第18話 帰郷

 久しぶりに見た諏訪湖はやっぱり大きかった。

『海』というものを知った今でも、わたしの中の心の『海』は諏訪湖なんだなぁと思う。

 航太の運転するレンタカーはなかなか快適で、窓の外をキョロキョロ一見いちげんさんのように眺めるわたしを、彼はハンドルを握りしめて笑った。

「ねぇ、あれ、神社じゃない? 違うかな」

「ゆら、落ち着けよ。後で行けばいいし、大体そんなに珍しいものでもないだろう? 県民だろう? ハンドル取られるから笑わせるなよ」

「だって久しぶりに見たんだもーん」

「自業自得」

 助手席から見てる航太の横顔は男らしくて、少しだけ、ときめく。こんな一面があるのを知らなかったから。

 撮影旅行もてっきりいつも電車とバスを乗り継いで行ってるのかと思ってた。いかに航太に目が行ってなかったかを思い知らされる。


 ⋯⋯それって裏を返せば圭一に夢中だったということで。

 上手く行かない時だけ、航太という安全圏に逃げ込んでいたなんて、わたし、本当にバカだな、と思う。航太は横目でかもしれないけど、いつもわたしを見守ってくれてたのに。

 横目でかもしれないけど⋯⋯。

 横目の時、正面にいたのがどんな女の子だったかと思うとヤキモキして止まらなくなるので自制する。

 小さい時からどんな時でも航太はわたしを優先してくれる。それでいいじゃん。

 従兄弟ってポジも都合がいい。4親等だ。3親等内だと結婚できないんだから、いちばん近い人なんだ。


 そう言えば⋯⋯卒業したら一緒に就職先にって、それってやっぱり⋯⋯。

 うわっ!

 意識すると顔がとても見られない。この顔を一生、隣で見てられるなんて――。


「車酔い大丈夫? 一応運転は安全運転だと思うけど」

「大丈夫、快適だったし、怖いこともなかったよ」

「良かった。あんまり隣に他人ひと乗せないから心配だった」

 にこ、とされるとヤラれてしまう。

 うわー、うわー、このひとがわたしの彼氏になったんだって!

 そんな考えはバカっぽいだろうか? わたしたち、案外似てるのに、やっぱり彼は彼なんだ。


 ◇


「航ちゃん、ありがとね。運転、大変だったでしょう」

「僕は車であちこち行ってるから慣れてるので」

「ゆらと来たら『お金は出してあげるから』って言っても免許も取らないで」

「車が無くても暮らせるところにいるからですよ、深い意味は無いんでしょう?」

「⋯⋯車を自分で動かすなんて怖いだけ」

 その場にいたお母さんと航太は大声で笑った。ああ、田舎はやっぱり嫌だ。太いはりがある天井まで声が響く。声のボルテージが航太まで上がっている。

 わたしの声も普段からみんなよりちょっと大きいのかと心配になる。

「皆、免許取ってるんだからゆらにも乗れるよ。じゃあ伯母さん、僕も待たせちゃってるから」

「うちで食べていけばいいのにって言いたいところだけど、かんちゃんのところでも待ってるだろうからね」

 置いてきぼり⋯⋯無情にも航太にハメられた。


 ◇


「ほら、もっと食べなさい。あんたは食が細いだに」

「食べてるって! 大丈夫、心配しないで」

 テーブルの上には山盛りの蕎麦が事もあろうに乗せられていた。普段は食べる機会がなかなかないだろうから、というのが親の言い分だったけど、この夏だけでどれだけ食べたことか。

 しかも山盛りの天麩羅もついている。

 これで食べないでいると大騒ぎになるんだから、食べないわけにはいかない。


「そんでゆらは、航ちゃんといい仲になったの?」

 ⋯⋯箸が止まる。心臓が爆音を小刻みに立てる。

「なんで?」

「だってそれでもなきゃ、こっちに帰ってこないでしょう? 航ちゃんはいい子だし、お母さんは安心だわ。まして『スープも冷めない距離』だから、分家も安心でしょう?」

「なんで? なんで結婚してこっちに戻って来るって信じてるの? わたし、ここにいて嫌な思いたくさんした。『本家の娘』なんて、もう辞めたい! 向こうにいれば誰もわたしをそんな風に呼ばない。航太だってわたしを同等に――」

 バンッ、と大きな音がして、お父さんが箸を置いた。箸が折れたんじゃないかというくらい大きな音だった。


「航太を呼べ」

「お父さん、航太のことはまだわたし、なにも話してないよ!?」

「うるさい!」

「お父さんこそ大概にしてくださいよ。夕飯時じゃないですか」

「航太を呼べ!」


 お母さんが震える手でスマホを取った。廊下に出て話をしてる。ごめんね、ごめんね、と繰り返しているのが聞こえる。

 ああ、大変なことになっちゃった⋯⋯。

 もう、泣きたくなる。


「ごめんください」

「航ちゃん、ごめんねぇ。うちの人が勘違いしちゃって」

「いえ、曖昧にしていいことじゃないんで」

 にこ、とこんな時でもお母さんに笑って見せる航太は大人だなと、自分の子供具合と比べて反省する。

 わたしだってどんな時でも大人っぽく笑っていたいのに、どうしていつまでも子供なんだろう?

「伯父さん、お邪魔します」

「座れ」

「はい」

 わたしとお母さんは居心地が悪い中、固唾を飲んで見守っていた。

「大事な話だ。航太はハタチになったのか?」

「いえ、まだ19になったばかりです」

「じゃあまだ飲めないな」

 沈黙が、途切れ途切れにやってくる。そして引き潮が満潮になる。


「航太、まだちょっと早いと思ってたから言わなかったが、うちのゆらを嫁にもらってくれないか?」

「?」

「えー!? ちょっと待ってよ、お父さん。話ってそういうことなの?」

 皆の視線が航太に集まる。

 わたしだって本当のところ、そこんとこをじっくり聞いてみたいなんて裏切りだろうか?

 あー、もうダメ。目眩がしそう。

 これが夢じゃなかったら、なんだって言うんだろう?


「厳密に言わせてもらえば、ゆらとそういう仲になったわけじゃありません。でも僕はそうしたいと思ってるし、ゆらもそうだと信じています。

 ⋯⋯だけど伯父さん、僕たちに時間をください。僕は今、写真を撮っています。空を見上げると、長野なんて、自分なんてどんなに小さく見えるか。もっと広いところに出て初めて故郷が懐かしくなるんだと思います。

 ――僕は卒業したら長野に戻りません。それで、もし反対されても、ゆらに広い世界を見せてあげたい。広い世界の中で自分がどんなにちっぽけなのか、教えてあげたい。勝手かもしれませんが、卒業したらゆらは僕が責任持って連れて行きます」


 ああ、これは殴られるヤツだ、とお父さん以外は全員思ったことだろう。航太の手が早く出るのは多分、うちの家系だ。

 殴られる――目を強く瞑った。


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