第15話 チョコレートみたいな

「泊まってくれる?」と訊くと航太は一瞬考えてから「いいよ」と答えた。わたしはホッとして、航太にもたれかかった。

 なんだか気持ちが良かった。

 大きな船で大海を旅してるように、身体も心も心地よく揺れていた。

「じゃあ僕はソファで寝るから」

「隣で眠ればいいじゃない」

「⋯⋯それは無神経じゃない?」

「ごめんなさい」

 確かにそうだ、いくらシーツを替えたといってもそんなところに寝たくないのは本音に違いない。

 わたしだって航太の部屋のあのベッドで千遥さんと及んだと聞いたら、嫌悪感でいっぱいになるだろう。


 それが恋なのかな?

 そうじゃない気がする。

 それを乗り越えてでも一緒にいたいのが、恋なんじゃないかな。

 千遥さんをあのベッドで抱いたんだと聞いても、わたしはすぐに航太を嫌いになれない。

 もし泣くんだとしたら、それは悔し涙だ。

 わたしはまだ航太にとっての従姉妹でしかないし、航太を自分のものにしたわけじゃない。

 ⋯⋯なってくれるかなぁ? わたしの『たったひとり』に。


 揉めた結果、床に客用布団を敷いて、わたしはソファに眠ることになった。いつもと同じ布陣だ。

 手を伸ばすと「なんだよ」と言いながら航太は無条件で手を繋いでくれる。温もりに安心する。


「ゆら」

「はい」

 沈黙が暗闇に流れる。

 航太は大切なことを言う時、言葉を噛み締めるように口にする。

 それを知っているわたしはただ黙って次の言葉を待った。

「お願いだからもうバカな真似はよして。浮気したってわかってる男とよりを戻すなんて馬鹿げてる」

「ごめんなさい」

「大体さ、僕たち、放っておいてもいつかの時点で結ばれると思ってなかったの?」

「え?」

 意味がわからなかった。航太が運命論者じゃないと思うし、じゃあなにを根拠にそんなことを言ったのか。

「どうして同じ大学にいる? 伯父さんに頼まれた。『任せた』って。全然上手くいってないけど、ごめん」

「そこは航太が謝るところじゃないよ」

「でもさ、大学に入ってすぐ『付き合おう』ってなんのきっかけもなく言うより、すきになってほしかったんだ、ゆらに――ああ、もうダメだ、恥ずかしくて死ぬ」

 覗くと、航太は繋いでない方の手で顔を覆っていた。わたしもそうしたい気持ちになった。


「全然、航太がそんな風に想ってくれてるなんて知らなかったから」

「言っても信じなかったでしょう? 長野から来たヤツは皆、刺客だとでも思ってて」

「それはそうだったかもしれないけど。でも、航太なら違ったかも⋯⋯」

 繋いだ指の先から恥ずかしさが伝わってしまうんじゃないかと思うと照れくさかった。


「そんなことないよ。それなら沢口先輩みたいな人はいなかったわけだし。⋯⋯それに僕は相手が僕じゃなくてもゆらがしあわせになれるならそれでいいと思ってたんだ。もし僕らが恋に落ちるなら、それは自然発生的なものがいいなって。その通りになったのに、逃げるか、フツー?」

「逃げたわけじゃないよ、ケジメを」

「ケジメを取りに行って、戻ってこないなんてさ。もっと僕を頼ってよ。僕ならゆらのすきなものは大抵知ってるし、ゆらにとって危ないものは事前に取り除くから。だからさ」


 また沈黙があって、言い淀む彼の言葉の続きを待った。

「だからさ、こっちに下りておいで」

 するり、とわたしはタオルケットから抜け出した。それは世界最速だったかもしれない。

 途中、バランスを崩しそうになって慌てて航太が手を出した。わたしは危うく航太の腕の中になんとか収まった。

 するり、と。

「どうですか、お嬢様、下界は?」

「お嬢様だなんて呼ばないでよ。一番嫌な言葉だって知ってるじゃない」

「じゃあ、ただの”ゆら”になりなよ。僕が手伝うから」

「どうやって?」

 航太はわたしの頭を自分の胸の辺りに押し付けた。強い心臓の鼓動が聴こえてくる。ここに彼がいる、確かな証拠だ。

「卒業したら僕の就職先に一緒に行こう」

「そんなことできるわけないじゃない」

「なにも伯父さんたちだってすぐにいなくなるわけじゃないんだし、適当なところで帰ればいい。そうしたらその時は僕は『本家の婿養子』って皆に指さされるようになるよ」


 言葉にならなかった。

 わたしを長野から連れ出してくれる方法を考えてくれる人がいたなんて。

 しかもそれが小さい時から一緒にいた航太だなんて。

「もし叶わなくてもその言葉だけでうれしい」

「叶うよ。叶えてみせる」

「⋯⋯それってさ、千遥さんの?」

「まだこだわるかなぁ? 千遥はお母さんとこっちにいて、香田さんはここから3時間はゆうにかかるところに事務所を持ってる。両親が離婚したんだ」

「そうなんだ」

 はぁっと短いため息をつくと、航太はもうひとつの話をしてくれた。

「千遥には強力な婚約者がいて僕は到底勝てないよ。すごく立派でやさしい人なんだ」

 それって、やっぱり千遥さんのこと、結構本気みたいに聞こえるけど、それでもわたしたち、自然発生的に恋人になれるのかな?


「言っておくけど! 千遥とゆらは似てるんだよ。なんだかふらふらして危なげで。見ててあげないと絶対転ぶタイプ。じゃなきゃ――」

 わたしは航太の胸から顔を上げて「黙って」と言った。

「わたしには航太がいてくれる。それでよかった」

「⋯⋯そうかな?」

「困った時、助けてくれるのはいつもきっと航太だもん。これから圭一のことでいろいろ言われたら」

「矢面に自分から立つよ」

「ほら」

 わたしからキスをする。最初の雨粒の一滴のように。航太はわたしの両頬をがっちり押さえて、甘く深いキスをした。

 それはもうわたしたちがただのいとこ同士ではなくなった証だった。

 初めてのキスじゃなかったけど、わたしたちを取り巻く空気感が全然違う、清浄なものだったから。


「どこでこんなにキスが上手くなったの?」

「さぁ。練習して待ってたからじゃない?」

「練習って!」

「ゆらが散々待たせるからだよ」

 航太の女の子のことなんて、確かに気にしてなかった。それを聞くと自分が悪かったような、航太が狡かったような判然としない気持ちになった。

「いいじゃない、昔のことは。こうしてゆらのために練習してきたんだからさ」

 嫌ってほど上手いキスが蕩けるようにやって来る。頭の中がすべてチョコレートになったんじゃないかと思うくらい、すべてを忘れさせるキスだった。

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