ゆるりゆらり

月波結

第1話 失恋、心に刺さる

「じゃあ今までありがとう。さよなら」


 圭一は最後、わたしの顔を見なかった。伏せ目がちに顔を背けて、腕を組んだ姿勢で玄関に立っていた。

 別段、それが気に入らなかったわけじゃない。予想内の行動だから。

 でも、こうなってしまったことについての原因を考えると、どうしても胸を掻きむしるような強い痛みを感じた。

 わたしを引きずろうとするなにかを振り払って、ドアノブに手をかけた。

 瞬間、彼の視線がわたしの視線と触れる。

「あ」と思った時、これでほんとにいいのかなって思った時、マンションの重いドアはガタンと閉じた。

 やっちゃったな、と思うと、情けないことに涙と鼻水がとめどなく流れてきて、ポケットティッシュが足りるかしら、と不安になる。

 不安に、なる。


 ◇


 ピンポーンという音は、冴え渡る青空に高らかに響いた。もちろん閉じられている部屋の中にも。

 どこにも出かけてないのは承知してる。だからアポ無しでやってきた。

「はい」

「わたし」

「⋯⋯! 何しに来たんだよ?」

「いいじゃん、とりあえずドア開けてよ」

 カチャカチャと金属音が響いて、ガチャンと扉が開いた。航太こうたは驚いた顔をして、わたしがよっこらしょと部屋に持ち込んだ荷物を見ていた。

「お前⋯⋯なにそれ?」

「荷物。ね、今夜泊めて! お願い! お風呂も洗うしご飯も作るから、お願い!」

 正座をして額が床に着くくらい頭を下げた。いけない、涙が一粒、床にこぼれた。


「お前さ、彼氏の部屋から家出してきたのかもしれないけど、自分の部屋に帰ればいいじゃん」

「やだよ」

「なんでだよ」

 くっ、と一瞬息が詰まる。口に出すのが憚られるから。

「⋯⋯さみしいじゃない? ひとりって」

 航太は大袈裟なため息をはぁーっとついて、さっきの圭一のように腕組みをした。お説教タイムが始まるのは目に見えていた。


「僕、長野帰ってきたとこだけど、お前が全然帰ってこない上にマンションにも帰ってないみたいだって心配してたぞ。たまには叔母さんに連絡くらいしろよ」

「電話かかってくるよ」

「当たり前だよ、娘だから心配なんだろう?」

 

 わたしはママのそういう昔っぽい考え方があまりすきになれなかった。ママのお腹から出てくるのが別の子でも良かったんじゃないか、いや、寧ろその方がママにはしあわせだったんじゃないかとそう思わされた。

 つまりその言葉の鎖は、いつもわたしには重荷だったので、航太の言葉にはげっそりした。

「⋯⋯わたしもそのうち長野行くよ」

「そうしろよ。⋯⋯飯食ったの?」

「あー、朝、トーストを」

「蕎麦茹でてやるから顔洗ってこい」


 ◇


 へいへい。

 わたしと航太はいとこ同士だ。

 航太はわたしと違って昔から多彩で、なんでも器用にこなすいい子だった。

 お盆の法事の時だって、わたしが境内の砂利で黒い靴を真っ白に染めていた時、航太はきちんと畳の上で正座をして、お経を聞いていた。

 あれは、いくつくらいのことだろう――?

 どちらにしても、それが現実にあったことだ。

 そんな訳でお盆なんか大嫌いだったし、長野にこんな時期に帰るなんて真っ平だった。


 キッチンで鍋を火にかけて航太は戻ってきた。冷蔵庫から氷の入った麦茶を一杯持って。

「いつも言ってるけど、今回だけだから」

「うん」

 いい子って本当にいい子だと思う。いつも結局、受け入れてくれる。

 航太はまた大きくため息をついた。

「今回の喧嘩はいつもよりひどかったの? 顔にそう書いてあったけど」

 じーんと足が痺れた時のように、心も痺れる。ほんの少しも動かせないくらいに。

「⋯⋯別れた」

「別れた? 圭一と?」

 微妙に航太はこちらに身を乗り出した。

「う、浮気された」

「浮気!? マジかよ! アイツ、許さない」

「航太が怒ったって仕方ないじゃん。浮気されるだけ、わたしがうかうかしてたってことでしょう?」

 ああもう、と航太は脱力するように言った。こういうところが、わたしが弱くなった時に航太のところに来てしまう理由のひとつなんだ。


 航太はいい子で、それにずば抜けてやさしかった。

 わたしはこの従兄弟が大すきだった。


 ◇


「なんだよそれ。お前もお前だよ。テニサーなんかに入ってる男と付き合うから」

「でも女の方もおかしかったもん。ふたりで歩いててもすっごい遠くから『ケイイチくーん!』とか手、振って走ってくるの。怖くない?」

「⋯⋯泣きながら話すなよ」

 よしよし、と航太はわたしの頭を撫でた。その手は子供の頃、繋いだ手と同じとは思えない大きな手だった。わたしはすっかり安心して、まるで自分の布団に入ったような気持ちになる。

「あのね」

「ん?」

 同情の色が濃く浮かんだ航太の瞳は、なぜかわたしのおしゃべりな口を黙らせた。なんでもない、それだけ言って「お鍋沸いてるよ」と言った。


 地元の蕎麦は年中食べさせられていたので、はっきり言って大嫌いだった。げ、と思ったけど、航太は茹でるのが上手なようで、つるつると滑る蕎麦はわたしの胃の中に吸い込まれるように入っていく。

 蕎麦にはきちんと刻みネギと山葵、海苔が添えられていて、まるでお店のようだった。

「珍しくよく食べるな」

「泣いたからね」

「泣くとお腹が空くのかぁ。なんとなくわかる気もするなぁ」

 航太はそう言うと頭の後ろに手を組んで、天井を見上げた。なにを考えてるのかは窺いしれない。

「泣いたの?」

「泣かないよ。⋯⋯いや、泣いたかも、ちょっと」


「なにその中途半端な話。ちゃんと聞かせなさいよ」

「やだよ」

「わたしの話は聞いたくせに!」

「勝手に転がり込んだくせに! ⋯⋯ちょっといいなって思ってた子に失恋した」

 山葵が鼻にツンとした。

 目に涙が浮かぶ。

 ちょっといいなってどれくらい? 失恋なんて言葉を使うくらいだから、きっと。

「航太も悲しかったね」

「うーん。心に風穴は開いたかなぁ」

 風穴か。それは相当痛いはず。わたしは自分の立場も忘れて、蕎麦つゆを倒さないよう気をつけて手を伸ばした。

 その頭をよしよしする。航太は意外なことに頭を下ろした。そして「たまには慰め合うのも悪いもんじゃないな」と言った。

 その言葉はわたしの心にズキンと刺さった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る