第13話 ノーカン

 最高気温、予想は32度。

 昨日より下がったのでランチに誘われた。

 やましいことがあるので奢ってくれるらしい。

 お店は会ってから決めればいいんじゃないかな、と答えた。駅前で会う約束をして、支度をしたわたしは日傘を持った。


 圭一はポロシャツにチノパンというスマートなスタイルで現れた。考えてみると、この男の服の趣味は航太に非常に似ていた。さっぱりとした清潔感のあるスタイル。そんなところもわたしを魅了した要素のひとつなのかもしれない。


 デパートはど真ん中の12時に行ってしまったせいで、どの店にも入り口前に待ち列のイスとメニュー表が並んでいた。もう少しどこか見てから戻ってこようかと、お腹の虫をなだめて圭一と手を繋いでエスカレーターを下った。

 時間つぶしだったので、面白がっていつもは見ない高級な食器の階を見ていた時だった。

 ふと、聞き覚えのある声がして、振り返った。

 そこには千遥さんと航太がいた。小さな画廊の写真展で、ふたりは同じ写真の前でなにか話をしていた。

 小さな痛みが胸を刺した。

『ノーカン』。その言葉を信じた自分を呪った。


 圭一は航太と同じ写真科のくせに個展は素通りで、ひとり立ち止まったわたしの名を呼んだ。

 ハッと圭一を見て、画廊を見ると、千遥さんが「ゆらちゃん」と手のひらをひらひらさせていた。航太はなにも言わなかった。少なくともふたりは手を繋いでなかった。わたしたちは手を繋いだままだった。それを航太に見られたのかと思うと不安になった。

「わたしの、そのぉ彼氏がね、仕事が忙しいって言うから航太に頼んで来てもらったの」

「僕は香田さんの写真のファンなんだよ」

「そうなの、これパパの写真の個展なんだけど、航太ときたら、卒業したらパパの弟子になりたいとか言うんだよ。パパの会社、つまりわたしの地元だけどここから3時間はかかるのね。都内の会社の方が勉強するにはよっぽどいいと思うんだけど」

 うるさいな、と航太はわたしたちから目を逸らした。大体、千遥はお喋りなんだよ、と言った。


 ああ、ここにはわたしの知らない航太がいるんだと思うと切なさが胸を締めつけた。わたしの知らない航太は、わたしの知らないところに行ってしまうのか――。

「行こう」

 圭一の手を強く引いた。

「え、せっかくだから見て行こうよ」

「千遥さん、ごめんね。ランチまだで」

「そうなの? わたしたち、混む前に食べちゃったからご一緒できなくて残念だなぁ」

 その言葉が残酷だった。航太の話はどこまでが本当だったんだろう? ノーカン? そういう風にはとても見えなかった。

「また今度4人でお茶でも」

 千遥さんは屈託なく笑った。


 ◇


 エスカレーターはX字を描いて、上へ下へとわたしたちを運ぶ。

 わたしたちはさっき行った上層階に戻った。

「それにしても千遥のパパが写真家だなんて知らなかったなぁ」

「有名な人じゃないの?」

「少なくとも俺は知らないな」

 なにが食べたいか尋ねられる。なんでも良かった、蕎麦以外なら。

 不思議と糖分が欠如している気がして、デザートにごてごてしたフレンチトーストの店を選んだ。圭一は「どこでもいいんだよ」とにこにこしていた。


 ふたりで食後にごてごて飾りつけた、ボリュームのあるフレンチトーストを頼んだ。メープルシロップは小さなポットに入って別添えで、生クリームも山ほどプレートに盛られていた。

 デザートとは言え、とても食べ切れると思えなかったので、シェアするための小皿を頼むと、店員は慣れた様子で「かしこまりました」と言った。

 人気店なのか、時間をずらしたのにまだ客は多く残っていた。

「ゆらにはクリームの多い方をあげようね」

「ありがとう」

 生クリームとメープルシロップがすきなので、これでもかという量を食べた。こってりして見えたフレンチトーストも、見た目以上に美味しくてまた食べたくなった。

「ずいぶんよく食べたね」

 圭一は手を伸ばすと、紙ナプキンでわたしの口の端を拭いた。


 遠いところから見ると、つまりわたしは圭一に甘やかしてもらってばかりで、それが心地良かったんだと気付いた。

 だとしたらそれは『恋』という名の幻想で、求めて止まない『恋』ではないんじゃないかと、お会計をしている圭一の背中を見ながら思った。

 それは圭一に対する酷い裏切り行為のように感じた。本当にでもないくせに、恋に恋して彼を独占してる――いいわけがない。

「ねぇ、今日は寄ってく?」

 もしかすると声が震えていたかもしれない。でもそれくらいしか、わたしにできることはないように思えた。

「⋯⋯いいの? 本当はまだ許せないでいるんじゃないの?」

「まだ彼女のこと、覚えてるでしょう? 全部、書き換えたいの」


 ◇


 わたしは本当になにをやっているんだろう?

 キャミソールの肩紐を外しながら黙々と考えていた。

 圭一が背中にキスをして、そっと、もう片方の肩紐を外す。

 ついこの前まで当たり前だったことが、わたしには重い。

「まだ心の準備ができてないなら、今日じゃなくてもいいんだよ。待つのは俺の責任だから」

「⋯⋯加奈子は良かった?」

「ゆら⋯⋯」

「教えてよ、どんな風に抱いたのか。わたしを同じく抱いてみて!」

 圭一は戸惑ってるように見えた。それはそうだ。ベッドで浮気を再現しろだなんてあんまりな話だ。

 でもどうでも良かった。

 航太が千遥さんと並んで顔を寄せているのを見た時、バカな感情は捨てようと思い立った。⋯⋯感情豊かな航太の笑顔。それはわたしだけのものにはならないんだ。

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