちゃった。帰っていい?」
「今晩、うちに来る?」
「ううん、よしておく」
じゃ、と手を振って店を出た。
紺地に白の縁取りの入ったお気に入りの日傘を差して熱帯の中を歩き出す。
圭一がなにか買ったのか「ありがとうございました」という気怠げな声が後ろから聞こえた。
「ゆら! 送るよ」
「そう? じゃあ駅まで」
当たり前のように手をするりと繋ぐと、まるでなにもなかった頃に戻ったような気がした。あの女を触った手なんて反吐が出ると思っていたけど、よく知ったその手は、ずっと昔から繋いでいた手を忘れられそうになった。
ずっと昔から繋いでいた手を――。
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