第17話 育む

 大学が始まると、加奈子の話題は既に廃れていて、今いちばんホットな話題は、わたしたちが付き合い始めたことだった。

 香田さんは「そうなると思った! 航太の写真って長野が基本だしさ」と言って、優里花は「だから最初からそうすれば良かったのに。くだらない男に遊ばれてさ。あー、わたしが安西くんと付き合いたかったぁ」と言ったので、ほっぺをつついてやった。

『安西くんて普通だよね』がそれまでの評価だったくせに『安西くんて男上がったよね』なんて!


 圭一は二度と目を合わせてこようとしなかった。

 要するに謝罪にはやってこなかった。

 頭には来るけど、謝りに来てボコボコに殴られたんじゃさすがにかわいそうなので、許してやることにした。

 加奈子?

 わたしの世界に存在しない女のことは知らない。


 嘘。

 本当は気になって、ふたりが一緒にいるとつい目が行ってしまった。大体、日当たりのいいところにバーンといるのがどうかしてると思うけど、ふたりはいつも人目につくところでも仲が良さそうだった。

 1ミリも離れず、暑い中腕を組んで歩く姿には少し閉口したけど、それだけふたりの仲は密接なんだと思うと、もう負けを認めるしかなかった。

 そう、悪いのは圭一だけど、負けたのはわたしなんだ。

 あの部屋を思い出す日は少しセンチメンタルな気持ちになる。

 そんな日は航太の写真ばっかりに埋もれそうなマンションに行って、あまり得意じゃないけど料理を作る。

 スマホでアプリを見ながら作ると、わたしでも作れる田舎風の煮物があったりして、長野の味を思い出す。

 お母さんがせっせと送ってくれた野菜はそこで消費された。


 航太は意外に辛口で、もう少ししょっぱい方がいいとか、暑い日は酸味があるといいとか、蕎麦の茹で方がなってないとか小姑みたいなことを言ってわたしを笑わせた。


 よく知った部屋で手を繋いで眠る⋯⋯。

 これは習慣化していて、どっちもなかなか一緒に寝ようと言い出せなかった。

 圭一のことがあったので、航太の方は本当に言い出しにくかっただろう。

 わたしたちは清く正しく、川の字になって眠った。

 どちらかが本格的に寝落ちして手が離されるまで、いささか緊張して――。


 ◇


 9月も終わりに近づき大学に馴染んできた日、航太がわたしを撮影旅行に誘ってきた。わたしは撮影+旅行だと思って小躍りしたい気分だったけど、蓋を開けたらやっぱり長野で、なんだか気持ちが萎えてしまった。

 でも航太はこれまでも1ヶ月に一度は長野に行っていたわけで、誘われるだけでも大きな進展だった。

 どっちにしても、彼氏と旅行なんて行ったことない! ⋯⋯違うか、里帰りか。


『⋯⋯だで、あんた、ちっともこっちに帰ってこないんだもの』

『そんなこと言ったって忙しかったし』

『航太くん、ゆらはアルバイトもしてないって言ってたけど』

 もー、航太って素直というか、嘘がつけないというか。付き合う前の話だからあれこれ言っても仕方ないんだけど。

『帰ってくる日に航太くんに感謝しなくちゃ。ゆらを帰してくれるなんて航太くんはすごいわ』

 プツッ、と切る。

 なになになになに、なにそれー? 実家に行くなんて言ってなかったじゃん。

 タクシー呼んでピンポン繰り返す。

「ゆら、入れよ」


 航太はのんびりした様子で、写真集を見ていた。いろんな写真集があってわたしも心がくすぐられる。

「香田さんのはそこの、空の」

「あ、はい」

 訊いてもいないのに、指さされる。

 空の、4月の空のように薄雲の浮いた空。珍しい。

「へぇー、空しか撮らないのかなぁ」

「基本、そうなんだって」

「会ったら勉強になる?」

「もう少し自分の勉強してからね」

 ふぅん、と難しい話はわからないなぁと思う。わたしとしては不純な動機なんだけど、早く就職が決まってくれると――。


「あ! お母さんに長野に帰るって言ったでしょう!」

「うん」

「なんで!? 嫌だよ、わたし」

 航太は見ていた写真集を脇に置いて、わたしをじっと見た。

「逃げ続けるわけにはいかないよ。僕と一緒なら怖くないよ」

 手が伸びて、誘われる。航太はわたしを膝に乗せた。

「長野をすきになって。僕はすきだよ。山や花もいいけど、諏訪湖もいいし、あの湯けむり、それを囲む街並み、蕎麦も味噌も」

「そういう風に外からの目で見られないんだもの」

「目を開いてご覧」


 航太のキスはやわらかい。わたしの荒んだ心を癒してくるんでくれる。だからわたしはうっとりしてしまって、どんなことも逆らえない。

「わかった。一晩だけだよね、がんばってみる」

「一緒に行ってあげるからそんなに気張らなくていいよ」

「一緒に行ってくれるの?」

「猫をぶら下げてくみたいにゆらの首根っこを掴んで連れてくのは僕しかいないでしょう? ほかの男には無理、絶対。100%無理」

 わたしは笑った。

 そのいつになく強気な自信が頼もしくあり、なにより好ましくあった。

『すき』っていう感情はこうやって少しずつ育まれていくのかもしれない。


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