第9話 慣れるということ
ドアチャイムを押すと、当然のように航太が出て来て安心する。はぁ、とわたしは胸の辺りを押さえて、軽いため息をついた。
「こんなに暑いのに」
「お願い、部屋に入れて」
あんな喧嘩別れをしたにも関わらず、命に別状があると思ったのか、すんなり部屋に通してもらえた。
わたしはとりあえず、ソファに倒れ込んだ。熱気もすごかったけど、倦怠感がすごかったからだ。
「おい、大丈夫かよ」
「平気。バッグの中にペットボトルが入ってるの。取ってくれる?」
航太はいそいそと氷の入ったグラスを台所から持ってくると、フルーツティーを注いでくれた。
「ぷはぁっ」
ぷ、と航太はいつかのように吹き出した。そしてわたしの汗まみれの額に手をやった。
「⋯⋯シャワー浴びる?」
「着替えがないもの」
「この間、洗濯中だった部屋着があるよ」
ああ、そうだったかもしれない。
「あ、メイク落とし!」
「⋯⋯下のコンビニで買ってくるよ」
待ってて、と軽快な足音を立てて航太は走って行った。⋯⋯暑くないのかしら?
でも、それも自分のせいだと思うと、自分は航太のお荷物なんだなぁとつくづく実感する。そう、お荷物。香田さんとは天と地ほどの差がある――。彼女の笑顔の眩しさが目の裏に浮かぶ。
勝てないなぁ、同じ女として。
いや、勝ったところでどうするって話だけど。
「お待たせ。飲み物は飲んだ?」
「一応」
「麦茶はいる?」
麦茶⋯⋯何故か長野を思い出させた。喉は乾いていたけれど、いらないと言ってしまって善意に対して悪いことをしたなと思う。
ああ、またセミがうるさい。
「航太のとこ、セミ、うるさいよね」
「つべこべ言わないでぬるいシャワーでも浴びて来なさい」
はぁい、とだらしなく返事をして立ち上がる。身体に力が入らない。足の踏ん張りがきかなくて、後ろに倒れそうになる。
そこを――航太に助けられる。
焦った顔。これも分家の息子の仕事なのかなと思うと、苦笑してしまった。
「ごめん、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ。ほら、ソファに横になって」
またパタパタと台所に行って、てきぱきとアイスノンを持ってきた。
「頭、持ち上げるよ」
うん。うなじに冷たい手が気持ちよかった⋯⋯。
◇
どれくらい寝てしまったんだろう?
夏だというのに外は真っ暗だった。わたしは一瞬、今日の出来事が思い出せなくてパニックを起こした。そこに航太から声がかかった。
「悪いけど、蕎麦しかない」
「あ! 全然気にしないで」
「シャワーとどっちにする?」
「シャワー、借りようかな」
また転ばないように、と、航太がついてくれた。情けなくて恥ずかしくて涙が出そうだった。
「そう言えば、何度か着信あったよ」
「出てから確認する」
シャワーは身体の不浄なものを一切洗い流してくれて、気持ちよかった。べたべたする汗も、溶けた化粧も一網打尽だった。
髪を乾かしてリビングに戻ると、食事の支度ができていた。航太はイヤフォンをして動画を観ていた。
「なんか、いろいろありがとう」
「いつものことだよ」
航太にとってはそうかもしれないけど、わたしにとっては今までと意味が違った。仕切り直しだ。
ここでどうするかでこの先が変わってしまう。
――航太を捕まえておきたい。
その想いは自然発生的で、心の中いっぱいに広がった。大体、航太に彼女ができたらどうしよう? ⋯⋯彼氏がいるって聞いたけど、やっぱり航太がいいってなったら、どうしようもないだろうなぁ。だってわたしには彼氏がいるんだもの。
着信は考えることもなく圭一からで、『ずっと一緒にいたい』という使い回されたフレーズの他に電話も何本かかかってきていた。
スマホの、語らない画面を見つめていると航太が「アイツも必死だよな」と言った。
「必死?」
「だって、ゆらみたいな女の子って特別だと思うよ」
さらっと言う。わたしはボンッと赤くなって、その顔を見られないように俯いた。
「本家の娘だからね」
「アイツには話してないんでしょう? そういう特別な目で見られたくないって。大学でそれを知ってるのは僕と――」
「優里花」
「そうそう、優里花ちゃんだけなんでしょう?」
長野からせっかく出て来た特権を、逃すつもりはなかった。わたしは”わたし”でいたかった。
「圭一はわたしが本家の娘だって知ったら、どうするかしら?」
「さぁ。でも真面目に結婚の話でも出ない限り、言う必要は無いと思うけど」
「⋯⋯真面目に結婚」
それで圭一がもしも引いちゃったり、逆に財産目当てに走ったりしたら、また航太は圭一をボコボコにするつもりなのかな? それって、なんのため? わたしのため? わたしの家のため?
あの頃は傷ついたわたしのためだと思ったけど⋯⋯大人になった今は、そう簡単なものじゃないと思う。
わたしだってそんなに深く傷つかないかもしれない。
「⋯⋯ねぇ、航太」
「蕎麦できたよ。電話は後にすれば」
「そうする」
スマホは放り出して、座り慣れた航太の家のテーブルに着いた。楕円形のローテーブルはわたしを快く迎えてくれたように思えた。
◇
「送ってくよ。すっかり遅くなっちゃったし」
「⋯⋯」
俯いて、航太の目が見られない。わたしは浅ましい女だ。だって送ってほしいけど、送られたくない。
この、ぬくぬくとした家に閉じこもっていたい。
「航太」
意を決して航太を見ると、眉が下がって心底困った顔をしているのがわかった。はぁ、聞こえないようにため息をつく。
部屋に帰るのは不安だった。もう大丈夫、と今日確認した圭一からの電話が、この後も何回もかかってくるだろう。その度にわたしは圭一を許さなくちゃいけないと自分に言い聞かせる。
なんで? ひとりになっちゃうから。
小さい頃から当たり前のように一緒に育てられて、どうしてここで離されてしまうんだろう? 高校生だった去年と、大学生になった今となにが違うんだろう?
そりゃ、同じ部屋で男女が寝るのはおかしいことくらいわかる。でも、わたしたちはいとこ同士だし、でも――。
いつかは別々の人と人生を歩くことになる。
目の前のクローバーが蹴散らされた幼稚園児のように、自然に涙が滲んだ。
いつか、どっちかが、どっちかを祝うんだ――。
そう思うと、航太の言う通り、早く航太を卒業した方がいい。一緒にいればいた分だけ、きっと別れは辛くなるから。
「タクシーで帰ろうかな」
航太は短い髪の後ろ頭をかいた。意にそぐわない、という顔だった。
「そういう意味じゃなくてさ」
「だって安全じゃない」
「送ればタダだろう?」
航太らしくない大きな声が出て、わたしは彼の目をじっと見てしまった。滅多に見せない感情のブレのようなものが、その瞳の中に見えた。
「⋯⋯タダより怖いものはないよ」
「じゃあ、僕は怖いのかも。ほら、行くよ」
わたしのお気に入りの紺地の日傘は航太に持たれてしまった。まるで人質のように。
そしてなにも言わずに部屋の鍵を閉めると「ごめん、ちょっと強引だった。こういうのは圭一の仕事なんだから、僕じゃ役不足だよな。慣れていかないと」
慣れていかないといけない――。
それが、わたしたちの出した結論だった。
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