第10話 戸惑い

 夜の街はムッとした湿気に包まれて、まだ昼間のような温度だった。じわっと嫌な汗をかいて、ああ、お風呂に入ってきたばかりなのにな、と思う。

 隣で航太はなにを考えてるのか、さっぱり読めない顔で歩いている。


 航太にはどこか清潔感があって、所謂、育ちの良さが目に見えているという感じだった。

 服装の好みもフランク過ぎず、嫌味のないベーシックな装いが多かった。

 例えばTシャツにはシャツを羽織ったし、地元にいる時はハーフパンツよりチノパンが多かった。

 そんな彼を好ましく想う女子はいっぱいいたんじゃないかと、こっちに来て今更ながら思う。

 わたしだって従兄弟じゃなかったら、憧れ⋯⋯てはならない。従兄弟でもそうじゃなくても、航太を男性として見るのはやめなくてはならない。ここで一線を引こうとわたしは決めた。


「ゆら! ボーッとしてたら危ない!」

 急に引かれた手に驚いて、航太が引いた手首を自然に触っていた。

「ごめん、痛かった? 飛ばしてた車がすぐ脇を通ったんだよ」

「ううん、ありがとう」と、なんとなく手が、航太のシャツの裾を握りしめる。航太は不意に振り向くとわたしの目をじっと覗き見て、なにかを確認したのかなにも言わずにまた歩き始めた。

 信号機は青に変わったところだった。

 わたしたちはいつまで経っても黄色のままだ。多分。

 急停止できないなら行ってもいい。

 急停止するきっかけがない。

 無理に行くきっかけもない。

 まっすぐ、交差点を越える。間違いが起こらないように注意して。


「今日はありがとう。すごく迷惑かけちゃって」

「いつものことだよ、気にすんな」

 ポンと頭に手を乗せられる。そんなに身長差ができたのはいつからだったんだろう?

 男の子は知らないうちに筍のようにすくすくと背を伸ばす。そういう知らないところで起こる変化に、わたしはいつも着いていけなかった。

「じゃあ」と鍵を開ける前に手を挙げられて、わたしは「あのさ」と前のめり風に言った。航太が足を止めた時、丁度、電話が鳴った。「出てあげなよ」と当たり前のことだけど、航太は去って行った。

 そう、それが当たり前のことだった。


 ◇


 電話は案の定、圭一からで、こんな時間までなにをしてたのか、やんわり聞かれた。

 わたしは面倒くさくなって、あの後部屋に帰ったけど熱中症気味で今まで寝てたの、と答えた。

 圭一は今すぐ見に行くよ、と言ったけど⋯⋯見てくれる人はさっき帰ってしまった。今一歩、遅い。


 そもそも圭一がわたしをきちんと捕まえててくれたなら――こんなことにはならなかったのに。

 それまで航太のことで悩むことなんかなかったのに。

 当たり前に一緒にいすぎて、感覚が麻痺してたんだ。

『わたしのこと、ほんとにすき?』

『すきだよ。あの噂話は誰かが面白がって広がったもので、本当は一日一緒にいただけなんだ』

『一日中、でしょう? ⋯⋯少し考えさせて』

 電話は切ってしまった。


 ◇


 悶々とする日々が数日、続いた。

 恋愛のことなんかで頭の中がいっぱいになるなんてバカじゃないの、と散々考えた。

 男なんかに惑わされる自分は本当にバカ者だと、何度も思った。

 空調の効いた部屋の中で、田舎から送られてきたいつもはありがたくない蕎麦を、暑い思いをしながら大きな鍋で茹でて、大切なものを失ったことに呆然とした。――心に穴が空いた。


 自分でも不思議なほど、考えるのは航太のことばかりで、圭一とのことがあってから、堰を切ったようにその想いが溢れ出して止めようがなかった。

 今までと違う関係を望んでるわけじゃない。

 でも、航太にほかに彼女ができたらどうしたらいい?

 寝る前に手を握ってくれるのは圭一じゃなくて航太が良かった。竹刀を持っていたゴツゴツした、あの意地悪な先輩を殴り飛ばしてくれたいつもの航太からは窺い知れないちょっと怖い手のひらと指。あの手がいつもわたしを守ってくれたのに。

 なにもかも、遅すぎる。わたしってバカだ――。


 わたしはタクシーに乗って、夜の街を走った。タクシーはジェントルでなかなか目的地に着かない。それでもいつかはたどり着くだろうと、自分を落ち着かせて大人しくネオンや、道行く人々を見ていた。


 事前に電話なんかしなかったので、アルバイトでいなかったらどうしようと料金を払いながら思う。けど、結論は同じで、ここに来て確かめなきゃいけないことがある。

 チラッとみると、運のいいことに窓には灯りが着いていた。

 怒られるかもしれないと頭の中で予行練習を繰り返してエレベーターに乗った。

 エレベーターのドアが開く。

 いつかのようにドアチャイムを鳴らす。チャイムは軽快な音を響かせる。

「はい。⋯⋯ゆら?」

 一瞬の間があって、「開けるから」と言われた。


 ドアが開いた瞬間、わたしは両腕を航太の背中に回した。ずっと一緒にいたのに、あまり知らない航太の腕の中に思い切って飛び込んだ。

「誰かと付き合ったりしないで!」

 何度も考えた台詞はするりと蕎麦のように喉を通った。

 航太は少し屈んで、わたしの耳元で「なんのことだよ」と囁いて、わたしを部屋に招き入れた。


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