七 粗相
半時も経たぬうちに、多惠と与三郎は番頭の平助が眠りこけている座敷に戻った。多惠の身体は全身が上気していた。ほろ酔いになれば、身体の火照りはごまかせる・・・。
多惠は膳の銚子を取って杯に注いで、いっきに酒を飲み干した。
「おやおや、多惠さんも、いける口だったんですね。では、一献・・・」
与三郎は奥座敷での口調とは違って丁寧にそう言い、多惠に杯を持たせて銚子から酒を注いだ。
「与三郎様も、お飲みくださいまし・・・」
多惠も言葉使いを変えて銚子を手に取り、与三郎の杯に酒を注いだ。
互いに杯を酌み交すと、多惠の身体に残っている残り火は、ほどよくまわった酒の酔いに変った。
九ツ半(午後一時)まで四半時ほどになった。
「平助さん、平助さん・・・」
多惠は平助の肩を揺り動かした。番頭の平助は膳の前で眠りこけている。
何度か肩を揺すると平助は目を覚ました。
「アアッ!いけませぬ!私としたことが、なんて事を・・・・」
平助の股間で、下帯がぐっしょりと濡れていた。
平助の慌てぶりに、薬が効いた、と多惠と与三郎は顔を見あわせて笑みを浮かべた。
そんな二人の様子を、平助は知る余裕はなかった。
「へいすけ・・・・」
多惠は番頭の平助を見て閉口した。
「わたしは、わたしは・・・・」
平助は慌てている。
「平助はお酒を飲むと・・・・」
驚いた顔でそう言う多惠に、
「いえ、決してそんな事はありません。今まで、酒を飲んでも、このような粗相をした事はありません・・・」
平助は慌てて言い訳してうなだれた。
「まずは着換えが先です。
これっ!おさよっ!」
与三郎は柏手を打って、下女中に平助の着換えを用意するよう言いつけた。
「この事は内密にしておきましょう。
酒を飲んで粗相をしたなどと知れては商人の名折れと言うもの。
商う呉服から小便が臭うなどと噂が立っては、商いの信用を無くします」
まずは着換えを・・・」
与三郎は着換えを持ってきた下女中のおさよに、別室で平助を着換えさせるように言いつけて、平助を別室へ行かせた。
平助が部屋を出てゆくと、与三郎が膝づめで多惠に近づいた。
「眠り薬が効いた。これで、平助の弱みを握った。平助は多惠の手下も同じだ。思いどおりにできる。
日取りを改めよう。御店の締日の翌日の夜はどうだ。毎月、奉公人に、慰労の宴を設けると聞いている。皆、酔い潰れるだろう」
多惠の耳元でそう言う与三郎に、多惠が言う。
「では、二十一日の夜九ツ(午前〇時)だね」
「人足と車馬を手配しておく。刻限をまちがえるな。雨天でもやるぞ」
「わかった」
与三郎は多惠から離れて自分の膳に戻った。
昼八ツ(午後二時)過ぎ。
多惠と番頭の平助を乗せた駕籠が日本橋呉服町の呉服問屋加賀屋に着いた。
平助は駕籠から降りると、手間賃を駕籠舁きに払い、
「奥様、此度の事は、くれぐれも内密に」
と、山王屋での一件を気にして、多惠にそう告げた。
「わかっていますよ。平助も気苦労が多くて、疲れていたのですよ」
多惠は優しいまなざしで平助を見つめ、弟はいたわるように微笑んでいる。
店の外に加賀屋菊之助が出て来て、多惠を出迎えた。菊之助は満面の笑顔だ。
「旦那様。ただいま戻りました」
多惠は菊之助に無事の帰宅を報告した。
「おお、よう戻りましたな。平助、ご苦労さんでした。
して、山王屋与三郎はいかがでしたか」
菊之助は平助にねぎらいの言葉をかけて、多惠に笑顔で尋ねた。
「与三郎様も、快く列席を承諾くださいました」
「おお、それは良かった。さあ、奥へ入って、山王屋さんの事を聞かせておくれ。
平助はいつものように、御店へ出ておくれ。
お加代。多惠の着換えを手伝ってください」
そう言って菊之助は多惠の手を引いて、店の横の通用口から土間を通って奥へ歩いた。
多惠は土間を歩きながら、店の雨戸の戸袋を確認した。閉めた雨戸は敷居から外れないが、戸袋の中なら、たやすく外れる。戸袋は簡単な作りだ。羽目板に棒を差しこんで捻れば、たやすく羽目板が外れる・・・。
多惠は上り框で足袋を脱いで、お加代が用意した手桶の水で足を洗い、板の間に上がって、座敷へ歩いた。
「ささっ、着換えて山王屋さんの事を聞かせておくれ。お加代。頼みますよ」
菊之助はそう言って奥座敷へ入った。
「はあい・・・。旦那様は、奥様にべた惚れですね」
多惠の部屋で着換えを手伝うお加代は、多惠の匂いがいつもと違うのに気づいた。
この匂いは男だ。旦那様ではない。若い男だ・・・。
お加代は匂いを嗅ぎ分ける才がある。平助のような独り身の若い男と、菊之助のような中年の男の匂いの違いはかんたんに嗅ぎ分けられる。
そう言えば、平助の着物が、出かけていった時とは違っていた・・・。
いったい、平助に何があったのだろう・・・・。
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