無感情少女の変化


 深夜になって殆どの人々が寝静まる時間帯、灯りが消されて暗くなったジードの私室の壁際に置かれている大きなソファの上で、ベルは布団に包まりながら自分の手をジッと眺めていた。

 ベルは基本的に、過去の事を振り返らない。これまでの人生を思い出し、感傷に浸るような感情を持ち合わせていなかったからだ。

 そんなベルだったが、今日は珍しく過去の事を振り返る。理由は自分でも分からないが、気が付けばただ何となくそうしていた。


『ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……っ』


 ベルの記憶の根底にあるのは、いつだって母親が泣きながら自分に謝っている姿だった。

 なぜ母が謝っているのか、それは単に思い出せていないだけか、はたまた自分には理由が理解できていないのか……ただ何となく後者が正解だったのではないかと、最近になって思う。

 これまで読み漁ってきた本に書かれていることと照らし合わせれば、生まれた瞬間からまともな布もなく、固くて冷たい石床で寝起きし、腐った残飯を与えられてきた自分は哀れな存在であるというのが一般的らしいから。


『せめて……せめて貴女だけは……』


 それはベルと同じような境遇にいた母も感じていたことなのかもしれない。なけなしの布を、食事を自分に与えて、娘が少しでも飢えて凍えないようにしていた。

 その時に自分がどう感じていたのか、母の事をどう思っていたのか、それはもう何一つ思い出せない。

 どれほどの年月が経ったのか、気が付けば母は骸になり、自分の父だと名乗る王に無理矢理神殿のような場所に連れて行かれて……そこからは、殆ど記憶が失っている。


 ――――ただ血がたくさん出て、猛烈に痛かった……そう感じた気持ちだけが残っていた。


 具体的に何をされていたのか、何も憶えていない。ただ血が出るような事という事は、世間でいうところの凄惨な目に遭っていたのかという事だけは、最近になって分かった。

 とはいっても、そのことに対してベルが感傷を抱くことはない。失われた記憶に対して、執着も恐れも抱けなかったからだ。

 結果として、次にベルが意識を取り戻した時には見ず知らずの場所にいて、目の前には首輪を持った糸目の男がいた。


『ふむ……出自は些か怪しすぎますが、人材はいくらあっても困りませんし、幼い内から育てれば優秀な手駒になるでしょう』


 そう言った男は手に持っていた首輪をベルの首に着けた途端、せっかく浮上した意識が再び暗い闇の中に沈んだ。

 全身の感覚はなく、意識も無い。自分がどこにいて、何をしているのかも分からない。まるで眠っているのと同じ状態でいると、バキンッ……と硬い何かが甲高い音を立てて壊れる音と共に、ベルは目を覚ました。


『見ての通り、お前は俺に負けた。お前の生殺与奪は俺の匙加減一つってわけだが、その前に色々と聞きたいことがある。嘘偽りなく答えろ』


 寝起きと同時に、自身の両腕のを巨大な竜のそれに変化させた少年……ジードに自分の全身を鷲掴みにされて拘束された状態だと気が付いた時も、ベルは特に感情が揺さぶられるようなことはなかった。

 どうやら自分は意識が無い内に武器を持ってジードに襲い掛かっていたらしく、事情の説明を求められたが、それに答えられるだけの記憶を持ち合わせていないことを告げると、ジードは深い溜息を吐きながら呟いた。


『ていうか、何でそんなにされるがままになってんだよ……』


 言葉の意味が分からなかった。自分がこれまで辿ってきた人生に疑問を抱いたことが無かった……寒いのも痛いのも飢えるのも、自分にとって当たり前の事だったから。

 しかし、されるがままと言われたらその通りなのかもしれないと、薄っすらとだが言われて初めて自覚する。誰かに言われるがまま、されるがままに流されるような生き方しかしてこなかったのは事実なのだ。


『…………それ以外、何も知らないから』


 だからそう答えた。誇張でも自嘲でもなく、そういう生き方しか知らないのが事実だから。

 するとジードは顔を歪めてしまい、ベルはなぜ彼がそんな顔をするのかが理解できずにいると、ジードはこれからは自分の目的の為に協力するようにと言ってきたのだ。

 今までそうしてきたように、言われたからそのようにすることにしたベルは、ジードの住まいである大きな屋敷に連れてこられた。

 そこで自分が己の名前すら忘れていたことを知ったジードは、呆れたような顔をしてから自分に名前を付けることになり、悩むような素振りを見せながら、窓から見える白い花を見ながら告げる。


『ベル……お前の名前はベルでどうだ?』


 そう名付けられた時、ベルは少しだけ不思議な感覚を味わった。

 まるで全てが他人事に思えたこの世界に、自分が確かに存在しているのだと認識てきたような……そんな抽象的な感覚を。 


『とりあえず、風呂入って飯食って寝ろ。話はそれからだ』


 そこからジードに言われるがままに体験したことは、ベルにとって何もかも初めてのことだった。


『おい、床で寝るな。そこのソファ貸すから、今日からはそこで寝ろ』

  

 今まで通り硬い床で寝ようとした自分を止めてジードに放り込まれた、全身が沈み込むような寝床の柔らかさも。 


『今日も訓練で汗かいたろ。俺は後でいいから、先に風呂入ってこい』


 何時も埃と汗に塗れていた体を心地よく洗い流す湯の温もりも。 


『ぶはぁぁっ!? か、辛ぁっ!? な、何じゃこりゃあっ!?』


 何よりも、揺らぐことのなかった感情を揺さぶった、激辛料理の味も。

 そんな風にジードと積み重ねてきた時間の全てが、自分にとって決してどうでもいいことでも、興味がないことでもないのではないか……そう思い始めたのは、《アウロラの霊廟》での戦いの時だった。

 あの時、自分を庇うように割り込んだジードをボーンナイトが傷つけた時、ベルの心臓の鼓動は早くなった。横腹から流れる血を見た時、ベルの全身からは確かに血の気が引いたのだ。

 その感情を口でどう言い表せばいいのか分からず、とりあえず『気になった』と口にした時、ジードは言った。


『別に悪い事してるわけじゃないしな。気になることがあるんだったら見ても良いし、考えても良いし、何なら人に聞いてもいい。ベルの判断で好きにしな』


 そう言われて、ベルは色んなものに疑問を持つようになったのだが、差し当たって一番の疑問の対象はジードそのものだ。

 ロマン砲なる不合理の極みのようなものに絶大な関心を寄せ、その為にはいかなる労力を厭わず、メリットよりもデメリットの大きなスキルを使って敵を倒すと悦に浸ったような顔になるところも謎だが、それ以上に、自分がジードの事に興味と関心を抱くようになった事実そのものが、ベルには気になった。

 

 辛い辛いと言いながらも、ベルと同じものを食べて同じ体験と時間を共有した時も。

 訓練として雇い入れた指南役の冒険者と模擬戦をしたり、二人きりで向かい合って稽古をした時も。

 ジードが自分のおすすめの本を持ってきて、読み終わった後に互いの感想を言い合った時も。

 

 そういう時間を積み重ねる中で、自分がジードに対してある種の関心を抱くようになったのではと、そう自覚したベルはある日、家族に関する話題をジードに振った。

 結果だけ言えば、ジードは答えられなかった。彼も自分と同様、家族の事を考えるには、家族との接点が少なかったのだ。 

 それを聞いて『自分も同じだ』と、納得すると共に妙な感情の揺らぎを感じたベルに、ジードは続けてこう言った。

 

『ただまぁ、これはあくまで俺の持論なんだけど……本当に大事なのは誰と一緒に居たいかを感じる事じゃないの?』

『家族だとか友達だとか恋人だとか、そういうのは結局形式上のもの……ラベルみたいなもんなんだよ。一緒に居る相手の事をどう思うかは形式によって違うけど、その本質はどれも同じ。自分自身で接して、自分自身が好きだと思える奴と一緒に過ごして、同じ体験をする……それが〝良い〟んじゃないのか?』


 それを聞いた時、ベルは自分の中にストンと腑に落ちるような感覚を抱いた。

 出会ってから同じ時を積み重ね続け、どうして自分がジードの事に関心を抱くようになったのか、それが理解できたのだ。

 

(…………だから、私はあの時……) 


 命を懸けて死すらも覚悟したジードを見た時、どうして思わず彼の服を掴んだのか……自分で自分なりの答えを見つけたベルは、抱えていた疑問が解消され、そのまま静かに寝息を立て始めるのだった。 


 

――――――――――

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