十八 多惠の従弟

 夕七ツ(午後四時)前。

 加賀屋の店の外に、浪人風の男が現れた。阿久津真之介である。

「急ぎの用があり、内々に、番頭の平助さんにお取り次ぎ願いたい。

 私は多惠の従弟の阿久津真之介と申します」

 加賀屋の店の外を掃き掃除していたお加代は、阿久津の出現を番頭の平助に知らせた。


 内々に多惠の従弟が会いに来たと聞いて、平助は急いで御店を出た。

「ささ、こちらへ・・・。何用ですか」

 平助は阿久津を加賀屋と隣の店の間の狭い路地に連れこんだ。

「この文を従姉に渡してくだされ。従姉の母が倒れましてな。今日明日の命と医者が申しておるゆえ、私も、ひと目なりとも伯母上に多惠殿を会わせたいと思うて急ぎ参りました。

 御店のみな様に、粗相があってはならぬと思い、従姉から言いつかっているとおり、平助様に御連絡した次第でして・・・」

 阿久津は粗相の言葉を強めて話して、しっかり糊付けして封をした文を平助に渡した。

 粗相の言葉に、平助はギョッとしながら、受け取った文を懐に入れた。まさか、従弟にまであの山王屋での粗相が伝わっていようとは思っていなかった。

「わっ、わかりましたっ。内々に文を渡しますゆえ、粗相の事は・・・」

「従姉から、直に従姉に連絡する時は平助さんが頼りだ、と聞いたものですから、文をお願いしたまでです。

 私はこの足で仙台へ戻りますゆえ、文をよろしくお渡しください」

 阿久津はそう言って平助に深々とお辞儀し、路地から通りへ出て日本橋へ歩いた。

 一足遅れて平助は路地から顔を出した。

 まもなく夕七ツ(午後四時)だ。日本橋二丁目の通りは人出が多くにぎわっている。平助は何食わぬ顔で通りの人混みに紛れて加賀屋に戻った。


 阿久津真之介と平助の様子を、下女中のお加代が、加賀屋の奉公人用の入口の陰から見ていた。お加代は平助が気になった。

 平助が多惠とともに、主の菊之助と多惠の祝言の挨拶で山王屋にへ行って帰った折、平助の着物は出かけた時とは違っていた。その時から、多惠を見る平助の目が、以前の平助とは違っている。そしてあの時、多惠から漂った若い男の匂いは平助のものではない。長年下女中として働いてきたお加代は、好意を寄せている番頭の平助の匂いをよく知っている。

 平助は山王屋へ行って帰る間、どこで着物を着換えたのだろう・・・。平助が着ていたあの着物は、平助とは違う匂いがした。多惠から漂った若い男の匂いと同じ匂いだ・・・。

 お加代は平助のあとをつけて奉公人用の土間を店の奥へ歩き、奥座敷へ上がった。雑巾とハタキを持って座敷の襖の陰から、奥座敷の様子をこっそり盗み見た。


 平助は奥座敷で多惠と話していた。

「奥様。従弟の阿久津真之介という方が、奥様に文を渡して欲しいとこれを・・・」

 平助は阿久津真之介の文を多惠に渡した。

「仙台の母上が危篤なので、急いで知らせに来たと話していました。

 たっての頼みで、内々に知らせて欲しいとの事でしたので・・・

 従弟の方は、その足で仙台に戻ると話していました」

「わかりました。ひと目なりとも、阿久津真之介殿に会えば、母上の容態を聞けたのですが、致し方ありません。

 良く知らせてくださいました。私がこちらに嫁ぐ事をどこぞから聞きつけて御店に粗相があってはならぬと思い、祝言に水を差す母の危篤を内々にしたかったのでしょう」

 多惠はとってつけたように従弟の気遣いを説明した。

「はい・・・」

 またまた粗相と聞いて、平助は驚いた。

「私から旦那様に話してどうするか決めますから、この件は内々にしておいてください。

 旦那様も、夜盗の件でいろいろ大変ですから・・・」


 粗相の一言で平助が言葉に詰っている・・・。

 襖の陰から話を聞いているお加代は、妙だと思った。

 多惠の従弟は、主の菊之助と多惠の祝言をどこから聞いたのだろう。多惠が親戚筋に祝言の知らせを出した覚えがない。知らせの文は全てを主の菊之助が書いて、番頭の平助が人を雇って届けさせている・・・。

 そして、二十一日深夜に夜盗騒ぎがあって、今は二十四日の夕七ツ(午後四時)だ。祝言をどうするか主の菊之助は決めていない・・・。

 お加代は、『あの浪人者は多惠の従弟ではない、文も、多惠の母の危篤を知らせる文ではない』と直感した。

 実の母の危篤を知らせるなら、正々堂々と御店に現れて主の菊之助に挨拶するのが礼儀だ。それをしない浪人など、身のほどが知れる・・・。

 お加代はごく自然にそう思っていた。


 奥座敷の平助は、粗相の話が出るかと思って冷や冷やしていた。

「奥様。わかりました。この事は内々にいたします・・・」

「この加賀屋の私の事で、お客様に粗相があってはなりませぬ。

 母とは、何年も会うておりませぬ。

 ですが、山王屋に奉公に上がって、こちらに奉公換えし、その後、旦那様に見初められて嫁ぐ事は、すでに仙台の母上に文を送って知らせてありまする。

 ですから、嫁ぎ先の窮状を母も理解してくださるでしょう」

「そうは言っても、母上の事が・・・」

 平助は、危篤な多惠の母を思った。

 多惠は受けとった文の封を開いて読んだ。

「これでは・・・。今さら、どうしようもありませぬ・・・」

 読み終えると、多惠は平助に文を渡した。平助は文を読んだ。

 多惠の母はすでに亡くなっていた。文の内容は、母の葬儀のために仙台に来て欲しいとの内容だった。本来なら母の喪に服して祝言は延期になってしまう。多惠の祝言に水を差す内容なので、阿久津真之介は、多惠の母が危篤だと平助に伝えていたと平助は思った。

「今さら、仙台へ行ったとて、母は生き返りませぬ。葬儀には参りませぬ」

 多惠はきっぱり平助にそう告げた。


 奥座敷の平助と多惠の話を聞いていたお加代は、静かに襖の陰から離れて、隣の座敷に入った。

「あっ・・・」

 座敷で与五郎が座卓に向って加賀屋の大福帳を調べていた。現れたお加代に気づいて与五郎は顔を上げた。

「お加代さん。あの浪人は何者ですか。

 立場上、私は、この御店に出入りする人たちを確認していますので・・・」

 今日(文月二十四日)、朝から、特使探索方の与五郎が、両替屋佐渡屋の番頭として加賀屋に奉公している。五千両を夜盗に盗まれた加賀屋に、銭金を貸して良いか否か、加賀屋の状況から判断するのが表向きの仕事だが、実際は、加賀屋にいるであろう夜盗の仲間が誰か、そして多惠を探り、八重の死因を探るのが目的だ。


「おや、佐渡屋の番頭さんは千里眼だね。座敷にいても外の事がわかるのかえ」

 お加代は嫌味のように与五郎を見つめた。

 浪人の阿久津真之介が加賀屋の前に現れたのは夕七ツ(午後四時)前だ。そのあと、阿久津真之介は平助と話しこみ、平助は預かった文を奥座敷の多惠に渡して、七ツ半(午後五時)前まで四半時も話している。

「浪人は平助さんに何を話していたのか、教えて欲しいのですよ」

「どうしてそんな事をあたしに訊くんですか」

 お加代は不審な目つきで与五郎を見ている。

 与五郎はじっとお加代を見つめかえして意を決した。

「お加代さんは、浪人を平助さんに取り次いだ。

 そして、奥座敷で平助さんが多惠さんに話していた事を聞いていた。

 ここからの話は、お加代さんだから話すんです。

 他言無用ですよ。いいですか」


 与五郎に見つめられて、お加代はしばらく考えていた。

「わかりました。誰にも話しません・・・」

「私が両替屋佐渡屋の番頭として、この御店に銭金を用立て良いものか否か、調べているのはご存じですよね」

「わかってます・・・。もしかして・・・」

「なんですか」

「佐渡屋の番頭さんは、この加賀屋に異変があれば銭の工面をしないんですか」

「そうです」

「異変は、人についてもなんですね」

 お加代は思い詰めた様子でじっと与五郎を見ている。

「そうです。以前の加賀屋と今の加賀の違いは、以前は主に御内儀がいたが、今は主に奥御内儀はおらず、上女中がいる事です。

 そして、加賀屋に上女中が奉公に上がってから夜盗が入って、そのあと、上女中に浪人が文を届けた・・・。怪しいと思いませんか」


「・・・」

 お加代は答えられなかった。多惠の容姿や物腰が前妻の八重に似ていても、心や思いが八重と同じはずはない。もし、多惠が八重を知っていて、八重の真似をしていれば、八重に惚れていた主の菊之助は多惠にのめり込んでしまう。陸事の後で菊之助が持っている鍵を使って土蔵と金蔵を開けるなど、造作もない事だ・・・。

「心当りがあるのですね」

「はい・・・。

 浪人は多惠さんの従弟で、仙台の阿久津真之介と言ってました。

 平助さんに文を渡して、多惠さんの母上が危篤だから、内々に、多惠さんに知らせて欲しいと言ってました。祝言間近の加賀屋に、母上の危篤は知られたくないと・・・。

 平助さんが多惠さんに文を渡すと、多惠さんは文を開いて読み、平助さんにも文を見せました。多惠さんは、仙台には行かぬ、と言ってました。

 と言うのも、文には、母上はすでに亡くなっているから仙台で行われる母上の葬儀に出て欲しい、と書いてあったようでした・・・」

「多惠さんは仙台へは行かぬと話したのですね」

「はい・・・。それと、先日、祝言に列席して欲しい旨を山王屋さんに伝えに行って帰った折、多惠さんから、旦那様とは違う、若い男の匂いがしました。平助さんは出かけていった時とは違う着物を着ていて。その着物の匂いと同じ匂いでした・・・」

「もしかして、お加代さんは、多惠さんの匂いが山王屋与三郎さんの匂いだとお思いか」

「はい・・、睦事の後のような・・・」

「お加代さんは匂いに才があるのですね。香の嗅ぎ分けなどをなさるのですか」

「はい。加賀屋の香は、あたしが選びますよ」

 お加代は匂いについて語った。

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