十九 内偵

「すると、お加代さんが呉服の匂いも確認しているのですか」

「はい、虫に食われたら大変ですから、それなりの香を炊き込めたりしますよ」

「では、山王屋へ祝言の報告に行って戻った多惠さんと平助さんから、与三郎さんの匂いがした。そして、多惠さんからは睦事の匂いがした。

 その事にまちがいないですね・・・」

「はい。あたし、多惠さんが山王屋与三郎と繋がっているように思います。そうでなければ、睦事の匂いなどさせて御店に戻るはずがありません・・・」

「そう、断言できますか」と与五郎。

「匂いに関して、あたしの才にまちがいはありません」

「そしたら、お加代さんにお願いがあります」

「何でしょう」

「多惠さんと平助さんの匂いの事は内密にしておいてください。

 そして、多惠さんと平助さんの動きに変った事が無いか、見張ってください。何か変った事があったら、知らせてください。

 私としても、できるだけ銭金を工面するようにしますので、この御店の悪い事は直してゆきたいのです」


「あたし、平助さんが心配なんです。あの人、人がいいから・・・。

 わかりました。見張ってみますね」

「お加代さんは、平助さんが大好きなんですね」

「はい。あの人、人がいいから、弱味を握られたりしたら・・・」

「何か、弱味を握られたとお思いですか」

「そうでなきゃ、山王屋の着物を着て帰って来るものですかっ」

「着物を着換えねばならぬ事が、山王屋で起ったと言うのですね。

 何が起ったのでしょう・・・」

 そう言って与五郎は座卓の大福帳を見ながら、着物を濡らして換えたな、と思った。 


「佐渡屋の番頭さん。与五郎さん。与五さんと呼んでいいですか」

 お加代は座敷の襖の前に立ったまま、大福帳を見ている座卓の与五郎を見つめている。

「ああ、いいですよ。お加代さんの好きなように呼んだください」

 お加代が刻限を気にしてそわそわした。もう七ツ半(午後五時)になるだろう。

「あたし、夕餉の仕度があるんで、これで失礼します」

「ここでの話は四半時の半分(十五分)にもなっていませんよ。

 それに、隣の座敷に人はいません。

 もし、誰かいても、静かに話していたから、何を話していたかわかりせんよ」

 与五郎はお加代の気持を汲んでそう言った。

「わかりました。それでは何か異変があったら与五さんに知らせます」


「あと一つ教えてください。前の御内儀はどうして亡くなったのですか」

「はい、眠り病と聞いてます。情の深い方でしたから、御店の切り盛りと、旦那さんとの毎夜の伽で疲れていたとの事でした。

 そしたら、与五郎さん。またね・・・」

 お加代は与五郎がいる座敷から出ていった。


 与五郎は座卓の大福帳を見ながら、周りの気配を探った。隣りの座敷に人の気配は無い。皆、御店にいる。下女中は夕餉の支度で土間の奥の炊事場だ・・・。

 おや・・・。

 与五郎は土間の先の、奥座敷に面した奥庭に違和感を感じた。

 この気配、ここの奉公人ではない。常人とは違うこの気配はおそらくあの浪人だ・・・。

 小間物の辻商いをして、客の気配や思いを数限りなく感じてきた与五郎だ。奉公人など町人の気配と、香具師など生死の瀬戸際を足り歩いた者の気配の違いはよく知っている。

 与五郎は座敷を出て、土間の草履を履いた。炊事場のお加代たち下女中に、愛想良く挨拶して、土間を奥へ歩いた。炊事場の下女中たちは、両替屋の番頭が土蔵を見に行くのだろうと思った。お加代は、与五さんが何かに気づいたと思った。


 店から続く土間は炊事場の横を通って、奥座敷に面した奥庭に続いている。奥座敷へは、炊事場の横の廊下伝いにも、店から店の座敷を通って与五郎がいた座敷を抜けて、お加代が潜んでいた座敷を通っても行ける。土蔵はこの奥座敷と奉公人たちが寝食している棟の裏手にある。


 与五郎は土間を歩いて奥座敷に面した裏庭に出た。今、奥座敷に人の気配は無いが、この庭に立てば、雨戸を閉めぬ限り、奥座敷の話し声は聞ける・・・。

 与五郎は裏庭の先にある塀を見た。奥庭からは塀と裏木戸をはっきり区別できるが、加賀屋に入る前に確認した塀の外からは、土蔵の観音開きの塗り壁戸のような造りの裏木戸は、いったん閉じてしまえば、外からはそこに木戸があるとは見分けがつかない代物だった。

 やはり、内情を知る者が夜盗を手引して裏木戸を開けた・・・。あるいは、内情を知る者が裏木戸の造りを夜盗に知らせ、夜盗が塀を乗り越えて裏木戸を開けた・・・。

 今のところ怪しい動きをしているのは、多惠と番頭の平助の二人と、この気配だ・・・。

 与五郎は裏木戸がある塀に耳を澄ませるように、松の幹を背にして松の梢の下に立った。

 松の幹が奥座敷と座敷の気配を遮って、塀の外の気配が与五郎に伝わってきた。その時、

「あっ・・・」

 塀の上に黒い影が動いた。黒い影は、何かに驚いて塀の上を走る黒い猫だった。

「猫か・・・」

 そう言った与五郎だが、塀の向こうに総髪茶筅の髷が移動するのを見逃さなかった。


 この気配は、夕刻、番頭の平助を尋ねてきたあの浪人、阿久津真之介だ・・・。

 奴は仙台になどへ戻っていない。この加賀屋を探っている。裏の塀から加賀屋の敷地に入れると知っている阿久津真之介は、やはり夜盗の一味だ・・・。

 阿久津は多惠が加賀屋から抜けるのを待っている・・・。何のためにか・・・。

 藤正屋に奉公させるためか・・・。そうだな・・・。

 そう考えた与五郎は急いで土間を戻った。

「お加代さん。佐渡屋に戻ります」

 はあい、と言うお加代の声を耳にしながら、与五郎は加賀屋を出た。

 阿久津真之介が戻る先は口入れ屋の山王屋だ・・・。

 そう目星をつけて、与五郎は加賀屋から日本橋へ急いだ。

 日本橋を渡った北詰で、与五郎は阿久津真之介の後ろ姿を見つけた。

 もうすぐ暮れ六ツ(午後六時 日没の三十分前)だ。小半時もすれば日が暮れる・・・。

 与五郎は阿久津真之介に気づかれぬよう、距離を取ってあとをつけた。

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