十七 指物問屋藤正屋

 八ツ半(午後三時)過ぎ。

 三人が乗った駕籠は半時余りで日本橋田所町の指物問屋藤正屋(元亀甲屋)に着いた。

 駕籠を降りた藤兵衛は藤正屋の軒先を見た。『藤正屋』の暖簾がある。

 いずれ正太とともに大工の御店を開きたいと思い、暖簾を作っておいて良かった・・・。

 藤兵衛はそう思いながら、駕籠を降りた唐十郎に目配せした。駕籠を尾行していた男は田所町から新材木町へ行く北の辻角に身を潜めている。

 唐十郎は藤兵衛に目配せを返した。唐十郎も尾行した男が辻角に身を潜めたのを認めている。山王屋与三郎を捕縛するまで、こうした輩は見逃すしかない・・・。


 藤正屋から、奉公人に扮した飴売りの達造と毒消し売りの仁介が出てきて、藤兵衛と正太、唐十郎を迎えた。

「旦那様。お帰りなさいませ。ご隠居さんがお待ちです。欅の玉杢の手文庫を欲しいと言って・・・」

 達造と仁介は暖簾を揚げて、主が藤正屋に入りやすいようにしている。

「もう、おいでですか。御店を開く来月まで待っていられないのでしょう。ご隠居さんは欅に目がありませんからねえ」

 藤兵衛は暖簾をくぐりながら正太にそう話して藤正屋に入った。


 唐十郎は藤正屋に入る藤兵衛と正太を見ながら、視界の片隅に見える辻角を確認した。

 潜んでいる男は町人ではない。その辺の無頼漢とも違う。放つ気配からかなりの手練れとわかるが、ここまで殺気めいていると手練れの程度が知れる。真の手練れは殺気を放たずに事をやってのける。この男、剣に関して限界であろう・・・。

 そう感じながら、唐十郎は用心棒らしく藤正屋の周囲を見渡した。辻角に潜んだ男を除けば不審者はいない。唐十郎は達造と仁介を連れて藤正屋に入った。


 藤正屋の者たちが店に入ると、着流しに刀を一本落し差しにした浪人者が辻角から歩いてきた。通りの先の長谷川町に視線を向けているが、藤正屋に並々ならぬ注意を払って藤正屋の気配を探りながら通りを過ぎ去った。

 しばらくすると男が引き返してきた。ふたたび藤正屋の気配を探り、もと来た道筋を戻っていった。


 この様子を、唐十郎は気配を消して、藤正屋の二階の格子戸の前に立っている、唐十郎の妻あかねの肩越しに見ていた。

 あかねは今は亡き大老堀田正俊の養女で、堀田正俊に仕えていた忍びだ。自身の気配を消すなど造作もない事である。たとえ男に気づかれても、奉公人が拭き掃除しているとしか思われぬよう上女中の身なりだ。

「唐十郎様。刺客ですね」

「そうらしい。夜盗の一味だろう」

「単なる夜盗ではなく、押込み強盗になるのでしょうか・・・」

 あかねは、押込み強盗に発展するのを気にかけている。

「そうはさせぬ・・・」

 今のところ、北町奉行は加賀屋の夜盗事件を火付盗賊改方に任せず、町方に任せている。

 町方はどちらかと言えば文官の集団だ。一方、火付盗賊改方は盗賊との刃傷沙汰を想定した武装集団で、怪しい者は容赦なく捕縛し、拷問にかけてでも自白を強要する。事件解決どころか冤罪になる者が多く、解決した事件は数少ない。


「唐十郎様。下においでくださいまし。ご隠居さんからお話があります」

「わかった。すぐに行く」

 階下からの正太の声にそう答えて、唐十郎はあかねを抱きしめた。

「すまぬな。二人だけになれる時が無くて・・・」

「わかっています。こうしてもらうだけで、あかねは溶けてしまいそうです・・・」

 そう言ってあかねは唐十郎の唇に唇を触れた。


 その頃。

 藤正屋を探っていた男は名を阿久津真之介といった。上州無宿の浪人で、この春から口入れの山王屋の用心棒として雇われている。この藤正屋が、元は、日本橋界隈の裏世界を牛耳っていた香具師の藤五郎が所有していた亀甲屋で、藤五郎の抜け荷の咎と殺しの咎で、取り潰し(廃業)になっている店などと知る由もなかった。

 阿久津真之介は藤正屋を去った後、大伝馬町通りから本町通りを西へ歩いて室町通りを南へ歩き、日本橋を渡って日本橋通りから日本橋呉服町の呉服問屋加賀屋の前に着いた。

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