二十 山王屋与三郎の策略

 六ツ半(午後七時)。

 半時余りで阿久津真之介は千住大橋南詰め中村町の山王屋に着いた。与五郎にあとをつけられたとも知らずに、阿久津真之介は山王屋の暖簾に手をかけた。

「先生。遅かったじゃないか」

 出迎えた番頭の安吉に頷き、阿久津真之介は言う。

「多惠殿は戻らぬ。加賀屋の番頭の平助に、そうはっきり話しておった。今頃、主の菊之助に文を見せて、話しておるだろう」

「では、佐恵を呼ぶか。早飛脚を使えば行きに二日、佐恵がこっちに着くのに八日。

 藤正屋が店を開くのは来月(葉月(八月))の二十日。葉月初旬に、上女中の奉公の日取りを伝えると言ってある。充分まにあう。

 多惠の始末はその後でいい。与三郎にそう伝える」

「しかし、多惠殿はなぜに心変りしたのだ・・・」

 そう話しながら、阿久津真之介は番頭の安吉とともに店の土間伝いに歩いて座敷へ上がって、そこから廊下へ出て奥座敷へ歩いた。


 奉公人たちは炊事場に集って夕餉を食していた。

 廊下を奥座敷へ歩いて炊事場の横を通ると、阿久津真之介と番頭の安吉は口を噤んだ。

 安吉が下女中たちに、

「夕餉の途中ですまないが、奥へ夕餉を運んでください・・・」

 と低姿勢に頼んだ。

「いやですよお。もう、奥に運んどきましたよお。旦那様が待ってますよお。

 今、暖かい汁と飯を運びますねえ」

 昨日奉公に上がったばかりの下女中のおよねが、夕餉の善の前から立ちあがった。

「酒を運んでくれましたか」と番頭の安吉。

「はい。汁と飯は、あとにしますか」

「そうですね。では、酒を四本ほど運んでください。飯と汁は旦那様に聞いてからにしましょう。夕餉の時に、すまないねえ」

「いいえ、とんでもありませんよお」

 と言うおよねに愛想笑いして、安吉と阿久津真之介は廊下を奥座敷へ歩いた。


およねは燗徳利に酒を注いで炊事場の箱火鉢の湯に入れて手際よく燗をつけ、奥座敷へ運んだ。

 襖を開け放った奥座敷に近づくと、主の与三郎が番頭の安吉と阿久津真之介に、

「藤正屋に奉公させる上女中は、佐恵にする」

 と話す声が聞える。およねが近づいても三人の話は途切れない。およねは三人の話を聞きながら、燗をつけた徳利四本が載ったお盆を番頭の安吉のそばに置いて、汁と飯をいつにしますか、と訊いた。

「それでは、酒を飲み終える頃合いを見て、運んでください」

 およねは、はあい、と言ってはすぐさま炊事場に戻った。



 宵五ツ(午後八時)過ぎ。

 文月(七月)の夜は暑い。夕餉の片づけを終えて、およねは夕涼みがてら外へ出た。

 山王屋の前の通りは奥州街道だ。千住大橋南詰め中村町は旅籠屋が多い。旅籠屋の軒下に下がる提灯で通りは明るい。

 およねは山王屋の店先の縁台に腰かけて、寄ってくる蚊を団扇で追い払いながら、通りを行き来する者たちをそれとなく見ていた。


 千住大橋南詰めから大店の商人らしい小綺麗な身なりの男が歩いてきて、およねに、

「涼んでいるところを申し訳ありません。

 日本堤の吉原へ行くのはこの道で良いのでしょうか」

 と尋ねた。およねは、

「この道をこのまま南へ歩いて、山谷浅草町を過ぎたら辻を西へ曲がって元吉町の方へ行き、道なりにそのまま先へ行けば吉原に着きますよ」

 と教えた。

 男は、

「これはこれは、親切に教えてくださって、ありがとうございます。

 お礼と言ってはなんですが、受けとってくださいまし」

 と丁寧に頭を下げて、小さな紙包みをおよねに手に握らせた。 

受け取った紙包みの角張った手触りに、中身は一朱銀(一朱は二百五十文に相当する)だとおよねはわかった。蕎麦一杯が十六文のご時世だ。余りに法外なお礼に、およねは正直に、

「一朱なんて、旦那さん、多すぎますよ」

 と言って男へ返した。

 すると男は、

「正直なお前さんへお礼ですよ。それで多ければ・・・、その団扇、何やらしたためてあるようですね。それは何ですか」

 と尋ねた。およねは、

「あたしのちょっとした思いを書いた物です。川柳のような・・・」

「では、私に、その団扇を売ってくださいまし。さすれば一朱でも納得ゆきましょう」

 そう言って男は紙包みをおよねの手に握らせて、団扇を受けとり、通りを山谷浅草町の方へ歩いて行った。団扇を男に渡して蚊を追い払えなくなったおよねは、まもなく店に戻った。

 男は、千住大橋南詰め中村町の山王屋まで阿久津真之介を尾行してきた、与五郎だった。そして、およねは、下女中として与五郎が山王屋に潜入させた、与五郎の辻売り仲間で小間物売りの沙耶だった。


 通りを日本橋の方向へ戻りながら、与五郎は沙耶から受け取った団扇の裏を見た。そこには沙耶が下女中およねとして聞いた、与三郎と阿久津真之介と番頭の安吉らの藤正屋襲撃の策略が書かれていた。


 与五郎は来る時と同様に、小走りに日本橋方向へ戻り、四半時もかからずに浅草熱田明神そばの日野道場に着いた。

「日野先生。これを・・・」

 与五郎は、お加代が語った八重の死因と、阿久津真之介と多惠の件を話して、およねに扮した密偵の沙耶から得た団扇を徳三郎に見せた。

「では、私はこれらの事を唐十郎様に知らせますんで」

「待ちなさい。慌てずとも良い。明日にしなさい。まだ日はある」

 唐十郎と藤兵衛たちと達造と仁介は日本橋田所町の指物問屋藤正屋にいる。

「あっしは本両替町の両替屋佐渡屋に帰らねばなりませんから・・・」

「おお、そうであったな。では、知らせは明日にして、佐渡屋に帰りなさい。

 篠が握り飯を用意した。もっと行くがよいぞ」

「ありがとうございます。本両替町から田所町までチョイの間ですから、八重さんの死因と、阿久津真之介と多惠の件と、この団扇の件、これらを唐十郎様に伝えて渡してきます」

 与五郎がそう言って、徳三郎の妻の篠から竹皮に包んだ握り飯を受けとると、徳三郎は、

「気をつけて行くのだぞ」

 と納得して与五郎を送り出した。


 五ツ半(午後九時)過ぎ。

 与五郎は田所町の藤正屋の裏口へまわって、裏口から静かに店に入った。

 沙耶(およねに扮した密偵)から受けとった団扇を唐十郎に渡して、阿久津真之介と多惠の件の経緯と八重の死因を説明し、徳三郎にも報告したと伝えた。

「阿久津真之介と多惠の件。八重の死因。この団扇の件、あいわかった。

 この佐恵という女が山王屋に着くまで十日。この藤正屋に上女中が奉公するのはそれ以後だ。

 与五郎。早く帰って休め。明日は大仕事がある。加賀屋の多惠も探ってもらわねばならぬ。ところで、与五郎はつけられていないな」

「はい。抜かりありません。では、また、明日」

 そう言って与五郎は藤正屋の裏口から外へ出て裏長屋を抜け、新大坂町の通りへ出た。そして、通りを北西へ歩いて通旅篭町の通りへ出て西へ歩き、本町の通りから本両替町の方向へ歩いた。時折、辻に入って後ろを見るが、つけられてはいなかった。

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