十六 愛しの女房

 文月(七月)二十四日、昼四ツ(午前十時 巳ノ刻)過ぎ。

 山王屋を訪れた藤兵衛たちは奥座敷に通されて、主の与三郎の勧めに応じて上座に座った。与三郎は番頭の安吉を左後ろに控えさせて藤兵衛たちに挨拶した。

「私が山王屋与三郎です。本日はご足労いただきまして、誠にありがとうございます。

 藤正屋藤兵衛様のご要望は、番頭の安吉からお伺いいたしましたので、こうして私どもの絵師ともども、お待ちしておりました。

 このあと、藤兵衛様のお話を聞きながら、この透水絵師が藤兵衛様の御内儀の似顔絵を描きます。

 それがすみましたら打ち合せをし、その後、昼餉をともにしていただきとうございます。

 いかかでしょうか」

 与三郎の右隣りに、持ち物から絵師とわかる、痩せた小柄な四十がらみの総髪茶筅の者がいる。

「ご丁寧な説明、ありがとうございます。

 御店を開くにあたり、なにぶんにも女房を亡くしてどうしていいものやら途方にくれておりました。こちらで上女中を斡旋してくださるとお聞きして、番頭を使いに出した次第でございます・・・」

 藤兵衛の説明は商人らしく淀みがない。


「大切な御内儀を亡くしたのですから、ごもっともな事です。

 ささっ、ご要望の上女中の似顔絵を描きましょう。

 透水先生。頼みましたよ」

 与三郎の言葉に透水絵師が頷いている。

「では、御内儀の容姿をお話しください・・・」

 与三郎は藤兵衛を見つめて、女房に関する説明を求めた。

「わかりました。私の女房は・・・・」

 藤兵衛は打ち合せ通り、女房について話した。透水絵師はじっと藤兵衛の説明を聞いた。

 藤兵衛の話は四半時余り続いた。

 透水絵師は墨を含ませた筆で、紙に顔全体の輪郭を描いて、目や鼻や口などを描いている。

「お話から、口元、目元などを描くと、こうでしょうか」

 透水絵師は書きかけの似顔絵を藤兵衛に見せた。


「まさに私の女房のお藤です。

 このような上女中がいるなら、ぜひとも私どもの商いを手伝って欲しいものです」

 藤兵衛は透水絵師の描いた似顔絵に、与力の藤堂八郎が語った八重の面影を見いだした。

 夜盗が入った加賀屋の検分は町方が行っただけだ。加賀に顔を出しておらず、加賀屋の奉公人とは面識がない。

「商いだけでよろしゅうございますか。藤兵衛様のお世話もご希望なら、そのように言い含めますが、いかがなものでしょう」

 与三郎は、透水絵師が描いた上女中が既に存在しているかのような口振りだ。

 藤兵衛は与三郎の話に合せた。

「そのような事まで、できますでしょうか」

 番頭の安吉が与三郎の言葉を説明するようにつけ加える。

「そこは藤兵衛様の誠意次第というものでございましょう」


 はたと気づいたように番頭の正太が言う。

「私どもも、それなりの用意がございます。山王屋さんのご要望にそうようにいたしますので、なんなりとおっしゃってくださいまし。

 旦那様。それでよろしゅうございますね」

「かまいませんよ。お藤に似た上女中がいれば、商いにも張り合いが出るというもの。

 いかほど用意すればよろしゅうございますか」

 藤兵衛は、金に糸目はつけぬ、との態度だ。

「わかりました。目当ての上女中がおります。今、ある御店に奉公しておりますゆえ、その御店と折合いをつけねばなりませぬ。

 これ、安吉、手文庫をこれに」

 与三郎は番頭の安吉にそう言いつけた。

「はい、しばしお待ちを」

 番頭の安吉はその場を立った。


 まもなく番頭の安吉が手文庫を持って戻った。

 与三郎は手文庫から、書き付けと似顔絵を取りだした。

「この上女中。藤兵衛様の御内儀に似ていませぬか」

 与三郎は透水絵師が描いた似顔絵の隣りに、手文庫から取りだした似顔絵を並べた。

「なんということだ・・・」

 藤兵衛と番頭の正太は驚いた。事の次第を見ていた唐十郎は驚き一つ顔に表さなかった。

 与三郎は動揺せぬ唐十郎に、『この浪人、用心棒だけの事はある』と感じた。

「私どもが、ある御店に奉公に上がらせた上女中でございます。

 美人で才女とあり、先方の御店には、たいそうな仕度をしていただきました。

 今もって上女中のままですから、先方以上の仕度をしていただければ、先方も納得するかと思います」と与三郎。

「では、いかほどの仕度をお望みでしょうか」

 藤兵衛は与三郎を見つめた。金に糸目はつけぬという態度は変らない。

「先方にはこれだけの用意していただきましたから、これ以上になるかと思いまする」

 与三郎は手文庫から取りだした書き付けを畳に置いて、すっと藤兵衛の前滑らせた。

 藤兵衛は書き付けを見て、番頭の正太に確認した。

 書き付けを見た正太は、藤兵衛に頷いている。

「私どもはこれでよろしゅうございます」

 藤兵衛は与三郎を見つめた。藤兵衛の目は爛々と輝いている。


「では、先方に話をつけましょう。

 藤正屋様が御店を開くのは来月、葉月(八月)の二十日と伺っておりますゆえ、葉月初旬には、上女中の奉公の日取りを御連絡さしあげます。

 その頃、御店に入居なさっておいででしょうか」

 与三郎は藤兵衛を見つめている。藤兵衛の指物問屋藤正屋が、本当に開店するか否か確認している。

「はい、藤正屋には私どもがおりますから、いつなりともおいでくださいまし」

 藤兵衛と正太は、与三郎と番頭の安吉、透水絵師に深々とお辞儀した。

 今日は文月(七月)二十四日だ。十日もあれば、指物問屋藤正屋の店構えくらいは形になるだろう・・・。

 用心棒の唐十郎は会釈しただけだった。

「では、隣の部屋に昼餉を用意してあります。ごゆるりと召し上がってください」

「ご丁寧なお持てなし、ありがとうございます」

 藤兵衛たちは与三郎たちに礼を述べてお辞儀し、隣りの座敷へ移動した。



 昼八ツ(午後二時 未ノ刻)。

 昼餉が終って、しばらく休憩した後、唐十郎と藤兵衛と正太は与三郎たちに礼を述べて山王屋を出た。口入れ屋がある中村町内で三挺の駕籠を拾った。

「日本橋、田所町までお願いできますか」

「へえ、戻り駕籠でござんす」

 駕籠舁きは快く請け負い、三挺の駕籠は正太、藤兵衛、唐十郎を乗せて日本橋田所町へ向った。


 口入れ屋がある千住大橋南詰めの中村町から浅草山谷町を過ぎれば、東に浅草熱田明神があり、その奥には日野道場がある。

 唐十郎は、妻のあかねと神田横大工町の長屋で暮らしている。日野道場の従兄、日野穣之介が日野道場の後継者として名が知られているため、姿形が似ている唐十郎は穣之介の陰武者のような存在であり、日野道場の関係者と近所の者しか、唐十郎の存在を知らない。それでも、今日のような日は、ここ浅草山谷町界隈で、唐十郎と藤兵衛と正太が、日野道場の関係者や近所の者に顔を見られてはいけない。


 三挺の駕籠が浅草山谷町を通り過ぎた頃。

 唐十郎は、駕籠舁きと同じ足どりで駕籠のあとについてくる邪悪な気配を感じた。

 尾行されている・・・。与三郎の手下だろう・・・。藤兵衛が日本橋田所町へ行くか否か、探るつもりだ・・・。それにしてもこの気配、ただ者ではない・・・。


 その頃。藤兵衛も、駕籠のあとをつける異様な気配を感じた。

 日野先生が気にしていたのは、この事だったのか・・・・。

 藤兵衛は、田所町の亀甲屋を指物問屋の藤正屋に変える手筈を急いだ日野徳三郎の意を理解した。

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