第3話 本家の娘
「おい、ゆら、起きろよ」
うーん。誰かに体を揺さぶられて、いい夢は霧散した。いい夢? じゃあ目尻に残るこれはなんだろう?
セミの声が元気すぎる。カーテンの隙間から漏れる光が熱い。何時だ、今は?
「ふにゃ」
「もう! いつもこうなんだから! お前、朝、弱すぎ」
「うー、航太かぁ。寝かせておいてぇ」
んーん、と航太は唸った。
考えてる。
その顔をベッドから寝たフリをして盗み見てる。
「じゃあ、目が覚めるまで寝てていいから、鍵はいつも通り」
「了解」
「元気じゃん」
「⋯⋯」
「ごめん、意地悪だった。じゃあ行ってくる」
航太はわたしの肩までの髪をわしゃわしゃすると部屋を出て行った。⋯⋯どこへだ?
まぁいいや。とにかくもう少し寝よう。どろどろがシチューみたいにとろとろになるくらいまで⋯⋯。
意識が、次第に滴り落ちる水滴のように、心の底に落ちていく⋯⋯。
とにかく寝よう。なんか、疲れてるから。
◇
「ゆら! おい、ゆら!」
「にゃー」
「にゃーじゃない。お前、ここ、僕の部屋だから」
ああ、また航太の部屋だ。どうなってるんだろう? なんで目が覚める度に航太の部屋にいるんだろう?
「⋯⋯引っ張って」
両腕を上げる。航太は「仕方ないな」といった顔でわたしの両手首を掴んで、上半身を起こした。
「おはよ」
「お前さぁ、ひとが労働してきた後に『おはよ』はないだろう?」
「え!? 労働? 航太が?」
航太は恥ずかしそうに後ろ頭に手をやって、視線を逸らした。
「バイト。夏休みから始めたの」
「えー!? 全然知らなかった! なんで教えてくれなかったの?」
「だってお前、絶対、突撃してくるもん」
当たり。
絶対見に行っちゃう。
「バイト始めたばかりなのに、よくお盆休み取れたね」
「元々、鈴木の紹介だったし、帰省できるのが条件だったから」
「へぇ、労働か。ゆらには無理かな?」
「なんで?」
「他人のためになにかをする元気がない」
航太は変な顔でわたしを見た。見下されてるような気もしたし、気持ち悪いものを見るような目つきのようにも思えた。
つまり、気持ちのいいものでは決してなかった。
労働――額に汗して働くこと。
今のわたしにはとても無理だぁ。
「つーか、お前帰れよ。お前の分の夕飯ないぞ」
「えー? かわいい従姉妹じゃん」
「お前さぁ」
急に顔を寄せてくる。焦る。二重がはっきり見える位置。
「普通、異性のいとこ同士はどっちかの部屋に泊まったりしないんだよ」
「我々は『異性人』だ」
キャハハとひとりで笑っていると、航太はまたもや深いため息をついた。そんなにわたしって、ウンザリするヤツなのかとドキッとする。
航太に嫌われたら、マジで行くとこ無くなる。
女友だちがいないわけではなかった。
でも何故か、心のどこかで拒否するところがあって。
なんでかな? 昔、『本家の娘』って散々陰口叩かれたからかもしれない。
同じ学科で数少ない女友だちの
「『本家の娘』って、そんなにすごいものなの?」
「⋯⋯まぁ、安西の本家はうちしかないわけだから。本家っていう家はたくさんあるんだけど、安西は昔、大地主だったらしいのね」
「じゃあアンタと結婚する男は苦労するね。まずは婿養子でしょう?」
昔を思い出す。
ああ、そんなこと、それまで考えたこともなかった。どおりで男の子たちはわたしを避けるわけだと気付いたのは高一の冬だった。
◇
そんな男子の中でも沢口先輩だけは違って、「沢口は本家の娘と付き合ってるらしいよ」と言われるようになってもなにも文句ひとつ言わなかった。
いつも笑顔で「ゆらちゃん」と呼んでくれて、繋いだ手は冬でもほんのり暖かかった。
でもわたしは聞いてしまった。
帰りの約束をしていた日、少し早く終わったので先輩の部屋に迎えに行った時のことだ。
先輩のクラスも丁度終わったところで、担任はドアから出て行った。先輩は友だち数人と話をしていた。割って入るのも悪いかな、と思って、扉に背中を任せて待っていた。
「⋯⋯沢口も大変だよなぁ」
「なにが?」
そうそう、先輩はそんなことでめげたりしない。
「ゆらちゃん、かわいいけどさぁ、オレは婿養子なんて立場弱そうで嫌だけど」
うんうん、そんな男、こっちからお断りなんだけど。
「なんで? ゆらの家、俺ん家よりずっと裕福だし、財産全部もらえるんだぜ?」
だぜ?
なんだって?
それ狙いかよ、だって?
え? え? え?
「沢口くーん、彼女来てるよ」
じゃあね、ゆらちゃん、と知らない女子の先輩が手を振って帰っていく。頭をぺこっと小さく下げる。
「ゆらちゃん、待たせた?」
「⋯⋯」
「ゆら?」
わたしは先輩の脛を思いっ切り蹴り飛ばした。
先輩は怒って、その右手を振り上げた。
わたしは叫んだ。
「財産目当て!」
⋯⋯右手は上げられたままだった。
わたしは大きな声を上げながら、3年生の廊下を走って逃げた。
わー、と泣き叫ぶわたしを「ちょっと待てよ!」と掴む腕があって、先輩が追いかけてきたんだと思ったわたしは無軌道に手を振り暴れた。
廊下を行く人たちが、みんな、わたしを見てる。なにしろわたしは『本家の娘』で有名人だったからだ。
「ゆら!」
⋯⋯その腕は航太だった。
「なにがあった?」
ひっく、ひっくとしゃくり上げるわたしの背中を擦り、持っていたミニタオルでわたしの顔を丹念に拭いた。
「先輩が」
「沢口先輩?」
頷く。
言えない。言ったら認めなくちゃいけない。これが現実だってことを――。
「先輩がどうしたの?」
ふい、と顔を逸らす。
「言いたくない」
ポン、と航太はわたしの頭に手を乗せた。
そこへ先輩が運悪くやって来て、「違うんだよ、冗談だよ」と言った。「来ないでよ、財産目当てのくせに」
フルスイングだった。
それでも先輩は航太が竹刀を持ってなかったことを喜んだ方がいい。頭をかち割られるから。
「どんな理由でも、ゆらを泣かせたら許さない」
その毅然とした態度にわたしの心は震えた。そして、言えなかった言葉が口からこぼれた。
「婿養子で財産目当てだって。今もう学校中の噂になってるよ」
航太はいつも荒ぶったりしない。日本武道をやっている身として、冷静さを欠かないように常日頃から気を付けてるからだ。
その航太が馬乗りになって、先輩をめちゃくちゃに殴り始め、先生たちも集まって、大変な騒ぎになった。
うちの親も、航太の親も先輩と先輩のご両親に謝罪した。
それだけ。
それだけで十分だった。
わたしが長野を出ることになった理由は。
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