第11話 キス以外だって

 胸の鼓動が、まさに早鐘を打って、想像の上を行く展開に膝が震えた。

 航太ひとりだったせいか、寝るつもりだったのか、部屋はダウンライトだけで薄暗かった。


「またお前はこんな時間に」

 しゅん、となる。怒られるのは目に見えてたけど、いざそうなるとガッカリする。

 でも外から見たらわたしのしてることはめちゃくちゃなので、怒られても仕方ない。仕方ないんだけど⋯⋯航太のボディソープの香り。わたしのよく知る香り。

 すん、その香りが鼻孔をくすぐる。

「仕方ないなぁ。歩いて送っていくにはもう遅いだろう?」

「⋯⋯タクシーで帰るもん」

「帰るの? 麦茶くらい飲んでいけば?」

 さっきまでのことが嘘のように、するりと身をかわすように航太はわたしを離した。

 自分で自分を抱くように、顔を赤くしたわたしは小さくなった。


 カランカラン、とキッチンから氷の音がして、航太は両手にグラスを持って戻ってきた。とりあえず座って、お気に入りのビーズクッションをギュッと抱く。

「⋯⋯怒ってる?」

「怒ってるよ、こんな時間に。無軌道なのもいい加減にしろ。これじゃ24時間心配しないといけないよ。 まったく夜中に女の子ひとりでタクシーなんか呼んで」

「勇気出した!」

「⋯⋯いらない勇気」

 ボソッと呟かれて、やっぱりさっきのは玄関先で喋ると近所迷惑になるからだったんだと理解した。

 とんだ勘違い。

 恥ずかしくて顔が上げられない。


「ゆら」

 這うように航太は近寄ってきて、動けばどこがが当たりそうな近距離まで来た。今度はなにが起こるんだろう、と思うと、妄想ばかりが膨らんで身じろぎもできない。

 航太の手が、そっと上にあがって、わたしの耳の下辺りに差し込まれる。髪がくすぐったい。

 顔が、少しずつ、少しずつ、少しずつ、近づいて、航太の二重瞼がそうっと⋯⋯。

「ダメだ」

 ふぅーっと彼は下を向いた。手は、そのままだった。

「やっぱり無理だよ」

「どうして?」

 食い気味にわたしは言った。


「だって壊れちゃうだろう? 今までずっと大切に守ってきたものが。

 僕がどれくらい大切にしてきたかわかる? あの沢口とかいう男が出て来た時には僕も女の人と付き合ってみた。ずっと部活で一緒だったけど、あんまり顔を出さない感じの人。

 僕はいつも疑問を持っていた。その人を初めて抱きしめた時、初めてキスをした時、どんな時だってゆらも同じことをあの人としてるのかなって」

「ちょっと待って。そんなこと聞いてないし、そんなことしてないよ。先輩はサイテーだったけど、そういうところは紳士的だったもの」

「じゃあ僕の考えすぎだった?」

「全部その人にあげちゃったの? 本当にすきでもないのに」

「⋯⋯どう思う?」


 唇が、妙に艶めかしい。

 ファーストキスってこんなに変に冷静に受け止めたかしら? そう、わたしは今、冷静で、ただその時を待った。

 目を伏せる。

 待ち望んでいた瞬間が訪れる。

 なるべくしてなるものだと、頭が告げる。


「⋯⋯⋯⋯」


「しないよ、なんにも」

「なんで? 航太、わたしをすきでしょう?」

「言ったじゃないか、失恋したばかりだって。ゆらだって圭一とちゃんと別れてないだろう? 今日コンビニにふたりで来たって鈴木が教えてくれた」

 レジにいたのは鈴木くんだったのか。制服を着てるとわからないものだなぁ。航太も同じだろうか?

「⋯⋯正直、圭一のことはよくわからないの。どうしていいのか」

「それはゆらが決めることだから、僕にはちょっとなんとも言えない。例えばゆらは圭一が死地に赴いたとしてと、止めない?」

 想像する。

 圭一が二度と戻れない場所に行ってしまう。わたしはきっと惨めったらしく泣いて、引き止めるだろう。

 明日誘われたらお断りだけど、そういうシチュエーションならベッドも共にするだろう。


「わたし、圭一のこと、本当にすきなのかな? すきって言われたからすきなのかも。そんなの子供みたいじゃない?」

「それもありじゃないの? 求められてるんだから最高じゃない」

「⋯⋯でも、もしわたしが求めてるものと違ったら?」

 航太は肩肘をついて「わからないな」と言った。

「ゆらの求めるものってなに?」

「それは”こ”⋯⋯恋だよ。大切なのは気持ちだもの」

 自分の発言にびっくりする。なにを言おうとしたんだ、今。ちょっと待って、混乱する。

 わたしが本当に欲しいのは、恋だ。誰かを欲しいと強く思う気持ち。

 圭一の浮気は許せない。頼まれたからってわたしをって思って浮気したんじゃないの?

 馴染んだ手をした男だって、信用できるわけじゃない。


「ゆら⋯⋯お前、名前の通りだな。伯父さんはなにを思ってこんな名前を」

 ごく自然に降ってきた。雨粒の、最初の一滴のように。

 航太の唇はわたしを傷つけない程度に重くてやさしかった。わたしは驚いて固まってしまった。

「失恋したのは本当。でも向こうの彼氏には太刀打ちできないし、そもそも千遥をすきになった理由が不純だから、彼女のことはノーカンにしてほしい」

 頭の中で航太の言葉がぐるぐる回って、電波の悪い電話みたいにぐちゃぐちゃになった。

 求めていたかも。

 欲しかったのはこれだったのかも。

「もう一回して。確かめたいの」

「⋯⋯悪いけどここまで。僕にはこれ以上の勇気がないよ。今までだって泊めてあげても手を出さないように、布団の中で手を繋いでも手を引かないように、ゆらがシャワー浴びていてもその音を聴かないように、どれくらい我慢してたか――」

「――我慢」

「押し倒されたかった?」

「わかんないよ、いきなり言われても」


 航太はわたしの後ろ頭を強引に引くように顔を寄せると、今度はもっと濃厚なキスをした。

 嫌ではなかった。でも不思議と、これでいいのかな、と思った。わたしは大きな間違いをしてるんじゃないかと。

「ん⋯⋯」

 そのキスは長かった。

 千遥さんも圭一も、遠いところにポーンと行ってしまった。

 頭の中は航太一色になって、身体全部が航太に染められていくような気がした。

 唇が離れようとした瞬間、このまま終わっちゃいけないという気がして、自分からもう一度、むようにその唇を挟んだ。


「ダメ、終わりだよ」

「どうして!?」

「僕たちはそういう仲じゃないじゃないか。少なくとも圭一と話をつけておいでよ」

「航太はすきじゃない人でもキスするの?」

 彼は俯いて、なにかをほんの数秒考えていた。そして――。

「するよ。キス以外だって。従姉妹とだってするくらいなんだから」

 わたしは泣いた。「酷い」とか「あんまりだ」とか散々な言葉を並べたかもしれない。それでもなんでも自分があまりに馬鹿らしくて。

「帰る!」

 ゆら、と後ろから呼び止める声がした気がしたけど、わたしは振り向かなかった。タクシーを呼んで早く部屋に帰りたい一心だった。










 

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