第7話 男の操

 マンションの鍵を開けると、わたしは航太の顔を見た。安堵してやさしく微笑んでいた。

 なんだかわたしにはその笑顔が受け入れ難くて、口角を無理に上げて笑顔を作った。マンションの廊下の灯りは冷たい白色灯だった。

「それじゃね」

「またなにかあったらすぐに呼べよ」

 うん、と声に出して、幼稚園児のようにわたしは頷いた。

 幼稚園に入る前からずっと一緒だったのになぁ。どうして本家とか分家とか今どき流行らないもので仕切られないといけないんだろう? 自分のルーツがわからない人だらけの現代で。

 コイツも同じだったのか、と思うと少しがっかりした。信じてたのに、いちばん近いって。


 扉は無情にも閉まりそうになり、わたしはドアノブをもう一度握りしめた。そして「帰り道、気を付けてね」と小さな声で言った。

 航太は「早く部屋に入れよ」と言った。振り向かずに手をふって。

 さっきまで手の届いていた背中が、少しずつ、少しずつ遠ざかるのをわたしは見ていた――。


 ◇


『電話くらい出てくれよ』

 圭一はマジでムカつくとわたしは思っていた。

 ほかの女を抱いた手で――。それ以上はなにも考えたくない。


 圭一と知り合った時、感じのいい人だなと思ったのは確かだった。女の子の扱いは慣れていたし、それに、いつかの誰かのようにやさしかった。

 究極、わたしの身近でやさしくしてくれる男性はこれまでも航太しかいなくて、なんのしがらみもなく、普通の女の子であるわたしをすきになってくれる人は今までにいなかった。

「ゆらちゃんは彼氏いるの?」

 その一言にどれくらい胸が高鳴ったことか!

 キター!!!

 満塁ホームランを受け取った男の子のように、わたしはすっかり有頂天になってしまった。だから、「いません」と答えた後に「俺にしない?」と言われてつい、⋯⋯つい、頷いてしまったわけだ。


 かと言って圭一を嫌いだったわけじゃないし、鬱陶しいと思うこともなかった。

 航太の前で会う時は、手を繋いだままだとこそばゆい気がしたけど、そうでない時は、他が間に入るとは思えないくらいわたしたちはベッタリだった。

 趣味が合う、というより合わせてくれたし、うれしいと思う前に喜ばせてくれる、そんな男だった。


 なのに。


 あの女が現れてから少しずつ変わり始めた。『加奈子かなこ』というおかしな女だ。

 校門から続く銀杏並木をわたしたちが手を組んで歩いていても、その視野に入るものなら「ケイイチくーん!」と大きく手を振って走ってきた。

 周りの目にはどう映ったんだろう? カレカノに突進してくる女は。

 それが嘘でないなら、圭一も加奈子のことを『変な女』と呼んでいた。

 同じテニサーテニスサークルに入っているからといって、男女混合ダブルスの時は必ずペアを組みたがるらしい。

 圭一が友だちと遊びに行く話をしていると、必ず話に割り込んでくる。

 わたしの話をしていても、だ。

「アイツ、気持ち悪い女だよ」と圭一は言った。


 それでもわたしたちは変わらずラブラブだったので、どの隙間からするりと加奈子がわたしたちの間に割り込んだのか、さっぱり見当がつかない。

 皆の言う通り、テニサーの男なんてダメなのかもしれない。

 この世からテニサーなんてものは撲滅してしまえばいいのに。

 それくらいわたしは怒っていた。


『もしもし?』

『ゆら! そっちから電話してくれるなんて思ってなかったよ』

『あ、そう。じゃあ切るわ』

『そういう意味じゃなくて! わかってるだろう? 誤解をときたいんだ』

 わたしのイライラは次第に高まっていった。なんでこんなオドオドした男を自分はずっとすきだと思っていたんだろう?

 やさしかったから?

 ちょっとカッコよかったから?

 口が上手かったから?


 サイテー!


『一日一緒にいたら、もう付きまとわないって』

『夜もでしょう? 男には操ってもんはないわけ?』

『ある。ゆら以外の女なんて女じゃない』

『けど? けど、があるんでしょう!? あー、無理。絶対無理。不潔。触らないで』


 プツッ。

 やってしまった。これではなんのためにかけたのか、さっぱりわからない。痴話喧嘩しかしてない。

 でもこんなに言いたい放題いえるのも、圭一だけなんだもん。なんか、孤独⋯⋯。

 あの日の航太と香田さんのことを思い出す。フラれたって言ってたけど、ふたりは自然でお似合いだった。

 わたしと圭一もお似合いなんだろうか? ⋯⋯そういうのは外から見なくちゃわからない。

 問題は、圭一を許すのかどうかだ。

 ――許さなかったら独りになっちゃう。

 狡くて怖い考えが頭をよぎる。航太に事実上、線引きされた今、圭一までいなくなったら。

 寂しいのは嫌。

 これはお嬢様特有の病気かもしれない。いつでも誰かがそばにいてくれる環境にいたから。


『⋯⋯もしもし、今のはわたしが悪かった』

『ゆら! すぐに行く!』

『ちょ、ちょっと待って! 片付いてないの。学校のキャフェとかどう?』

『うちに来てもいいけど、ゆらがそうしたいなら、久しぶりにキャフェでランチ食べよう』

 それじゃ、と電話は切れた。

 一度離れてたら彼の声は少し高いように思えた。上ずっている。耳に痛い。

 その囁き声がすきだったわたしはどこに行ったんだろう? まだ、すきになれるかしら?

 ⋯⋯圭一をすきな自分に戻りたい。すべてを修正して、この寂しさから脱出するんだ。ひとりでも生きていけるところを皆に見せつけるんだ。

 航太が例え傍にいなくても。


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